12

 ビビはそれから度々、虹の夢を見るようになった。

そしてその都度、最後には虹が透けてなくなり、空から落っこちるところで目が覚めた。

 仕立ての良いスーツを着ている男性も度々夢に登場するようになった。いつもいつも、全く役に立たないアドバイスをするのだ。例えばこの男性、ビビが食事をしているテーブルの傍に立ち、

「良いかね、君は私を信用しちゃあいけないよ」

と言う。

「そうでないと、その肉の味がどんどん薄くなるんだ。それでも私を信用しようとすると最後には、その肉は消えてなくなるんだよ」

 無論、ビビはその男性に反発した。

「食事の最中に話しかけないで!」

「いやいや、食事中だからこそ、君は私の言葉に耳を傾けないとならないのだ。ほらご覧」

 するとどうだろう、目の前の肉が、ミニサイズではあるが、元の牛に戻っているではないか!

「え、え?」

「良いかね。私を信用すると、事実は事実ではなくなるんだ。しかし全く信用しないというのもよくない。事実はいつでも一つだからね」

 男性はとても丁寧にビビに接していたが、言ってることのほぼ全てが、ビビには全くわからなかった。

 この人は何が言いたいの?

 しかし男性はお構いなしだった。

「私の目を見てご覧。大きな穴ぼこが空いているだろう?ほら、よぉく見てみるんだ」

 見ると、確かに目と思われる場所に、大きな穴ぼこがぽっかりと空いている。

「その穴ぼこの奥には何が見えるかな?」

「うーん」

「何も見えないのかな?」

「はっきり言って、何にも見えない」

「ふふん。まだまだだね」

「何がまだまだなの?」

「穴ぼこの深さだよ。まだまだ浅いのだ」

「?」

「何も不思議なんてありはしないさ。それどころか、君には実は見えていたはずだ」

 気づくと、ビビと男性は虹の一番高いところに立っている。風がビュービューと吹いて、あちこちがゆらゆらと揺れているのに、全く怖くない。それどころか、ビビは揺れていることを楽しんでいた。

「ここから見る景色を君は覚えているはずだ。例えば……ほらあそこ!」

 男性が指差す方向をビビが見ると、そこには空のうんと高いところまで伸びている一本の木があった。

「あの木のてっぺんに登れる人はほぼいない。しかしだ」

 男性は出っぱった腹をもったいつけるように撫でると軽く咳払いをして

「"#)&<>=〜||#!?なのだ」

「はい?」ビビは面食らった。

「だから、"#)&<>=〜||#!?なのだ」

 何を言っているのか、全くわからない。

「ねえ、私を馬鹿にしてるの?」

「そんなことはない。なぜなら、私は君を教え導く義務があるからだ」

「そうなの?」

「うむ」

「じゃあ、もっとわかりやすく教えて!」

「何?すると、君には私の講義はわかりにくい、と、そう言うのだね」

「わかりにくいなんてもんじゃないわ」

「それは済まなかった。では私は退場しよう」そう言うと、男性は頭から真っ逆さまに落ちていった。

「あ!」

 目が覚めると、アンナがビビの顔を覗き込んでいる。

「怖い夢でも見たの?」

「……違うの、なんでもない」

 夢の中に出てくる男性は、いつもいつも顔の部分に靄がかかっている。だから、どんな顔なのか、ビビには全くわからない。しかし、ぼんやりとではあるが、メガネをかけているようであることはわかった。いや、ひょっとしたらそれはメガネではなく目玉なのかもしれない。その目の中心部分には、大きな穴ぼこが空いているが、気持ち悪さはなかった。男性は言った。

「君にいいものをあげよう!」

「何をくれるの?」

「これだよ」男性は十二色の色鉛筆が入った箱をビビに差し出す。

「いいかね。君と私の立っているこの虹は、補強しないとすぐに壊れてしまうのだ。いつもは私が補強しているのだが、今回は君が直すのだ」

「どうやって?」

「もちろんその色鉛筆を使って直すのだ。君の好きな色で塗るんだよ。ほら、ここなんて、色がこんなにも剥げてる」

 確かに、虹の一部は色が剥げ落ちているようだ。剥げ落ちた部分は、真っ白で、それはまるで塗り絵の元絵のようだとビビは思った。

「あくまでも君の好きな色で塗るんだよ」と男性。

「そうだ。ついでに私の腹も塗ってくれないだろうか。どういうわけなのか、こんなにも薄くなっているのだ。色は黒がいいな」

「黒……?」

 ビビは黒色を探したが、どこにもない。

「黒がないよ」

「何?それは大変だ……と言いたいところだけど、それはそうさ。ほらよく見てご覧。もう君がここに黒をたくさん塗ってしまったから、すっかりなくなってしまったんだよ」

 見ると虹の色が真っ黒になってしまっている。

「私、こんなところに黒なんて塗ってないよ!」

「おや、怒っているのかい?しかし怒ってはいけないよ。事実は事実だからね」

「本当に塗ってないってば!」

「本当に塗ってないと言うなら、君のその髪をご覧」

「あ!」ビビは気づいた。金色に煌めいているはずの自分の髪が真っ黒になっている!しかも全く艶のない黒だ。重苦しくべったりと肌にまとわりつくような黒だ。

「何これ!」

「どうだい?憧れの黒髪は嬉しいかい?」

「嫌!」

「そんなことはないはずだ!なぜなら君は黒い髪に憧れていたからだ」

「嫌なものは嫌!」

「君は何人なのかな?」

「日本人に決まってるじゃない!」

「ならば黒髪で正解だ」

「私の髪は金色なの!だから嫌なの!」

「これは私からのプレゼントなのだ」

「何それ!」

「ひょっとして気に入らないのかな?」

「嫌に決まってるでしょ!」

「ふむふむなるほど。これはまたなんともわがままなお嬢様だ。ならばその黒髪を金色でも、あるいは好きな色でもいいから塗り直せばいいだろう」

 しかし十二色の色鉛筆の中には、金色も、あるいはビビの好きな色もなかった。ビビは悲しくなった。

「黒って変でしょ?変じゃない?」

「それは君次第」

「えー」

「腹が黒くなければどうってことはないのだ」

「腹なんて黒いわけないじゃない」

「それはそうだ。ところで、せっかく色の話をしていることだし、もののついでということで、一つお願いがあるのだが……」と男性。

「何よ!」

「私の顔を描いてはくれないだろうか?私の顔はまだはっきりしていない。そうだろう?」

「そういえばそうね。あなたには顔がないの?」

「どこかに忘れてきたようだ。いつもいつも霞んではっきりしていないからね。だから君の顔もぼんやりとしか見えないのだ。こうなったら、君が私の顔を新たに作るしかない」

「えー。私、絵を描くのは苦手!」

「簡単でいいのだ」

「そんなこと言われても……」

「大丈夫。目が二つに、鼻と口は一つずつ。眉毛も欲しい。あとは耳もね。メガネはお好みに任せるよ。簡単に書いてくれればいいのだ。元々この世界を作ったのは君なのだから、私の顔なんて楽なものさ」

「えー。私、この世界なんて作ってないよ」

「そんなわがままなことを言っていると、ほらご覧!大変なことになるよ」

「あ、虹が薄くなっていく!」

 薄くなった虹はやがて消え、そしてビビは真っ逆さまに落ちていったのだった。

 虹の夢と男性の夢は、ビビにとっては悪夢ではないが、さりとて心地いい夢というわけでもない。

 疲れているから見るというわけでもなく、見ることを心待ちにしているから見るというわけでもない。強いて言うなら、いつの間にか見てしまうものだった。しかし、また見たいなぁと思うと、見ることができなくなってしまう。自分の思い通りに見ることはできなかった。

 しかしながら、そうやって何度も見ているうちに、虹の夢も男性の夢も、ビビにとっては徐々になじみ深いものとなっていった。そしてそのうち、夢の中で、

 これは夢だ!

と思うようになってしまった。

「あなたは夢の中の人なんでしょ?」

とビビは夢の中で夢の男性に言った。

「夢?」珍しく男性が聞き返す。

「君はそう思っているのか?」

「ええ。だってこれは夢なんだもの」

「ほほう」と男性。

「私にはよくわからないが、すると……」

 いきなり虹を消しゴムで消し始める。

「このように消しゴムで消したら、夢は夢でなくなるのかな?」

「え?そこまでは私にもわからないけど……」

 ビビは困惑した。虹の真ん中の部分が消しゴムで消されて、二人は離れるようにして立っているのだ。

「なんだか怖い!」

「大丈夫」と男性。

「この色鉛筆で消した分に描き足せばいいのだから」

「何色がいいかしら?」

「好きな色を塗ればいいのだ」

「ということは、藍色とか金色とか、白とかでもいいの?」

「色は自由なんだよ。決めつけてはいけない」

「でも、この色鉛筆セットには黒しか入ってないわ。黒い色鉛筆だけが十二本も入ってるの。そして他の色の鉛筆が一本も入ってない」

 目を凝らして見るとわかるのだが、色鉛筆の箱の中には、黒は黒でも、種類が違っている黒い色鉛筆が十二本入っていた。それらの色鉛筆には

 真っ黒

 ちょっと黒

 微妙な黒

 淡い黒

 黒々しい黒

といったような文字が金色で刻まれている。黒にもこんなに種類があるんだとビビは感心した。しかし感心してばかりもいられない。

「これじゃあ虹を描けないわ」

「虹は描くものではない」男性はキッパリと言い放つ。

「虹は渡るものだ」

「え?でも、さっきは……」

「君はこの虹を渡らなければならない」

「そうなの?」

「いいかい、一度だけしか言わないよ。右回りではなく、左回りに進むんだ。いいね。左回りだよ。そして帰りは右回りだ」

「なんで帰りは右回りなの?」

 夢の男性はそれには答えてくれなかった。

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