第10話 なんとなく寂しい

 大人というのはどっしりしているのか、ママからの電話は一日一度。留守電は『ちゃんと食べてますか? 待ってます』。

 なんとなく寂しい。

 この『なんとなく寂しい』を子供の頃から持て余している。


 わたしが小学校高学年になると、ママはパートを始めた。スーパーの品出し。九時から午後三時まで。

 学校に行ってる間に終わる仕事。

 パパは大人しい気質の人なのに、仕事のこととなると人が変わる。写真を大学では専攻してて、デザイン会社に就職した。周りの人はそれでいいと思った。

 でもパパはそうは思ってなくて、写真を使ってもらえない、撮らせてもらえない、デザイン案が通らない、となると我慢できずに転職した。

 今思うと、家計も大変だったんじゃないかと思う。

 もしかしたら子供がひとりなのもそのせいかもしれない。

 それに関しては、ママの双子の妹、サクラさんの息子アキが、ママにとっても我が子同様だったので補完されたのかもしれないけど。

 とにかく、ママは働き始めた。


 もちろん朝は「いってらっしゃい」、帰りは「お帰りなさい」をしてくれたけど、どこか違う。

 ママからは家じゃないどこかの匂いがする。

 それは本当の意味での匂いではなくて、朝夕の挨拶の時さえ、どこかちょっと焦ってるような。

 ママは完璧主義で手を抜かない。だからこそ、たまには自分のための時間をとる、余裕を作る、ということができなかったのかもしれない。

 いつもきっかり行動するママに、気が付くと遠慮して甘えられなくなっていた。

 雨の強い日も傘をさしてひとりで通学した。

 お友だちは『雨の日お迎え』で、校門前にお母さんたちがずらっと迎えに来てる、そんな日でも。

 ある雨の日、突然ママが迎えに来た。

 夢かと思った。

 ママにとって、『雨の日』と『通学』は別のカテゴリーなのかと思っていたからだ。

 ほかの子たちみたいに傘をさしてママのところに走ればよかった。

 でもできなかった。

 わたしはママを突っぱねた。「ひとりでできるから来なくていい」と。


 バカな子供。

 そういう小さなことのひとつひとつが重なって、どこかに隙間を作っていく。

 こうして『寂しい子供』は勝手にできあがった。


 愛情は欲しかったし、パパもママもわたしをそれぞれの形で愛してくれてるのはわかっていた。

 でもなにか違うんだ。

 今でもわからないけど、いつでもどこか少し寂しいんだ。

 すきま風が吹く。


 アキのアイコンを眺める。

 タップすれば一度に幾つものメッセージが既読になるだろう。

 あの子は心配性だから、きっとたくさん、メッセージをくれてるはず。

 さっきも新しく届いた。

『心配してるよ。遠くに行かないで。迎えに行くから』

 迎えに来る、というのはわたしたちの大きな約束で曖昧にしていいことではない。

 わたしが空飛ぶ風船だとしても、アキは高い木に登ってわたしを捕まえるだろう。

 そう、今回も、たぶん。

 わたしは今もそれを待ってるふしがある。拗れてる。


 あーあ。


 キュウリをとにかく細くたくさん切る。

 トントンと包丁がまな板を叩く、いい音がする。

 棒棒鶏にキュウリがないなんて。そんなのはダメ。

 味付けだけど、クラゲも買ってきた。

 クラゲって、あの海を泳ぐあれなのか、未だに確証が持てずにいる。だって海から出したらすぐに水が乾いてぺちゃんこになりそうだもの。

 くだらないことを考える。

 時計が動き、日は傾く。

 日時計のように、窓から入る光が壁に映る角度を変えていく。

 ⋯⋯なにやってんだろう? 厨二か?


 足音が聞こえてきて気持ち、焦る。

 えーと、ちゃんとできてる? えーと、えーと。

 クリーニングには言われた通り出したし、ご飯は今、蒸気を上げている。

 これでちゃんとできてる?

「ただいま。今日は出かけなかったのか」

「ううん、昼間、大学の友だちに会ってきて、プラネタリウムに行ったの」

「ふーん、いいな。そんなところ、ずいぶん長いこと行ってない」

「じゃあ今度行こうよ。最近のプラネタリウムってすごくキレイなの。シートもフカフカでリクライニングできるし、ちょっと特別感ある」

 恭司はネクタイを外して上着をハンガーにかけた。

 夏なのに、暑そう。

「なんの仕事なの?」

 恭司が目線を上げてわたしを見る。

 思わず口にしてしまったけど、訊いたらいけないことだったのかもしれない。


 恭司はわたしを見て、顎に手を当てた。

 うーん、と唸る。

 いや、訊かない方がいいなら答えなくても。

「ちょっと思っただけ。別に本当に知りたい訳じゃ」

「黙ってる方がいいかと思ってたんだけど、得体がしれないっていうのは気持ち悪いよな。その前にハルが帰ることもあるかなと思ったっていうのもあるけど」

「あー。⋯⋯ごめんなさい」

 恭司は適当に手を振って、別にいいから、と言った。

 そして部屋の奥に着替えに行ってしまった。

 いや、ほんと、絶対知りたいとか気になるとか、そういうんじゃないんだけどなぁ。

 仕事がなんだって、例えばヤクザだったとしても、わたしにとってはいい人で恩人に変わりないんだから。


 いつも通り、楽な服装になった恭司は台所をそっと覗いた。

「お前、割と神経質なんだな。キュウリ、切り方キレイすぎる。ひょっとして調理師免許持ってる?」

「持ってないって」

 大きな口を開けて笑う。

 目尻にシワが寄る。そこがすき。太い眉毛が気を許して下がるのもすきだけど。

「俺はカウンセラーなんだ」

「カウンセラーってつまり、あの、心理学者?」

「心理学は確かに勉強したけど。要するに人の話を聞く仕事」

 言ってしまえば確かにそうかもしれない。

 それで聞き上手なのかもしれない。

 話してても話題がスルッと出ちゃったり。


「でもお前のカウンセラーなわけじゃないよ。ハルとは普通でいるつもり」

「あ、そうなの?」

「聞いてばかりじゃ疲れるしな。仕事の時には自分を入れたりしないし」

「ふーん」

 わたしは簡単に顆粒スープで作った卵スープを温めなおした。刻んだニラを投入する。

「カウンセラーっていうのはひとつのところに常勤てわけにはなかなかいかなくて、スクールカウンセラーやったり、カウンセリングルーム行ったり、病院に行ったり、一週間の中で行くところが違うんだ」

「で、服装も違うわけ?」

「そう。パリッとしたものを要求されるところと、逆にラフなものを要求されるところがあるんだよ」

 へぇー、と卵を渦を巻くスープに細く流していく。

「上手いもんだな」

「簡単にできるし」

「俺はいつも卵が固まるけど」

「下手なんだね」

 デコピン食らう。でも今日のはやさしかった。


 この人と向かい合わせに食事をするのも慣れてきた。

 なんだかずっと前からそうだったんだよ、と言われたら、そうかもと思うかも。

 恭司はご飯中、言葉数は少なかったけど、代わりに美味しいものは美味しいと、ちゃんと褒めてくれた。

 よく褒められないのが普通と聞くけど、恭司に限ってはそんなことはなかった。


「ハル、心配してる人いないの?」

「いるよ、もちろん」

「連絡してる?」

「ううん。でも今日は友だちには会ったし」

「そうか」

「うん、楽しかったよ」


 恭司はクラゲは苦手なのか、茶碗の上で持て余してるように見えた。くすり、と笑ってしまう。

 そういうところ、子供みたい。


「彼氏とかいないの?」

 笑ってる場合じゃない。ごくり、と唾を飲む。

 この話題はどうにも苦手だ。別に知られるのが嫌なわけじゃない。

「いる。地元に」

「そっか、遠恋か。じゃあ家出してるの知らないの?」

 下を向く。食欲ゲージがどんどん下がる気がする。

「知ってる。まぁ、なんていうか、そう、複雑なの」

「遠慮なく聞いて申し訳ないけど、彼氏と喧嘩したの?」

「⋯⋯あんまりそういうことは話したくないかも。恭司が家出してる子供の心理を知りたいなら話すけど」

 今度は恭司の口が真一文字になり、眉根が寄った。

 職業のわりには気持ちが顔に出やすい。

「仕事とは関係ないって言ったじゃないか」

「うん」

 脱力する。

 やさしい尋問タイムなのかと思ってしまった。

 やさしくして、油断させる作戦かと。


「ごめん、空気悪くしたいわけじゃなくて、ちょっとわたし、彼氏と複雑な関係なの。話すのがめんどくさいというか、話が長くなるというか」

 嘘はついていないはず。

 だって本当にややこしいし。

 彼氏という単語が、今もまだ宙に浮いてるように現実味ないというか。

 そりゃそうだ。

 中三の時、こっちに来る前に『約束』しただけだもの。

 思えば一緒にいた時間が長くてすっかりそんな気はなかったけど、離れてからの時間がずいぶん長くなった。

 悲しくなった。

 あの子はもうわたしの知ってるアキじゃないような、そんな気が、逢う度にしていたから。

「訊かない方がよかったな」

「そういうわけじゃないの。本当に複雑なだけ」

 もしも運命があるとして、アキがわたしの運命だとしても、逢えないでいるなら運命なんて関係ないんじゃないのかもしれない。

 どっちだって逢えなきゃ同じ。

「あー、両想いならいいってものでもないんだよね」

「なるほど。それは確かに難しそうだ」

 本物のカウンセラーにそう言われたんじゃ、やっぱりこの恋は難しいのかもしれない。

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