第12話 宙の下で

 駅ビルを出るとムッとする熱気と人波に押されそうになる。

 約束の場所に向かう。

 みどりの窓口のところ。

 プッ、変なところを選ぶなぁ。

 みどりの窓口って、駅の中でもちょっと外れにあるのに。

 急ぎ足で向かうと、恭司はちゃんと先に来ていて安心する。大丈夫、約束を破るような人じゃない。

「どこで待ってた?」

「暑いから駅ビルの中」

「そうか、思った以上に暑くなってきたからまた倒れてたら困るよなと思って慌てて来たんだよ」

 言った通り、恭司のTシャツの背中はビッショリだった。どれだけ急いできたんだろう?

 わたしはとりあえず今、出てきたばかりのビルに恭司を押し込んだ。

「目的地はここじゃないだろう?」

「まぁまぁ、とにかく涼んでからにしようよ。恭司が倒れちゃうよ」

「俺はお前と違うよ」

 ニッといい笑顔を見せる。

 爽やかで誠実そう。

 確かにカウンセラーに向いてるかもしれない。


 一階奥のフードコートで適当に席を取って、めぼしいものを探す。

 なんかさっきまでの疲れがどっと出て、やる気が萎える。

「大丈夫か? なにが欲しい?」

「······冷たいもの。あ、あのヨーグルトシェイク美味しかったよ」

「そうか、買ってくるよ」

 大人の余裕なのかなぁ、歩く姿にも余裕が見える。若い子たちに混じって、気後れしたりしないのかなぁ。

 しないか、スクールカウンセラーやってるって言ってたし、若い子には慣れてるのかも。

 なんか今日はカッコいい。

 何気に汗だくになったTシャツ、あれ、ブランド物だなぁ。詳しくないけど。

 八分丈のチノなんて、職場には履いていかないんじゃないかな。でも背の高さに似合って、列に並ぶ人たちの中でも映えて見える。

 不思議。

 平静を装って、焦ってる。

 わたしのせいだ、ごめん。


 小さなドリンクを両手にひとつずつ持って恭司は帰ってきた。

 それなに、と訊くと、恭司のはアイスコーヒーだった。なんかちょっとつまらない。

 ヨーグルトシェイクは昨日より冷たくて、昨日よりなぜか甘かった。······子供っぽいかもしれない。

 途端に恥ずかしくなる。

「待ち合わせ、あそこにして正解だったな」

「え、そう?」

「そんな格好してたら、人混みでハルを見つけられなかったよ」

 ちょっと困った顔でわたしを見た。

 あー、そうね、これね。

「夏は涼しいんだよ」

「そうか、俺は履いたことないからわからないけど」

 納得してる。

 そんなことないよ、スカートの中も汗だくになるよ。いくら薄い布でも。


「騒がしい場所だな」

「高校生ばっかりだし。学校終わってすぐなんじゃないの? 高校には仕事で行かないの?」

「今は行ってない。······でもみんな、こういう風に楽しんでるのか。俺の聞く話だとみんな悩んでてさ、他人の前に出たがらない子が多いから」

 なんて言っていいのか困る。

 想像はつくけど、自分には体験のないことだから同情は失礼な気がするし。

「逆にこういうところに出入りしてばっかりっていうのもいるけど。とにかく学校より楽しいって言ってたな」

「まぁ、個人差はあるよね」

「それはそうだ。ひとりひとり違うんだから」


 大人は難しいなぁ。

 こうして二人で外に出ると、なにを話していいのかよくわからない。

 考えてみると、大人の男の人と話すことなんて、先生くらいしかないし。先生とプライベートな話、しないしなぁ。

「美味しい?」

「コーヒー? 正直に言えば値段相応だよ。味見する?」

 うん、と言って一口もらう。

 ストロー越しの間接キスだぁ、なんて思わないくらい、もう近くなった人。

 寝食を共にしてるわけだし、間接キスもなにもないよ。

 ······口元。

 そういう目で見たことなかった。

 厚い唇、あの口でたくさんの人の悩みを解決するのか。あの、大きな口で。


「大丈夫か? 今日はもう帰ろうか? 明日も休みだし」

「なんでもないの。シェイクが冷たくてキーンとしただけ」

「頭痛いヤツな」

 いちいち微笑む。その度にわたしのすきな目尻のシワが見える。やさしい人が、いっそうやさしく見える。

 裏切りたくない。······失いたくない、かも。

 テーブル越しに手が伸びてきて、頭をさすってくれる。本当は痛くないけど。

 得した気分になる。


 二度目のプラネタリウムは眠らないで最後まで観られた。

 わたしはまた『今月の星座早見盤』をもらって、待ってる間、じっと見ていた。

 恭司は当たり前だけどずっとすぐ隣にいて、前の人が進むと、紙に夢中になってるフリをしてるわたしの背中をそっと押した。

 そうしてなにを言うこともなく、わたしが一枚の印刷物を見終えるまで、置いていくこともなくそばにいてくれた――。

 それは、パパともアキとも違う、不思議な感覚だった。

 満里奈と来た時には広々したリクライニングシートも、恭司と来ると隣がすごく近い気がして焦ってしまう。

 焦るわたしを見て、恭司はなにかを納得して、シートをゆっくり倒してくれた。

「これくらい?」

「······ありがとう」

 ほかにはなにも言えなかった。

 喉の奥になにかがつかえていた。


 きらめく夜空は今回も変わらず、星座の説明も、すべて聞いたものだった。

 そうして今月の星の話が終わり、話題が変わると、ああ、この辺で寝ちゃったんだなと知らない話が始まる。

 どうも宇宙の始まりの話のようだった。

 ビックバンから始まり、宇宙は膨張し続け、幾つもの銀河がわたしたちを取り巻いている。

 それを三百六十五度のスクリーンいっぱいに写し出す。

 なんで寝ちゃったのかな、と思う。

 寝不足だったのかもしれない。

 恭司は足を組んでゆったりとリクライニングシートに沈んでいた。

 うちで見る胡座をかいた姿とはまた違った形のリラックス。楽しんでる空気が漂ってくる。


 連れてきて良かった。

 こういうのは好き嫌いがあるから、引かれるのは怖い。


「足元にお気をつけて――」

 ぼんやり暖かい光に包まれたドームを出て「どうだった?」と訊く。ドキドキする。

「うん、いいな。宇宙の中にいる小さな自分を俯瞰するのはなかなかいい。悩みなんてちっぽけに思えてくる。スケールが違って」

「······気に入ってくれてよかったよ」

「そうだな、じゃないと自分がちっぽけな生き物だってことを忘れるところだった」

 大きな口を開けて恭司が笑う。

 よく笑う人だ。

 カウンセラーってもっと、無表情で口数が少ないのかと思ってた。

 どんなことも、ほんとのことなんて目で見てみないとわからないものだ。


「恭司じゃない、久しぶり」

 プラネタリウムの次回を待つ列の中のひとりが声をかける。

 彼は振り返る。表情が硬くなる。

千嘉ちか、久しぶり」

「相変わらずみたいね。その子、仕事の?」

「いや、それはタブーだろう」

「そう思った。だから恭司みたいな堅物が、と思って驚いたのよ。じゃあ、またね」

 列が動く。

 わたしたちはすぐには動かない。

 千嘉、と呼ばれたその女性は眼鏡をして、化粧っ気のない顔で、わたしにやさしく微笑んだ。穏やかな笑顔が、童顔のせいか恭司より若く見える。ダークブラウンのやわらかい髪がふわっと舞って、その人はもうこっちを見なかった。

 そしてその隣には、落ち着いた佇まいの物静かな細身の男性が立っていた。

 列が動く時、彼はそっとお辞儀をした。

 二人はなにかを小声で話しながら先に進んだ。

 居心地が悪くてこの場を離れるにはどんなきっかけを用意したものかと考えてみる。

 恭司はもう向こうに行ってしまった見えない彼女を見て、顎をさすっていた。

 とても、居心地が悪い。


「ねぇ、そう言えばミュージアムショップがあるんだよ。この前素通りしちゃったから、ちょっと見てもいい?」

 あたふたすると、変にボディランゲージなんかしてしまってもうめちゃくちゃだ。

 固まっていた恭司が「ああ」と動き出すのに時間はかからなかった。

 こっちを振り向くまでのほんの一瞬が、スローモーションに見える。

 彼女を振り切るようにこっちを見る。後ろ髪を引かれて。


 ······なにもなかった、なんてことはないんだろうな。

 でも、大人の恋愛はまるでわからない。

 わたしにはわたしの手の届く範囲のことしかわからない。

 そういうことが、少し寂しい。


 ミュージアムショップには宇宙食やポスターやポストカード、本物の星座早見盤、手作り天体望遠鏡セットなど盛りだくさんのものが所狭しと並んでいた。

 宇宙で食べるチョコレート、どこか味が違うのかな? アイスクリームもある。

 こんな銀色のパックから吸う食事なんて想像できない。チョコレートはチョコレートがいい。

 どうやらわたしは宇宙飛行士には向かないみたい。

「どれが欲しいの?」

 あっちで天体写真を見ていた恭司が大きな歩幅でゆっくりやって来る。慌てる。勘違いしてる。

「なんだ、すごい種類だな」

「ほんとにね」

「宇宙でこんなものを食べるなんて想像できないな」

「そうだね、ちょっとね」

 うちのご飯の方が、多少手抜きでも美味しいと思う。

「じゃあ試しに買ってみるか」

 あ、と思うより早く、恭司はその大きな手でチョコレートとアイスクリームをレジに持って行った。――食べるの?


 お会計を待ってる間、ブラブラ奥の方まで見に行く。子供向けの科学雑誌や図鑑の間にそれを見つける。

 ドキン、とする。

 それでもなぜか手を伸ばしてしまう。

 見慣れた表紙。何冊も出てないうちの一冊。これが一番、評判がいいらしい。

 航太が見たのもたぶん、これだ。

『空からの贈り物』――なんだか甘ったるいタイトルだ。要はいろんなところで、いろんなシチュエーションで撮った空の写真集なんだけど、こんなところで出会うとは。

 きっと航太の呪いだな。あんなところに置いてきちゃったから。

 パラパラとめくっていた手を止めて、そっと閉じる。平積みにされてると、立派に見える。

 わたしの部屋にあったのは絵本みたいだったのに。

「お待たせ。写真集か、キレイだな。でも今日の気分じゃないな、俺は。俺たちの上にはいつだってキレイな空があるって知ったばかりだしな」

 うん。

 小さく息を吸う。

 大丈夫、落ち着いてる。

「行こう」

「なにか買わなくていいの?」

「恭司の宇宙食を分けてもらうから」

「ちゃっかりしてるな」

 デコピン。

 それさえ愛情表現。

 お兄ちゃんがいたらこんな感じなのかな? 歳の離れたお兄ちゃん。設定的に無理があるけど。


「いいもの見たなぁ」

 深呼吸をするように、彼はそう言った。

 その一言で、わたしの気持ちはグッと軽くなった。


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