第30話 思い出はススキ野原の向こうに(最終話)

『アキへ


 心配かけてごめんね。

 あの夜は無事に帰ることができました。

 それから、今までずっと振り回してごめんね。

 アキの人生はアキだけのもので、ほかの誰のものでもないと思う。だから大学進学のことで気に病む必要はないよ。アキの人生なんだから。

 もし、この先、人生を分かち合いたいと思う人が現れるまで、その時まで、自分の選択を信じて人生を歩いてほしいと思います。


 ハル』


 コンビニのポストに投函すると、なんの音も立てずにその大切な手紙は落ちていった。

 わたしたちの人生について、とても大切な手紙は、たった八十四円でアキの家に送られる。

 あれだけの距離を、たった八十四円で。


 アキからのメッセージにどう答えようか迷った。

 だってそのメッセージには、すきだとか、やり直したいだとか、愛してるだとか、離れたくないだとか、そういった類の言葉は一切書かれていなかったから。

 アキはある意味、わたしを忘れることにしたんだろう。

 遠くなると、近い時と同じようにはやっぱり上手くいかなかった。

 いとこ同士という微妙な位置関係も、あまりよく作用しなかったのかもしれない。

 やっぱり親戚と赤の他人は違う。

 それで上手くいく人たちもいるだろうけど、わたしたちはダメだった。

 それだけのことだ。

 ――もしもう一度、求愛されたら、わたしはなんて答えるだろう。

 彼の気持ちに応えるんだろうか?

 それはその時にならないとわからない。

 アキはもう、ススキ野原の向こう側だ。


「ただいまぁ」

 虚しい声が響く。

 ママは仕事だ。

 そんなに広くないマンションに久しぶりに帰った。とにかく恭司がうるさい。

 あんなことがあったのに自分はこれからどうしたら、あーだ、こーだ。

 簡単なことじゃん、すきならすきって、そう言えばいいんだよ。わたしのことをすきなくせに。

 恭司はわたしの目を見て、まだそう言ってくれたことはない。

 そういうことは無責任に口に出せる言葉じゃないとかなんとか。未遂まで行ったのに。

 面白くもあるけれど、つまらない。

 結局、どっちなのかなぁと思う。宙ぶらりんでつまらない。女にはやっぱり見えないのかもしれない、もしかすると。

 あれは、あの場の空気とノリだけのものだったのかも。二人きりで密室にいたし、吊り橋効果とやらも手伝って、欲情してしまったのかもしれない。

 あの日の恭司の瞳を思い出す。真剣で、焼かれてしまいそうだった。

 あれを怖いと思う人もいるんだろうなぁ。つくづく純粋な男だ。


 荷物を床に下ろす。

 ご無沙汰してたママお気に入りのブルーグレイのソファに沈む。

 こんな時でも、帰ってきたなぁという気持ちになるのは不思議だ。

 この部屋にはそもそもそんなに長く住んでない。家具だって新品だらけで、他人の部屋のようだ。

 なのに懐かしくなるなんて。

「とりあえず一度、帰りなさい」と膝詰め説教された理由がほんのりわかる。


 わたしは新品同様の三口コンロもスチームオーブンもある素敵なキッチンに立って、ナスの煮びたしを作っていた。

 涼しい部屋でする料理は快適だ。

 恭司の部屋もエアコンは常に動いてたけど、最新機種はどこか違う。

 技術は進歩しているんだろう。

 茹で鶏と胡麻味噌タレを作る。鼻歌が自然に出る。最近流行ってるアニメの主題歌。

 気分が乗ってきて、レモンのゼリーを作る。

 なかなかいい感じだ。

 狭くて設備のないキッチンでは思う存分、腕を振るうこともできなかったから、腕が落ちたんじゃないか、少し心配だった。


「おかえりなさい」

「ただいま。いい匂い。······娘が家にいるっていいわね。最初、出ていった時はてっきりパパのところに行ったのかと思って」

「ママを捨てたりしないよ」

「それは嘘でしょう? 何時頃来るって?」

「そろそろ」

 うわ、着替えなくちゃとママはクローゼットに走っていった。仕事に行った服のままで、別に失礼はないんじゃないかな。

 要するにママも緊張してる。

 ということは、向こうはもっと緊張してる。今頃、髭を剃った顎をさすっているかもしれない。考えるだけで楽しみ。


 帰ってきた後、結局、恭司は腕枕も膝枕もしてくれなかった。

 買い物に一緒に行く時に手も繋いでくれなかった。

 なんかそれは誤魔化されてる気がして、わたしは不平を申し立てた。

「お前を預かっている以上、お前の親御さんに申し訳が立たないだろう?」

「そう? パパもママも好き勝手にしてるんだから、別にいいんじゃないかな?」

「そういう訳にはいかない。大事な娘さんだ」

 やだ、結構笑える、と思ったけど、このままじゃどっちみちなにも進まないことは確実なので仕方なくママに電話した。

「ハルなの?」

「帰ってもいいかな?」

「もう気は済んだの?」

「まぁ、大体。味方ができたし」

 たぶんその人のことなんだけど、とママは話し始めた。ママと恭司の大学は実は一緒だということがわかって、恭司はなにを思ったのかママに挨拶に行ったらしい。

「変わった人だなぁと思ったわ。強面だし。娘さん、預かってますってストレートに言われて、いい気はしないわよねぇ」

 いいお母さんじゃないか、と、恭司はわたしが仰天してるのを知らないフリしてそう言った。

 細い雨の降る、少し寒い夜だった。エンドレスにつけられていた冷房は切られた。

 長く続いた暑い九月は、一段落つけることにしたようだ。

 わたしを取り巻くすべてのことのように。

 ――皮肉なことに、『秋』がやって来る。


 誰ももう、アキの話はしなかった。

 あれは姫と王子のおとぎ話だったのかもしれない。


「改めまして、守矢恭司と言います。お嬢さんをお預かりした時、すぐに家に戻すべきでしたし、ご挨拶すべきでした。本当に申し訳ありません」

 玄関で靴を脱ぐ前に、恭司はそう言って頭を下げた。

 ママは対応に困った顔をして、もうそのことはよしましょうよ、と言った。

 ご迷惑をおかけしたのはうちの娘なんですから、と。

「いえ、そういう訳にはいきません。僕は今日、はっきりさせるためにここに来ました。勢いのあるうちに言わせてください。

 ――お嬢さんとお付き合いさせてください」


 玄関先での出来事だ。

 まだ並べられたスリッパも使われていない。

 恭司は順番を間違えたと思ったのか、持っていたケーキの箱を差し出した。

 呆気に取られるなというのは無理な話だ。

 わたしたちの間で、そういう話になっていなかった。

 恭司はいつまでも一線を越えることを渋っていた。

 いつ、お付き合いの話を? わたしすら知らないのに。


「⋯⋯あの、とりあえず上がられたら? お話はきちんと伺いますから」

「あ」

 初めて見た。恭司の顔は真っ赤だった。

 耳まで赤いとはよく言ったものだ。

 どうぞ、とママはテーブルに彼を招いた。恭司は恐縮しながら席に着いて、それはもうなんだかかわいそうだった。

 テーブルの上にはわたしが作った料理がズラっと並べられた。

 ママはなんでもない顔をして、恭司からのお土産をキッチンに持って行った。

「守矢さん、おいくつ?」

「はい、二十八になります。お嬢さんと年の差があるのは重々承知してます」

「年の差だなんて。そんなことは大した問題じゃないと思うし、年の差があって守矢さんが大人だったからこそ、うちの娘はこうして無事に帰ってきたんだと思います。娘を預かっていただいて、本当になんて言ったらいいのか。この子、羽根が生えているのかと思うほど、自由奔放に育っちゃって」

「千遥さんという名前の通りだなとよく思います」

 その答えにママはくすくす笑った。おかしくて仕方ない、といった風だった。

「父親が名付けたんですよ。どこにでも行けるようにって。無責任で困っちゃいますよね」

 恭司はその話を知っていたので、口を閉じた。

 そうして間を置いて、よくよく考えたという顔をして言葉を口にした。

「どこにでもついていけばいい。大丈夫です。お嬢さんはもう、わかってます。どこまでなら行っても大丈夫なのか」


 その言葉の意味を考える。

 わたしはもう、風に吹き飛ばされたタンポポの綿毛のようにはならない。

 行ったら戻れるその場所を見つけたから。

 いつだって恭司は「おかえり」と言ってくれるだろう。

 そして、本当にピンチの時には駆けつけてくれる。大人の魔法もあるし。

 もしかしたらもうリードを既に着けられているのかもしれない。

 でもどこにも行かない。寂しさはさよならと共にススキ野原の向こうに去っていって、わたしは寂しさを共に抱えてくれる人を見つけた。

 すごく、偶然だけど。

 でも恭司はこの出逢いを『運命』とは呼ばないだろう。

 人生の中のたくさんある選択肢を自分で選んで進んだ結果が今だから。

 ――なんだ、この人、わたしのことすきだったんじゃん。そう思うと真っ赤なラズベリーを食べた時のように、甘くて酸っぱい気持ちになった。頬に熱を感じる。

 わたしは恭司でいいのかな? そんなに簡単に気持ちが切り替わる?

 ⋯⋯もう自分を解き放とう。忘れるんだ、子供時代の触れると壊れそうなガラス細工の思い出は。






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