第31話 等価交換(後日談)

 二人でお話でもしていなさいよ、とママはわたしたちをわたしの部屋に押し込めた。

 まだ思い入れのほとんどない、ショールームみたいな部屋に。

 わたしはかわいいベッドカバーの掛けられたベッドに腰かけて、隣に座るよう、そこをポンポンと叩いた。

 恭司はかわいそうなくらい恐縮して、ランドセルを背負っていた孤独だった頃の彼を彷彿とさせた。

「座ったら。立ってると落ち着かないよ」

「だってお前、交際前の男女が」

「あー! わたし、なんにも言われてないのにママにはいい顔してあんなこと言って! ちゃんと言ってよ。ほら、ここに座って、すぐそばで目を見て」

 捨てられた子犬のように気の毒そうな目をして、恭司はわたしの隣に腰をかけた。実に浅く。

 俯いてなにも言わない。

 膝の上で手なんか組んでいる。


「あのさぁ、千嘉さんに言えたことがなんでわたしには言えないの?」

 恭司は更にいっそうシュンとした。

「あの時は若かったし、年の差もなかったし、それになにより、ハルとアキくんのことを知ってる。二人がどれくらいお互いに特別だったのかということを。アキくんはまだたぶん、ハルを振り切れてない。今ならまだやり直せるかもしれない。ハルが一生懸命、アキくんに『そんなことは些細なことなんだ』って説いてあげたらきっと」

「ちょっと待って。なんで母親に交際を許してもらいに来たくせに、アキとの復活を勧めるようなことを言うわけ? そのことはもうお互い了承済みで、終わったってことはお互いが一番よくわかってるの。わたしはもうアキを呼ばないし、アキももう迎えには来ない。わたしにはわかってる。だから恭司にもそのことをちゃんとわかってほしい。大事なことだから」

「だってお前、あんなにアキくんのことを」

「めんどくさいなぁ。それよりさっさと聞かせてよ。そのために来たんでしょう? それがなかったら、次はどんな口実で逢ったらいいの?」


 恭司の手が、そっと、意志を持ってわたしの手を握った。

 助けられた日々を思い出す。

 この逞しい手の持ち主は内気でわたしを困らせる。


「ハル、俺のものにならない?」


 じーんと来た。

 一生で一番、言われてうれしかったことリストに入った。

『俺のもの』っていうのはどうかと思ったけど、それはわたしがふわっふわなことを考えると、そう言われても仕方ない気もした。

「恭司、じゃあわたしのものになって。年の差があっても、簡単に先に死んだりしないで、ちゃんと一緒にいてくれる? もう寂しくさせないで」

「約束する。先に死んだりしない。ひとりにしない。それから、お前がどこかに行ってしまいたくならないように大切にするよ、これからも。もちろんもしもの時はどこへでも迎えに行く」

 ああ、安心した。

 捨てられなかった。

 さっき聞いた言葉が現実で良かった。

 もたれかかるといつもの匂い。あの夜からずっと、この匂いに包まれてきた。


 すうっと恭司は息を吸って、大きく深呼吸した。

 そしてわたしの顔を自分の方に向けて、そして。

「もういいだろう? 限界だよ」

 え、と思う暇もなく、唇は早々に奪われてしまった。

 想定外の強い力で押し倒される。三半規管がおかしくなりそう。

 スピードについていけなくて、頭の中がぐるぐるする。

 ロマンティックなムードとか、そういうのが大切だったんじゃないかと困惑する。

 こんなに唐突に、本能の赴くままに。

「や、あの⋯⋯ちょっと待って」

「嫌なの? あの日、散々煽ったくせに」

「いえ、すみません。どうぞ続きを⋯⋯」

 キスは危ない。

 キスをした後の男の気持ちってやつを、わたしは本当の意味でわかってなかったんだと思った。

 こんなにも自分が求められていたなんて思ってもみなかった。

 欲望をひた隠しして、ここまで耐えて、それが結実して心になにかが生まれた。これは、今更すぎるけど『恋』ってやつかもしれない。


 抱きしめられて髪をやさしく撫でられる。うっとりする。大きな手と太い指が気持ちいい。

 わたしは彼の手を掴んで自分の頬に当てる。

 彼の手も慈しむように、わたしの頬を撫でる。

 腕の中にいつかのように潜り込む。ここ、ここがわたしの居場所。ずっと昔から探していた――。

「理想の投影とか、言わないでよ」

「バカだな、俺の理想はお前よりずっと知的で落ち着いてて包容力があって、それから」

「わかったよ! じゃあ、わたしじゃない人のところに行けばいいじゃん」

 ぐっと、頭を胸に押し付けられる。

 心臓の、強い鼓動。

「それでもお前がいいと思うんだから、これはもうそれだろう? また目玉焼き作ってやるから、早く大きくなって嫁に来い」

「これ以上大きくならないよ」

「そうか。目玉焼きと腕枕、それでどう?」

「親公認なんだから、いつでも行くよ。······パパにもいつか会ってよね」

 ふん、とわたしは目を伏せた。

 わかってるよ、と恭司はやさしく囁いた。

 わたしのパパへの思いをわかってて、それも丸ごと、一緒に背負ってくれる。

「『恋』って便利だね」

「そういうものか? お前はいつも想像の斜め上だよ」

 いやらしいことをするのはハルの実家ではよそう、と急に理性的ないつもの恭司に戻って、衣服を調えた。


 そうか、いやらしいこともするのか。

 まぁ、そうだよね、と思う。

 したいとずっと思ってたのかなぁと思うと不思議だった。

 いつから? どの段階で? あの時? その時?

 訊いてもたぶん、教えてくれない。



 夏休みも終わった。

 夏とは言えない、既に秋だった。

 わたしたちは大学のキャフェで飲み物を買って話をしていた。

 夏限定のヨーグルトシェイクはもう終わってしまって、満里奈は普通にコーラを飲んでいる。

 わたしは少し肌寒かったので、カプチーノを飲んでいた。

 ――そう、カプチーノ。

 ある日、スーパーでスティックコーヒーになってるのを見つけて、恭司と一緒に飲んだ。

 ······苦くなかった、と言ったら嘘になる。

 そのほろ苦さが、失恋の味に似ていた。

 経験してしまった苦味は、わたしを苦しめることはなかった。


「結局オジサンじゃん。親戚とかバレバレの嘘ついて」

「うーん、パパ活しようとしてたところを助けてくれたんだよ」

「なにそれ!? アンタってほんとなに考えてるのかわかんないとこあるけど、頭、大丈夫?」

「さぁ······。でもイケメンの彼氏には逃げられた」

 そこで満里奈は悲しそうな顔をした。

 自分の辛かった失恋を思い出したのかもしれない。

「終わったことは忘れよう」

「だね、その通り」

「それよりオジサンだよ、やっぱりイケメンなの? アンタばっかりやっぱりモテるよねー。ああ、神様は不公平」

 今日、帰りに駅で約束してるよ、と言うと満里奈は当然のように食いついてきた。


 恭司は今日は白いサラッとしたシャツに、アイボリーのカーディガンと黒のパンツを履いていた。子供相手のカウンセリングの日だったのかもしれない。仕事のことは未だによくわからない。

 後ろ姿も様になる。

 逆三角形の体がいやらしい。

「ねー、ちょっとちょっと! アンタの進んでる先にいるのって」

「恭司、待った?」

「いや、まだ来たところだよ」

 落ち着いて振り返った恭司は、わたしの腕にぶら下がるようにしてる満里奈を見て、固まった。

 歯を食いしばって、恥ずかしさに耐えている。かわいい。

「友だち。上野満里奈。恭司のこと見たいって言うから連れてきた」

「······初めまして、あの、千遥の友だちです。あの······」

 満里奈は不自然にそこで言葉を一度切った。

 恭司も不思議そうな顔をして満里奈を見た。

 満里奈は意を決したように、話し出した。

「千遥はちょっと地に足がついてないとこあって、そういうとこ、どうかなと思うんですけど、大切にしてあげてください! あとお節介だと思うんですけど、この子、モテるんで! 気をつけてくださいね。じゃあ、邪魔者は消えます!」

 言うことだけ言って、ダッシュで去っていった。

 なんなんだ、アレは······?


「個性的なお友だちだね」

「美人なんだけどね、話してみると結構変わってる」

「いい友だちじゃないか」

「まぁ、そうかな」

 指を絡めて手を繋ぐ。まだ少し恥ずかしいけど、はぐれたら困るし。

 恭司の歩幅は大きい。今は合わせてくれてるけど、置いていかれたら追いつけない。

 だからしっかり手を繋ぐ。

「今日の服装、いいね」

「そうかな? 一応、黒って決まりがあるから」

「······似合う」

 そうかな、と繰り返して恭司は俯いた。

 最初からこんな人だったかなぁと思わないでもない。もっと頼りがいのある······あるか。

 恭司が支えてくれるから、今のわたしがある。

「あのさ、仕事なんだけど」

「うん」

「大学のスクールカウンセラーになれるかもしれない」

 へー、と言った。仕事についてはまったくわからないし、あまり興味もない。

 わたし以上に深入りしたくなる女性のクライアントがいれば困るけど。

「それで?」

「あー、ハルにはよくわからないかもしれないけど、今までは非常勤みたいな立場で、しかも何ヶ所も通ってたんだけど、この話がまとまれば、いわゆる常勤てことになって、経済的にも落ち着くと思うから」

 ああ、なるほど。男の人も複雑だなぁ。

「確かによくわからないけど、すきな仕事をしたらいいと思うよ。せっかく憧れの職業に就いたわけだし」

「そうなんだが。社会的にしっかりした立場になればお母さんも安心するだろうし、結婚資金も貯めないと。あと三年だろう? そうしたらハルも安心して仕事ができるし、好きな写真も撮れる」


 目が点になる。

 この男はどうしてこう性急なんだ?

 付き合い始めたばかりでは? プロポーズってこういうのなの?

「あ、まずかった?」

「大いに」

「具体的にどの辺?」

「······プロポーズなんてされてないよ」

 そうだったかな、と言って重そうなカバンをガサガサとまさぐる。いやそんな、まさか。

 出てきたのは、予想通り、小さな箱だった。

「······プロポーズって、エキナカで立ち話の最中にするもの?」

「よく中身がわかるな?」

「文脈を考えれば誰だってわかるよ!」

 恭司は動きを止めることはなく、カバンは下におろして、その小箱を開けた。

 そこにあった繊細なリングを不器用につまんでわたしの左手を持ち上げる。

 えー、とわたしの思考は停止する。

 ちょっと待って、こんなところで、サプライズすぎるし。

 通勤時間の人々の喧騒はいつも通り。

 小洒落たカフェもいつも通りの行列だ。

 いつもと違うのは、ここはフードコートのない三階で、吹き抜けから下の階がよく見えるところ。

 それだけ。

「一生を捧げる。それでいいだろう? 俺の一生とお前の一生、等価交換だ」

 戸惑っているうちに指輪はなんの抵抗もなく、左手の薬指にスっと当たり前のように入った。

 アキにも指輪はもらったことがない。

 つまり、わたしの薬指はバージンだった。


「なんでサイズわかったの?」

「いつもの感じからなんとなく? 間違ってたら交換してくれるって言われたから」

 指輪なら大体の女の子は憧れるだろう。一粒ダイヤがついていて、値段は想像もつかない。素材はもちろんプラチナに違いない。

 大人って怖い。

 Amazonで調べてもたぶん載ってない。

 この人はたぶん、あまり他人の目を気にしない。

 大きなクマのぬいぐるみを抱く時のように、ガバッとその塊はわたしを包んで窒息しそうになる。

 このままじゃ死んじゃう、と思った時、耳元で「すきだ」と囁かれて、不覚にもキュンと来てしまった。

「もう誰にも渡したくないんだよ」

「わかった、わかったから。浮気もしないから、お願い、苦しいよ」

 ああ、と恭司は腕の力を抜いた。

 この腕の中がすき。ずっとここにいたい。

「今度、恭司の写真撮らせて」

「ポートレートは撮らないって」

「すきなものは写真にして残したいの」

 お前のすきにしろよ、とやや照れて彼は言った。

 その温もりや、やさしさや逞しさ、それから情熱を伺える写真にしよう。


 パパ、知らないうちに千遥はすごいところまで来ちゃったみたい。間違えてないかな?

 パパのくれた羽根は、わたしをどこまでも飛ばせてくれたよ。ありがとう、この名前をくれて。

 最高のプレゼントだったよ。


(了)

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インディアンサマー[spring] 月波結 @musubi-me

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