第29話 滑稽な夜
頭の中でしんと一部分、冷えた場所がある。
そこは周りの混乱から切り離されていて、冷静に物事を俯瞰している。
恭司の言葉を考える。
カウンセラーの資格なんて、必要じゃなかった。
最初からずっと、そんなものは求めてなかった。
言葉で心を癒してほしいわけじゃなかった。
なにも言わなくても、支えられていることに大きな安心をもらっていた。
「それでもお前、俺のところに来るの? それでいいの?」
すとん、と自分のベッドの端に腰を下ろす。
なんだか意地悪だ。
今まで散々、やさしくしておいて、今更なにを。
······都合のいいヤツはわたしか。アキに捨てられ、すぐ恭司のところへ行く。
もしも恭司がわたしを抱きたいというのなら、それもアリかなとひとりのわたしが言った。
もうひとりのわたしは悲しみに押し潰されて泣いていた。
志望大学が変わっただけで、わたしを捨てるんだ。こんなにずっと一緒だったのに、説得する時間も与えないで。
わたしたちには話し合うべきことが、もっとたくさんあるはずだ。話し合いで解決することも。
でもそれさえ、振り払われてしまった。
わたしは立ち上がってすぐそこにあるベッドの、恭司に掛けられた薄い布団の隅を、指でつまんだ。
「おい、お前、言ってたこと聞いた?」
「わたしたちが普通に男女なんだってこと? 慰めてもくれないの?」
「男の布団に女が入ることの意味も知らないの?」
それくらい知ってるよ、とぶっきらぼうに言って、足までスルッとベッドに忍び込む。
恭司はわたしに背中を向けて、相変わらず横向きになっていた。顔は見えない。
背中に、額を当てた。
「なにがあっても文句を言うなよ。俺だって残念だけど男なんだよ」
「合意の上だって言えばいいんでしょう? 大丈夫」
「どこが大丈夫なんだよ······まったく」
ごそごそと恭司はこっちを向くと、わたしの頬に手を当てた。顔半分は隠れちゃうんじゃないかな、と思う。体温がダイレクトに伝わってきて、癒される。
わたしたちの『境界線』はどこなんだろう?
どこから、男女の関係になるんだろう?
「不思議な縁だなって、ずっと思ってた。早く帰すべきなのはわかってるのに、······手放したくなくて、なんでかな」
「わたしたちは惹かれあってるってアキが言ってたよ」
「『運命』って言葉はあんまりすきじゃないな。そんなものは自分で選びたい。すきな女は自分で選んだ方がいい。例え、傷ついても」
千嘉さんのことかな、と思う。
恭司は千嘉さんをほかのたくさんの女性の中から選んだ。
わたしはアキを『運命の恋人』だと思っていた。
間違いだったのかな?
かもしれない。そうなのかもしれない。
押し付けがましかったかもしれない。
恭司はまずわたしの鼻にそっとキスをした。
真っ暗だったので、食べられちゃうかもと怯えることはなかった。とても礼儀正しいキスだった。
目が暗闇に慣れると、彼はわたしの顔をじっと見ていた。
あんまりじっと見ているので、そっと目を閉じた。
はっきり言ってこういう時の作法がわからない。
満里奈にでも教わっておくべきだった。
恭司は上体を少し上げて、上から降るように唇にキスをした。特にわたしが顔を傾けたりしなくても、鼻は当たらなかった。
――あの唇が、重なっている。
できるだけ、そのやわらかさを感じ取れるように唇の力を抜く。熱い吐息を感じる。わたしの吐息もそれに混じる。
溶けて、溶けて、フォンダンショコラの中身のように蕩けていく。
髪に指が通る。もしかすると恭司はわたしの髪がずっとすきだったのかもしれない。そう感じるくらい、丁寧な指の動き。
目を開くと、すぐそこに顔があって、見慣れたその顔が少し驚いてる。戸惑ってる。
わたしだって戸惑う。
だって、今までのわたしたちじゃなくなる。
やめよう、とため息のように恭司はこぼした。
そのため息を掬い上げる。
嫌じゃないよ、と。
戸惑う彼は子供のようで、内気だったという子供時代を思わせる。
わたしから腕を伸ばして、首にぶら下がるような姿勢になって誘う。
確かめてみたい、心の中を。自分の中にそういう気持ちがあるのか、真っ直ぐに恭司と向き合ってきたのか。アキのことが幻想だったなら、恭司をどう思っているのか?
「ハル、キスすると男がどういう気持ちになるのかお前の彼氏は教えてくれなかったの?」
「······わかんない。二人きりの時、こういう状況になったことない。子供の頃ならまだしも」
「そっか。やっぱりまだ小さなお姫様なんだな。キスなんてやめよう。いいことはない。ここから先は子供には早いよ」
「そうかな? 恭司のことは大体知ってるし、怖くないよ。そうなってみて、それで恭司が女としてのわたしに落胆して捨てられても文句は言わないよ」
「困ったお嬢さんだ。······理性には限界があるんだ。人間だって本能があるからな」
頬にキスすると、まるで水泳選手の飛び込みのような勢いでガバッと起き上がり、驚いているうちに隣の元わたしのベッドに入ってしまった。
「おやすみ」
「え、ちょっと。なにか不満だった?」
「······違うよ、その、素敵なキスだった。そうだとしても違うにしても、とりあえず大切にしたいだろう? ここでなにもかも流されて終わるなんて、今までの苦労が水の泡じゃないか。こういうのはもっと、自然に気持ちが重なった時にだな」
「ロマンティストだよね」
「お前さぁ、大体慰めろって言うけど経験ないんじゃないの? 痛いだけだぞ、たぶん。聞いた話だけど」
「大切っていい言葉だと思うけど、キスした後の女の気持ちはわかってないんだ。痛くたって試してみないとわからないじゃん。だから理想を見ちゃうんだよ」
「なんだよ、喧嘩売ってんのかよ。アキくんにフラれて自暴自棄になるなよ。せっかくなにもかも捨てて迎えに······」
「捨てて?」
聞き捨てならない言葉だ。
恭司は向こうを向いて、じっと動かない。
カメレオンにでもなるつもりなのか?
「捨ててってなによ」
「いや、ほら、明日の仕事とか、タクシー代とか······」
「バカじゃないの? 大人のくせに」
「バカはお前だろう? 俺の気持ちも知らないくせに」
「わたしにはもったいないくらい、いい人だってことは知ってる」
「お前、失恋しそうな綱渡り状態なんだろう? 聞いたわけじゃないけど。アキくんがいるのにフライングできないじゃないか。第一、いい人ってのは捨てられるって相場が決まってるんだよ」
寂しさが、アキの名前を聞くとじわじわとわたしをまた侵食する。
そうだったんだ、アキが、わたしの寂しさの象徴だったんだ。
そのことを今、知る。
寂しかった子供時代、寂しかったママやサクラさんやアキと一緒にいたキラキラした時間。
いつも拭いきれない寂しさを心に抱いて。
「抱いてよ」
ゆっくり、恭司はこっちに向き直る。
そうして逞しい腕をこっちに真っ直ぐ伸ばした。
わたしはその手に向かって腕を伸ばす。導かれるように。
「そういうのは、もう少し大人になってから言いなさい。俺はお前の保護者代理だからな、やっぱり今はよしておこう。同じベッドは今日は勘弁してくれ。怖い思いはさせたくないし、腕枕くらいなら、帰ったらしてやるよ。とにかく、こういう非日常的な場所で流されるのは良くない」
「ケチ」
「バカ。早く寝ろ。俺は帰ったら病人のフリをしなきゃいけないんだ。お前もしらじらしくお粥でもたけ」
――こうしてわたしたちの、滑稽な夜は過ぎていった。
聴き慣れた音がして目を開けると、古びた部屋にわたしはいた。
まだ夢の中なのかもしれない。
なにかの夢を見た。なんの? 結構いい夢。気持ちが明るくなるような。
······ああ、夢じゃないや。思い出してみれば、なかなかロマンティックな夢だった。
聴こえるのは恭司の浴びるシャワーの音。この後はたぶん、例の髭剃りタイムだ。
昨日触れた時、やっぱりチクチクしなかった。
別に無精髭も似合うと思うけど。一度だけ触れた唇の感触が、生々しく戻ってくる。大きなため息が出る。
わたしって、女だったみたい。知らなかった。
もう少し寝たフリをしようと決める。
――目を閉じると、もうひとつのことを思い出す。
悲しみが胸の奥に巣食っている。
忘れられない痛みが胸を走る。
『あの後、終電もうないんじゃないかって焦って店に戻ったんだけどハルはもういなくて。何事もなく帰れた? すごく心配してる』
スマホを見ると通知が入っていた。アキからだ。わたしは体育座りして片腕でしっかり膝をギュッと抱えて、じっくりそれを読んだ。
『僕の一方的な理由でハルにもう逢えなくなって、申し訳ないと思う。勇気のない自分に失望してる。約束を守れなくなったことも』
『これでいいのかわからないけど、もう僕はハルを迎えに行けない。それが僕の出した結論なんだ。相談すればよかったと思うけど、不甲斐ないと思われたくなくて。ハルより年上だったら良かったのにって何度も思った』
『ハルの全部を知ってるつもりでいたけど、守矢さんのところで見たハルは知らない人みたいで、要するに、知ってるつもりになってたことを思い知らされた。ハルの防波堤になれなくてごめん。頼りなくてごめん』
謝罪なんて必要ないのに。
わたしはたぶん、「待っててほしい」と言われたらそうしたと思う。たぶん、きっと。
だってもう何年も離れていたし、それでもわたしにはアキしか考えられなかった。
恭司的に考えたら、それがいけなかったのかもしれない。アキが迎えに来てくれない世界があると思ってなかった。
でももう、アキはわたしを呼んでくれそうにない。
あの時の熱いキスはなんだったんだろう? すきならどうして強引に奪ってくれないんだろう?
わからないでもない。
わたしたちは隣にいすぎた。
周りに広い社会があることに気が付くのが遅かった。
わたしがそうであるように、アキもどこかで、どこかの段階で、それに気付いてしまったんだ。世界中に、わたしたち二人だけじゃないってことを――。
わたしはもう、アキを呼ばない。
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