第28話 カウンセラーの資格
騒がしい街に出て、どうしたらいいのか考える。
頭が回らない。
お財布の中にしまってあった、もしもの時のための、四角い紙を取り出す。
裏面に数字の羅列がある。体の割に几帳面な文字。
例のミニタオルの袋に入ってた。仕事用の洒落っ気のない名刺だった。
部屋で電話してるところを、ほとんど見たことがない。
かけても出るのかわからない。
サイレントにしてるのかもしれないし、第一、電話をすることに意味があるのかわからなかった。
呼出音の回数が増える度、心臓が苦しくなる。
やっぱり繋がったりはしなくて、アキの勘違いだということが実証されるんだ。
そしたらわたしは、やっぱりひとりなんだなぁ。
久しぶりに、懐かしい旧友に会うように寂しさが戻ってきた。じわじわと足元からそれは這い上がってきて、わたしを乗っ取ろうとする⋯⋯。
『もしもし!?』
この人は誰の電話でもこの勢いで出るのかと、一瞬、返事に詰まる。
『ハルか? 今どこ?』
『⋯⋯まだ、実家近く。帰りの電車、終電でもそっちまでなくて』
『帰れないんだな? わかった。迎えに行くからそんなに泣くな』
不覚にも迷子になった子供のように、涙があとからあとから溢れてきた。
『だって電車ないんだよ? どうやって』
『調べてから折り返し電話する。こう見えても大人だから、最後の手段がある。お前、危ないからファストフードの店でも入って待ってろ』
うん、うんと人形のように繰り返し頷く。
怒られてるのが暖かく感じることがあるなんて、知らなかった。
アキの家には行けない。
あんなに拒否されてそれでも行けるほど、わたしは強くない。ましてやサクラさんがわたしたちの異常に気づかないわけがない。
そしてもちろん、家には帰れない。
あの家はもう、わたしの、わたしたちの家じゃないんだ。
あの家はわたしの心の思い出ボックスにしまわれてしまった。
――この街にわたしの居場所はない。
もうなくなってしまった。
交差点を渡って、エキナカにあるコーヒーショップに入る。ココアはない。
仕方ないのでオレンジジュースを頼んで、さっきのフレンチトースト、美味しそうだったのになぁ、もったいないことをしたなと思う。一口もつけずに残してきた。バチが当たるかもしれない。
恭司のことを考える。
難しいことはわからない。
本当にどうにかなるのかわからない。
でも、不思議と信じてる自分がいる。ここにいればきっと迎えに来てくれる、なんとかして。
ストローで、半分ほど氷が溶けたジュースをカラカラ言わせながら掻き回していると、恭司から電話が来た。
店内だけど、迷わず出た。
『ハル? ちゃんと安全なところにいる?』
『たぶん』
イラッとした空気が伝わる。
『ちゃんとお店に入ったよ。エキナカの』
『うん、よし。よく聞け。お前のところから上りで終電で来られるところと、俺が行けるところを割り出した。とにかくこれからすぐ上り快速に乗って終点まで行って駅を出ろ。お前がその駅前に出るまでにそこへ行くから』
『そんなことできるの?』
わたしは荷物を持って立ち上がった。
店員が、トレイはそのままでいいですよ、と言った。
足早に終電のホームに向かう。
『お前をひとりにしておけないだろう? だからあの日、お前を拾ったんじゃないか。大人には大人のやり方がある。信じて待ってろ、必ず迎えに行く』
唐突に電話は切れた。
余程、恭司も焦っているのかもしれない。
ホームにわたしが乗るべき電車が入ってくる。ゴーッという音が耳をつんざく。
終電には、あまり人がいなかった。
開けた車内の、角の席にちょこんと座る。
ここはどこだ?
わたしはどこに向かってたんだろう?
そしてなにを求めていたんだろう?
⋯⋯なにが欲しかったんだろう?
本当に欲しいものは、なに?
電車はいくつもの駅を飛び越えて、恭司の待つ駅へ向かう。彼がどうやって迎えに来てくれるのか、見当もつかない。
でも無条件に信じた。
駅の改札を出たら、恭司が待ってる。その希望に縋る。心が折れないように。
そういう思考がいけないのかもしれない。
寂しさなんて、みんな自分でどうにかしてるのかもしれない。
でもできない。寂しさと手を切る方法を、知らない。
思ったより早く電車は終点に着いた。
くたびれた人たちがぞろぞろと体を引きずるように降りてくる。わたしもその中のひとり。
⋯⋯疲れた。
パーカーのポケットに入れっ放しだったSuicaを取り出す。改札まであと数十メートル。角を曲がったところだと表示されてる。
角を曲がる。
改札口の向こうに、今ではよく知った、黒髪を結った背の高い、恭司が手を大きく振ってるのを見つけた。
反射的に、そっちに向かって弾かれたように走る。恭司はわたしを受け止める。ちゃんと、恭司の匂いがわたしを包む。
「改札口を走って通るなんて信じられないな。短距離走のゴールとは違うんだぞ」
「うん、そうだね。もうしないよ」
「困ったお姫様だ」
涙でべろべろなわたしの額を、やさしくその太い指がデコピンした。そこから伝わるのはやさしさだ。
そう、わたしは守られてる。今、それを実感する。
タクシーの運転手は時間が遅いのが不満なのか、元々そういう気質なのか、無愛想だった。
わたしたちは後部座席に座り、わたしの体は恭司のしっかりした体にもたれかかっていた。
とにかく疲れていた。
恭司はわたしの頭の上に、わたしが欲しかったその手のひらの重みを与えてくれた。
その手を捕まえる。
ふたり、手を繋ぐ。ひとりより二人の方がずっといい。
いてくれて、良かった⋯⋯。
車のウインカーがカチカチ鳴って、目的地に着いたことを知らせる。
恭司はクレジットカードを出してさっと精算を済ませ、わたしを先に車から降ろした。クレジットカードこそが大人の魔法なんだと知った。
続いて彼が降りると、タクシーは走り去ってどこかに消えていった。
「荷物、持つよ」
「いいよ」
「黙って今日くらい言うことを聞きなさい」
はい、と項垂れると、恭司は軽くわたしの背中を押した。
そして声のトーンを少し低くして「なにもなくて本当に良かった」と言った。その言葉は不思議なことに、わたしを更に泣かせた。
この時間に行けるところはもうどこにもなくて、恭司はホテルを事前に予約していた。安宿だけどツインだからどっちもベッドで寝られるぞ、と笑った。
わたしも笑う。
それなら不公平にならないね、と。
カードキーで扉を開くと、そこには確かに二つのベッドがあった。部屋は狭くて、ベッドとベッドの距離も近かった。
片方のベッドに恭司は「どっこいしょ」と腰を下ろす。わたしはまた笑った。
「ずっと座ってたから腰が痛いんだよ」
「⋯⋯ごめん、わたしのせいだね」
一瞬、恭司は口を噤んだ。大きな口が真一文字になる。
「ハル、無茶をするな。してやりたくても、してやれないこともある。わかるな? いつでもお前の望みを叶えてあげられる魔法は俺には使えないんだ」
「⋯⋯はい」
「シャワーでも浴びてこい。汗をかいただろう? ⋯⋯強く言って悪かった。その、すごく心配したんだ。あの夜みたいに路頭にさ迷ってるんじゃないかと思って」
「⋯⋯ごめんね」
熱いシャワーを浴びる。
頭が空っぽになるといいなと思う。
お湯と一緒に、今日あったことも全部流れてしまえばいいと思うと、また涙が出た。シャワー音に紛れて、嗚咽を漏らして泣く。
こんな結末、望んでなかった。
アキにはもう普通には逢えない。
次に会う時はただの従兄弟だ。
その考えは心を切り刻んだ。
恭司はシャワーを出るとベッドに体を横たえて、動かなかった。壁を向いていて、表情が見えない。
疲れて眠ってしまったのかもしれない。
そっと、顔を伺う。
「髪、まだ濡れてる」
「え、乾かしたよ」
「タオル持ってこいよ」
慌てて乾いたタオルを取りに戻る。
恭司はベッドに腰かけて、わたしを待っていた。
「ほら」
恭司の足の間にちょこんと座って、ごしごし髪を拭かれる。ごしごし拭くと髪が傷むのに、と思いつつ、その握力が心地よい。
しばらく髪を拭く音だけが部屋に響いた。
わたしの髪を存分に拭くと、今度は恭司がシャワーを浴びに行った。
疲れた。
なにをしに来たんだろう?
なにがあったんだろう?
深く考えるのはやめよう。
持っていたTシャツと薄いパンツで、ベッドの上にバタンと倒れる。
天井が黄ばんで見える。新しいホテルじゃないことは確かだ。それでもあの幼かった日のバスの待合所より、ずっとましだ。
不思議。
あの頃はあんなに危ないことをして、先のことなんてなにも考えなくて、それでどうして平気だったんだろう?
子供だったから?
だとしたら、子供は最強だ。
でも待て。わたしは今もまだ子供と変わらない。
なのにもう、力はないみたい。
きっちり髪を乾かしてシャワーから出た彼の髪は結われずに垂らされたままだ。
うちでもそういうことはよくあったけど、うちじゃないところで見ると新鮮だった。揺れる髪になにかを感じる。
わたしは自分のベッドに座り直し、恭司が来るのを待った。
ガサガサと白いビニール袋を片手に提げ、恭司は小さい備え付けのテーブルを二つのベッドの間に置いた。
「腹減ってるんじゃないの?」
「うん、よくわかったね」
「深夜ってのは腹が減るからな。健康には良くないけど」
テーブルの上におにぎりが二つずつ、お茶が一本ずつ。
「味気ないな」
「そんなことないよ、あるだけうれしい」
「慌てて買ったから 」
その、慌ててくれた気持ちがうれしいと言いたかったけど、恥ずかしくて言えなかった。
歯磨きをして、ベッドに入る。明かりを消す。いつも通り。
いつもと違うのは、ここには信号機の明かりが見えないこと、恭司の寝息がなかなか聞こえてこない。
ムズムズして声をかけずにいられなくなる。
「まだ起きてる?」
「まぁな」
「珍しいね」
「枕が変わると寝られないタイプなんだ」
ぷっと笑うと恭司は怒った。
だって、子供みたいだ。
こんなに歳が離れてるのに、と思うと笑いが止まらなかった。
「じゃあ、そっちのベッドに行ってもいい?」
「お前それ、どういう感情?」
「だってこのベッドも恭司の匂いしないんだもん。枕が変わったのと一緒だよ。寝られないかもしれない」
「⋯⋯はぁ。そういうのは無自覚でもよせよ」
「なんで? だって一緒に転がって寝たじゃない。同じじゃないの?」
アキの言葉が頭をよぎる。
わたしと恭司は惹かれあって――。
いやいや、そんなの都市伝説でしょ?
「一応、そう思われてないのはわかってるけど俺は男だし、お前は女だろう? お前は俺はなにもしないやさしい男だと決めつけてるけど、それが幻想だとしたら? お前が言うところの、理想化された俺だったら?」
驚いて口を開く。
なにかを言おうとしたのに声が出ない。
「え、だって恭司はわたしにそういう興味、ないでしょう? そういう風に見たことなんかないじゃない。今までいつも子供扱いで」
「本当に? お前が気が付かなかっただけじゃないのか?」
二人を隔てる、邪魔なテーブルはもう片されていた。
ちょっと手を伸ばすだけで、手が届く距離。
「なにも訊かないの? 今日あったこと」
「今はカウンセラーじゃないから。それにお前の前でカウンセラーだったことは一度もないよ」
「悩みを聞いてくれたじゃない」
「あのな、⋯⋯カウンセラーはクライアントに深入りしたらいけないんだ。だからお前を拾ってきてから俺はもう、お前のカウンセラーの資格はないんだよ」
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