第2話 名前、格の違い
なにか食ったのか、と聞かれる。
三時頃、と答えるとキョウジは手首にはめたゴツい時計に目をやった。難しい顔をして、デジタルの文字を読んでる。男の人には少ない、肩くらいまでの重そうな黒髪を、ひとつに結んでいる。
体は鍛えてそうで、それでいて眼力も鋭い。だけどなぜかかわいい瞬間がある。
「うちにはなにもないからな、とりあえずコンビニにするか。外で食べると結構かかるし、俺はともかく、お前は困るんじゃないの?」
ゆっくり、小さく頷く。
「迷子になるなよ」と気が付くと手を引かれ、見慣れた看板の、見慣れない店内にいた。コンビニは暖かかった。
キョウジはさっさと売り場に消えていって、わたしは持ってこなかったけど必要なものがあるかもしれないと、生活用品の棚をチラチラ見る。
それから食べ物を見に行き、卵とハムのサンドイッチに手を伸ばしたところで、キョウジが真後ろに立った。
「そんなんじゃ腹にたまらないだろう? ほら、弁当にしろよ。カルビのせ、こういうのがいいんじゃないか? 夏バテ防止」
正直、普段食べない。
ママは料理上手だったし、手を抜かない人だ。
しゃがんで無機質に並んだプラスチック容器をひとつひとつ見て、きつねうどんを選んだ。
「まぁいいか、幸い電子レンジはあるしな。カップ麺よりは健康的だろう」と言った彼のカゴにはカップ麺が入っていた。そして、肉食のお弁当、ペットボトル二本。
キョウジは「今日は奢ってやるよ。怖い思いしたしな」と言って、レジで更にチキンをふたつ買った。
街というのは不思議なもので、一本脇道に入るとそこは闇に支配された場所になる。
淀んだ海底のような場所に、場違いに白く光る街灯、それから色を変える信号。歩く人の数も、走り去る車も少ない。
「うちは汚いぞ。覚悟しておけ」
キョウジは屈託なく笑った。
わたしは彼の笑顔を見ていた。
夏のお日様みたいな笑顔だった。
小学生のように手を繋がれたまま、歩く。自分が子供になったような錯覚に陥る。「勝手にどこかに言っちゃダメよ」とママが言う。パパが「好奇心旺盛なのは悪くないよ」という。
パパとママと手を繋ぐ。
ふたりが握った手に力を込めて、わたしの小さな体を前後に、振り子のように振った。ブランコみたい、小さなわたしはうれしくなる。「もっと、もっと」とせがむ。「じゃあもう一度だけね」と。
遠い、遠い思い出。
繋いだ手の温もりもとうに忘れてしまった。
傾きかけたアパートに戻って、まぁ座れと座布団を放り投げられる。埃が、と思ったけど、意外にマメな人なのか、思ったほど埃は舞うことがなかった。
キョウジは「電子レンジと電気ケトル、一緒にかけるとブレーカー落ちるかな」と台所で考えあぐねていた。
台所とは名ばかりの、調理スペースのないそこには、隣に棚があり、電子レンジと電気ケトルが備えてあった。普段はそれで事足りるんだろう。
案がまとまったのか、先にお湯を沸かすことにしたらしい。確かに電気ケトルは沸くのが早い。
そして電子レンジの温めは意外に時間がかかる。
「なに飲む?」
「選択肢があるんですか?」
キョウジは顎に手をやって考える。
そして「あ!」という顔をした。
「飲み物は買ったよな」
そうだ、そうだと言いながらペットボトルを出す。コンビニで買った飲み物は、気温のせいか僅かに温まった気がした。
わたしはジャスミンティーで、キョウジは甘そうなラテをカゴに入れていた。ちょっとかわいい。
あの身長で、肩幅で、ごつい手で、できるだけ甘そうなラテを選ぶキョウジの横顔は、大人なのにかわいらしく見えた。
思い出し笑いをしてしまう。
「なんだ今のは」
「思い出し笑いです」
「なんか失礼な気がするんだが」
「そんなことないから」
ふふふっと、止めようと思った笑いが止まらない。大人の男の人をかわいいと思うなんて。そんな日が来ると思っていなかった。
これまでわたしは年下の男の子で心がいっぱいだった。
その子はわたしの双子の片割れのような子で、実際、母親同士が一卵性双生児だった。
なので、異性として接しようとしても、どうにも上手く距離が取れない。相手も手を伸ばしてくれてるのはわかってるのに、手を取れない。
悲しかった。
恋がなにかは知らないけど、あの子を愛することはできるという確信があったから。
今頃、わたしが家を出たと連絡が飛んでる頃だろうか?
あのお気に入りのシルバーのなんの変哲もないママチャリで、闇雲にわたしを探しているんだろうか? 駅まで行って、電車に乗って。
わたしが本当にひとりになりたい時に行く場所を、教えてなかったのに。
ふと、スマホの着信履歴が気になる。
でも電源を切ってしまった。
ごめん、まだ帰れそうにない。一晩の宿を提供してくれるオジサンは捕まえられなかったけど。代わりに善良そうに見える人に拾われた。
電子レンジが温めの終了を教えて、キョウジはもうひとつの同じ弁当を中に入れた。
ピッという音の後にオレンジ色の光が点る。
「先に食え」
「え、いいです。失礼になります」
「年上の者に言われたら素直に従うものだ。変な気遣いは要らないんだよ、ハル」
わたしは俯いて、自分の膝の上に置いた握りしめた両手に目をやった。
どうしよう。
どこまで本当のことを言うべきなのか?
その線引はすごく大切な気がした。
「あの! ハルじゃなくて『千遥』です」
正面に座ってコーヒーを飲んでいたキョウジの手が止まり、こっちを見る。
「どういう字?」
手のひらを出される。
その大きさと、質感に怯む。
右手の人差し指を出して、そろそろと一文字ずつ、なぞる。
「『千』に『遥』か。これはまた放っておいたらずいぶん遠くに行っちゃいそうな名前だな」
そう言って笑う。
目尻に笑いジワ。
そんなに歳ではないと思うけど、でもそのシワがかわいい。わたしはどうかしてしまったのかもしれない。親切にされたからかもしれない。
『千遥』と名付けたのはパパだと訊いた。
パパは生まれたばかりのわたしを見ると「お前は『千遥』だよ。どこまでも行ける翼をあげようね」と言ったという。
どこまでも行かれちゃったら困る、とママは小言をいったけれど、パパは照れくさそうに笑って、その癖、小さすぎる赤ん坊は怖いよとわたしを抱き上げることもできず、そっと、わたしの小さな手をつついた。パパの指をギュッと握る小さな指と爪を見ていたらしい。
その光景がなんだかとても厳かな空気に包まれているようで、ママはなにも言わずに見つめていたと言った。
ハルに嫉妬しちゃった、と――。
そしてふと、ママを思い出す。
ママの笑いジワ。
一卵性双生児のサクラさんにはない。
ママの方がサクラさんより苦労をしたのかな? それはあるかもしれない。
なにより、愛娘はこんな知らない男の部屋にいるし。不良少女だ。
「どうした? 箸が止まってる。冷めるぞ」
「あ、はい。······あの、『キョウジ』はどんな字なのかなぁって」
「ああ、俺のこと? 知ってもいいことないぞ。でも訊いたからには教えないとな。お前、漢字得意?」
「どうかな、自分では······」
キョウジは床に下ろしてあった筆立てからボールペンを一本、その脇の銀色のゴツいクリップで挟まれた裏紙のメモ用紙を取り出した。
そして、ゆっくり丁寧に、まるで数式でも教えるかのように名前を教えてくれる。
「『恭』、これはうやうやしいという意味」
はい、と返事をする。
「『司』、これはつかさどるという意味。了解?」
「了解です。なんか、偉い人の名前みたい。千遥とは格が違いそうです」
格かぁ、と大きな口を開けて笑うと、また笑いジワができた。
本当はどうなのかわからない。なんにも。
でも良さそうな人だ。いきなり裏切られても、すぐに恨めそうにないタイプだ。
とりあえず恩人であることに変わりない。
その、少しオーバーな表情の変化が、なぜかわたしをホッとさせた。
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