第16話 赤い糸
ヨーグルトシェイクの空きカップは目の前にみっつ。
スマホの充電は五十六パーセント。まだ大丈夫。
さすがに冷えるのでたこ焼きを買いに行く。
「青ノリ、かけますか?」と訊かれてなにも考えずに「はい」と答える。
マヨネーズの描く細い線上に、緑色の粉がパラパラと雪のように降り注ぐ。パラパラと。
次のお客さんがオーダーしている。女子高生、わたしの出た高校の子だ。着崩した制服、最後まで上手く結べなかったネクタイが懐かしい。
「青ノリ、かけますか?」、「いいえ」。
大変な間違いに気づいた。
久しぶりに逢う恋人の前で青ノリのついた顔を見せることになってしまう。あ、と思ってももう遅い。
青ノリはパウダースノーになった。
ありがとうございました、と今日、何度目かわからない同じ台詞を聞く。
約束なので、またヨーグルトシェイクを買う。
買い占めしかないな、これは。
楽しみにしていた皆さん、ごめんなさい。大切な約束なんで。
どうしたのかな? やっぱりサクラさんにバレたんだろうか?
あの子、ちょっとトロいところがないわけじゃない。
サクラさんに似て、ほわほわ~っとしたところがある。現実主義の、サクラさんの双子の姉妹であるうちのママとはずいぶん違う。
そこにつけ込む女の子がいるんじゃないかなって、遠くからぼんやり心配してた。
わたしなんかやめなよ。
従姉妹だからって情に流されることはないよ。
子供の約束は、破られるためにあるようなものだ。
だから、わたしなんかやめて、もっとキラキラした青春を一緒に謳歌してくれるような女の子にしなよ。
アキならきっと、選り取りみどりでしょう?
勉強のできる美形男子、少女マンガに出てきそうな。
⋯⋯出ないか。最近はもっと強引な男の子をみんな求めてる。
ここから連れ出して非現実に連れ去ってくれる誰かを――。
「ハル!」
驚いて飛び上がり、イスはガタンと音を立てた。
串に刺したたこ焼きが、べちゃりと半分に割れて容器に落ちる。
右手に残ったたこ焼きを持ったまま、わたしは振り向いた。
「ハル、なにやってるんだよ、どれだけ心配したか⋯⋯」
息が荒い。相当走ってきたに違いない。
この時間になってもまだ外は涼しくはないだろうに。
バカだな、この人は。それも天然物の。
ゆっくり向こうから歩いてくるその人を、わたしは待つことしかできなかった。
大きなその影に包まれたかったから。
「ちょっとそのたこ焼き、置いて」
そっと容器に戻すと、わたしは無防備な女になった。
信じられないことに、ガバッと、その逞しい腕はわたしを抱きしめた。ギュッと、力強く。
望んでいたにしても、それはものの喩えというか。
「⋯⋯ちょっと苦しいかも 」
「悪い」
力が緩む。居心地が良くなる。
もう、よく知ってしまった匂い。こっそりそれを確認する。体の重さを預ける。それでもビクともしない。
「勝手に出て行くなよ。仕事柄慣れてたって心配するんだ。他人のことも考えろ」
「うん、恭司、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
周りの人たちの目線が気になってくる。
この人こそなにも考えてない。
この姿勢になって、何分?
うれしいけど、いい加減、恥ずかしくなってきた。
「あのさ⋯⋯」
「――ハル?」
わたしと恭司は同じ瞬間に顔を上げた。
登場の遅かったわたしの王子様はつかつかと歩いてくると、わたしたちの目の前、ピッタリのところで止まった。
わたしと恭司は半分体を離した姿勢で、それを迎えた。
「ハル、迎えに来たよ」
アキは笑わなかった。
自動人形のように口を動かした。でも瞳は動かなかった。
わたしたちを、見てる。
「えーと、こちらは守矢さん。わたしがお世話になってる人」
「ハルがご迷惑をおかけしてすみません」
その定型文を、まるで用意したかのようにスラスラとアキは喋った。誠心誠意、という具合に。
「いや、こちらこそ。もっと早くに帰すべきだったのに申し訳ない」
「いえ、ハルが安全だったようで安心しました。ありがとうございます」
「あの⋯⋯その、従兄弟の、つまり複雑な。
「ああ、彼氏なんだな。それはずっと心配だっただろう。ハル、彼にきちんと謝ったの?」
いや、どちらかと言うと、恭司に抱きしめられてたというか。そんな間がどこにあったのか知りたい。
「アキ、ごめんね、心配かけて。迎えに来てくれてありがとう」
そう言うとアキは少し寂しそうな目をした。
「いいんだよ、ハルが無事なら、なんでも」
アキは素早くサクラさんに電話をした。
わたしを見つけたこと、わたしが友だちの部屋に居候してたこと、今日はアキもそこに泊まること、わたしに危険は及んでいないことをハッキリとした口調で、順番に話した。わたしはそれをぼーっと眺めてた。
暗い海岸で、なんにもできなくて体を寄せあって眠った、あの時のアキはどこに行ったんだろう? 心細くて震えて、波音に怯えたあの時の。
わたしの気持ちは、あの頃とほとんど変わらないのに。
⋯⋯結局わたしだけ、子供なんだ。
「スミレちゃんには母さんから説明しておいて。いい?」
そこまで言って、アキは電話を切った。
過不足ない、素晴らしい説明だった。いや、わたしの隣に説明不能な人がひとりいる。
わたしたちの関係はちょっと一言じゃ説明できそうにない。
「ハル、遅くなってごめん。でも間に合ってよかったよ。本当に⋯⋯」
その美しい手は、まるでピアノの鍵盤の上を滑るようにわたしに届き、そっと頬を撫でた。
アキはそれだけでも満足そうな顔をした。
わたしがアキの手の中に戻ったことに、安心したんだろう。
「とりあえず、帰るか」
「あ、トマト」
「トマトがどうした?」
エコバッグを開いて恐る恐る覗くと、振り回してきたトマトは意外と大丈夫そうな顔をしていた。
でも人数が増えたし。
「あのね、今晩はパスタにしようと思ってたの。恭司、パスタすき?」
「結構よく食べるけど」
「それはよかった⋯⋯けど、三人分になるかな?」
じっと、真っ赤なトマトを見つめる。
トマトは知らん顔でそこにいる。
「僕の心配はいいです。なにか買って行きます」
恭司はアキをチラッと見た。
なにを思ったのかわからない。
「三人でなにか食べるか? 牛丼とか」
「牛丼、食べたことない! 初体験!」
二人の視線がわたしに集まって、なぜか同時に笑いだした。恥ずかしい。
「だってほら、女子だけで入れるところじゃないし、うちはパパはそんなものを買ってくる時間に帰ってこなかったし、ママは料理をきちんと作るべきだときっと思ってたし⋯⋯」
「わかった、わかったから。牛丼にしよう」
「サラダはある」
「じゃあトマトも浮かばれるな」
「そうだね」
恭司の言葉にわたしはすっかりうれしくなった。
あのずっしり重いトマトが、萎びていくのはどう考えても悲しいことだったから。
「荷物持つよ」
アキがそっと手を出した。
それは昔みたいで、そうじゃないような気もした。
わたしは昔のようにできるだけ遠慮なく、それを渡した。
「ハル、結構重いんだけど」
「アキくんは自分の荷物があるんだから、俺が持つよ」
すみません、と恐縮するアキはなんだかかわいそうだった。手を伸ばそうかと思ったけど、昔のアキからちょっと浮いたところにいる今のアキに、心の手が届かなかった。
わたしの手は、手ぶらになった。
「なるほど、二人のお母さんは一卵性双生児なんだよな。どおりでよく似てると思ったよ」
牛丼を頬張りながら、恭司は言った。
咀嚼するリズムが心地よい。
「みんなが言うんだけど、似てなくない? アキの方がずっと⋯⋯」
「ハルの方がずっと二人に似てその⋯⋯」
安っぽい牛丼のカップはアキに似合わない。アキはサクラさんに純粋培養されて育った、今も真っ直ぐに伸びる若芽のようだ。
「はは、わかった。そんなこと言わせるつもりじゃなかったんだ。でもお互い、容姿に共通する部分があるのは確かだろう」
「そうですね」
「二人並べると、まるで精巧な人形みたいだ。もしくは君たちが双生児みたいな」
「⋯⋯違います。父親からお互い違う遺伝子をもらってるし」
「その通りだな。アキくんは冷静で知的なんだな。そういうところはハルとは違うな」
じゃあわたしはどうなのよ、と憤ったけど、確かに恭司の前で冷静で知的だった覚えはない。
間違ってるのはわたしの方だ。
感情的で衝動的なのが、わたしの短所だ。わかってはいるんだけど。
「なるほどな。双子同士は引き合うと言うけど、双子の子供同士の君たちも引き合っているのかもな。遺伝子の繋がりのせいかもしれないし、それこそが赤い糸なのかもしれない」
「赤い糸」
「ハルは信じてないの? 女の子はみんなそういう話がすきだろう?」
頭の中をぐるりと点検する。
わたしの中に、そういうものを信じたことがあったのか?
「よくわからない。ずっとアキと一緒だったから、難しいことは考えたことはない」
「ハルらしいな」
恭司はいつもみたいに、笑いジワを作って笑顔を見せた。
アキは緊張してるのか、なにも言わない。
笑顔を見せず、ゆっくり牛丼を食べていた。
背筋の伸びたアキの姿勢は、わたしにわたしのルーツを思い出させる。品の良い、双子の母親たち。その手元でわたしたちは育てられた。
わたしだけそこからはみ出ていた。
今思うと、そこはわたしには窮屈だったのかもしれない。
しあわせな子供時代の思い出は、実は枠の中からはみ出さないように注意して作られた時間だったことを知る。
わたしは二人の望むような、アキみたいな子には育たなかった。
「赤い糸、運命、なんでもいいです。ハルがそばにいてくれるなら、僕は僕でいられますから。僕たちはお互いに不足する部分を補い合ってるのかもしれない。依存とか、言わないでくださいね」
アキは恭司の目を真っ直ぐ見てそう言った。
「言わないよ。本気なんだな」
「はい」
アキの瞳が一瞬、震えて見えた。
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