第15話 誰にも言わない

 なにをしたらいいのかわからなくなってしまった。

 スーパーには真っ赤なトマトが売っていた。手のひらに乗せるとずっしりとした重み。青臭い味が口の中いっぱいに再現されて、わたしはそれを買うことにした。

 レジカゴにそっと置く。

 そうだ、フレッシュトマトのスパゲッティはどうかな?

 その場でスマホを開く。レシピの検索をして、必要な材料をカゴに入れていく。

 ちょっと。

 ほんのちょっとしあわせな気持ちになる。

 パスタはすきかな? 洋食はあまり食べてるところを見たことがない。

 でもフォークにがっつり取ったパスタを、大きな口を開けて食べるところを見てみたいな、とそう思った。

 今、恭司にご飯を作れるのはわたししかいないし。

 ――なに張り合ってるんだ?


 あの人の旦那さんは恭司とはまったく違うタイプだった。真逆、と言ってもいい。

 あの人のタイプがあれなら、恭司と別れたのも頷ける。恭司の方が、彼女をすきだったのかもしれない。

 いや、たぶんそうだろう。

 彼女を見送る背中が切なそうだったから。


 ああ、ダルい。

 満里奈とちょっとお茶でもしようと思って連絡すると、満里奈もまた帰省中だった。

 みんな真面目だ。

 なんだかんだ、家族がすきなんだな。家族といると、ホッとするのかもしれない。

 わたしはどうだろう。

 今は――とても無理。

 いつからだろう、ママと二人きりで部屋にいると息が詰まるようになったのは。

 寂しさがなくなることなんてなかった。

 どちらかと言うと、二人なのに孤独を感じた。

 ママを嫌いになったわけじゃない、たぶん。


 昨日、途中で何枚か買った洋服の中から、今日はVネックの白いTシャツとギンガムチェックの七分丈パンツとストラップなしの気楽なサンダルを履いていた。

 男の目を誘うような露出度の高い服は不必要になったから。

 Tシャツと素肌の境目がくっきりしてるのは、テニスをしてた名残だ。でも暑くて一枚羽織る気にはなれない。目に見えないメラニンが増殖していく。


 恭司の部屋まで緩い坂を下っていく。

 子供が笑う声がする。近所に公園があるのかもしれない。

 大きな木の下のベンチでサイダーでも飲めたらな、と思ったけど、暑さで気が変わる。

 公園を探す気力がない。

 ダメだ、今にも足が止まりそうだ。

 なんでこんな風になっちゃったんだろう?

 早く帰ってパスタを茹でなくちゃ。

 ベビーリーフのサラダを作らなくちゃ。

 サンダルが、すっぽ抜けて飛んだ。

 足が止まる。

 裸足になった足の置き場に困る。⋯⋯ひとりぼっちのサンダルに同情する。

 お前、どこかに行きたかったの?


 その時、スマホのバイブが鳴って、反射的にスマホを持ち上げる。発信先は――。


 想いは逡巡する。


 でも、だって、もう意地は張らなくてもいいんじゃない?

 なんとなくずっと、昔みたいに振り回したらいけないと、そう思ってきた。

 無意識にアキをわたしの混沌とした迷いの世界に付き合わせたらいけないと。

 アキは新しい生活の中で、健やかになににも脅かされず成長している。

 それはたまに電話をする時、再会した時、目を瞑っても隠しきれなかった。

 ⋯⋯変わらないのはわたしだけだ。

 今だって、赤の他人にこんなに迷惑をかけて。

 コールは鳴り続けていた。

 毎日、こんなに呼び続けてくれていたのかと思うと、もうダメだった。

 わたしはサンダルを拾わずに熱いアスファルトに裸足になった足を下ろした。

 そして、それ以上なにも考えるまいと、理性に蓋をして電話に出た。声が、聴きたい。


『⋯⋯もしもし』

『ハル? ハルなの? 元気にしてるの? 今どこにいるんだよ』

 噛みつきそうな勢いが、どれだけ心配してくれてたのかを伝えた。次第に散らばっていた心細さがまた集まってきて、重い塊がわたしの心に巣食う。

『アキ⋯⋯』

 ぶわっと抑えていた気持ちが膨れ上がる。

 思い出が、感触が、頭の中を駆け巡る。


『大丈夫、心配しないで、迎えに行く。どこで待ち合わせる?』

 あの頃よく聞いた台詞そのままで、泣きたくなる。

 声が昔より低くなった分、ソフトになった。

 やさしく語りかけてくるのは、もう子供ではなかった。

『迎えに来てくれる?』

『覚えてる? 二人の約束だよ。どこにでも迎えに行けるように、Suicaもチャージしてあるよ』

 わたしはそこで、ふふっと笑ってしまった。

 空気がやさしくなる。

『今すぐ行く。どこにいる?』

 開いた唇が、開いたまま声が出ない。

 出そうとした声は、掠れた音になる。上手く声が出ない。

 坂道にわたしの影が落ちる。

 夕方近いので、それは少しずつ伸びた。

 たぶん、この瞬間も。


 頃合なのかもしれない。

『○○駅。ヨーグルトシェイク飲んで待ってる』

『わかった。時間がかかるから、どこか涼しいところで』

『わかってる。大丈夫。適当に時間合わせてそこに行くから』

『心配しないで、誰にも言わない』

『うん、いつもありがとう』

 天使が通るくらいの間、無音だった。

『彼女を助けるのが彼氏の役目じゃないの?』

 そうかもしれない。

 もし、わたしたちがカレカノなら。

 ただのいとこ同士に戻ったわけじゃないなら。

『待ってるね』

 赤い、終話のアイコンをタップした。


『待つ』とは言ったものの、それもまた苦行だった。

 どう考えても二時間以上はざらにかかる。

 アキの動きを計算して、スマホで大体の到着時間を調べる。

 ――三時間。乗り継ぎの都合もあるから、ほかの電車ならもっとかかる。

 幸い駅ビルはやっている時間だからブラブラしてればいいわけだけど、わたしには行き先がない。行くあてがない。

 文房具を見る。ラメ入りボールペン発見。この間は青いラメのを買ったから、なにか違う色でも買おうかなと試し書きをしてみる。

 にょろにょろした線がたくさん生産される。

 どの線もキラキラして魅惑的だ。

 ⋯⋯つまらない。そんなことがしたいわけじゃない。

 ビルの中にある書店に行く。

 百貨店の書店ほどの広さはないけど、ここもそこそこ広い。置いている分野も広い。

 パパの写真集を探す。この前は疲れて探すのをあきらめたから。

 写真集のコーナーに着く。

 たくさんの色彩が目を引く。

 植物や、世界遺産や、美術品。

 ――そこに、空の写真集はなかった。


 気まぐれに開いた朽ちた建築物の写真集を閉じる。

 朽ちた教会の神様はどこに行ったんだろう?

 ほかの教会へ?

 違うな、キリストは唯一無二だからあれは偶像なんだ。だからあとは朽ち果てるだけなんだ、と考える。

 なんだか寂しい話だ。


 まだ時間はたっぷりあった。

 でも門限までの時間はあまりない。

 恭司とわたしは、不思議なことに連絡先を互いに知らない。作為的に交換していなかった。

 万が一、恭司が早く帰ったとしても、電話がかかってくることはない。

 あの、大きな口でなんて言うんだろう?

 なにかの間違いで電話がかかってきたら?

 恭司はわたしを怒るだろうか? 門限破りは約束違反だ。

 それとも、職業柄怒ったりしないんだろうか?

 ⋯⋯しない気がする。そしてわたしはそれをと履き違えて、喜びを覚えるだろう。

 我ながら、単純。


 フロアごとに買いもしない服や靴を手に取っては戻して、いらっしゃいませ、と、ありがとうございましたを交互に聞く。

 なんの意味もない暇つぶしに付き合わせて申し訳ないなぁという気持ちになる。

 わたしも大学に入ってずいぶん時間が経った。

 そろそろアルバイトでもした方が自分のためかもしれない。

 航太がひょろい腕でパンのぎっしり詰まったケースを運んでいた姿を思い出す。額に汗する、とはああいうことだ。

 満里奈にお金に困ってなさそう、と言われたことを思い出す。

 パパはきちんとお金をくれるみたいだし、それでもママはわたしが大きくなったのですきなだけ、すきなことをして働いている。英文をたくさん読んでなにが楽しいのかわからない。写真を撮る方が楽しいのは、わたしがパパ似だからなのかもしれない。

 長い長いエスカレーターはいろんなことを考えさせる。

 安いサンダルにも疲れた。

 エスカレーターはわたしを下へ、下へと連れていく。

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