第17話 恋をしている
その晩は話し合った結果、『川の字』になって寝ることになった。
なんだそれは、という感じだったけど、パズルを解くように議論してそうなった。
始めは開かずの間に恭司がなんとかして寝ると言ったんだけど、やっぱり歳の若い二人を二人きりにしたらまずいかなぁとか言い出し始め。
考えてみると確かに、二人きりで布団を並べて寝たのはいつまでだったかな、と思う。
じゃあアキが、というのももう慣れたとはいえわたしと恭司が同室ってどうなの、となり、ハルが、となり始めた時、恭司が「ハルは女の子だからベットを貸してるんだ」といきなり言い出した。
わたしたちは大人の意見に黙るしかなく、解決策として『川の字』になった。
でも布団は足りなかった。
恭司はもちろんアキを布団に、と言ったけど、アキはもちろん遠慮した。
恭司はそれならと、夏場なのだから自分は座布団と大きめのバスタオルがあればそれでいいと言ってわたしたちに文句を言わせなかった。
まぁ、わたしたちは恭司から見たら子供なので、大人しく従うほかなかった。
アキはものすごく申し訳なさそうに恭司に謝ったけど、恭司は一言「大人の好意に甘えなさい」とカウンセラーの顔で言った。それにはアキもなにも言えなかった。
わたしが一番にシャワーを借りた。
二人がなにを話してるのか知りたくて、変なことを話してるんじゃないかと気になって、爆速でシャワーを終えた。
体を拭く時、気づいたら右手に泡が残っていた。シャワーを持っていた右手にお湯をかけ忘れて残った泡が弾けている。
知らないフリしてタオルで証拠を隠滅する。
「お待たせ」と出ると恭司が「髪乾かしてないだろう」と突っ込んでくる。恭司は髪を乾かすことにうるさい。濡れた髪で人前に出るもんじゃないといつも言う。
飼い主にそう言われたのでは仕方なく、脱衣所に戻る。
⋯⋯ああ、二人でなにを話してるんだろう?
気になる。
今日だけでもドライヤーの轟音がなんとかならないかなと思う。二人の声はちっとも聞こえなかった。
次はアキだった。
シャワーの音が聞こえてくる。
アキだって今日は汗だくだった。悪いのはわたしだ。
「ハルは家出癖があるの?」
読んでるのかわからない新聞をめくりながら、恭司はそう言った。家出⋯⋯家出癖というかはなんとも。
「アキは海の話をした?」
「いや、君たちがどんな風に大きくなったのかを話してくれたよ。お母さんたちが一卵性双生児で仲が良くて、近くに住んでいて、行き来することも多く、いつも二人一組みたいに育てられたって。お父さんの帰りがどちらの家も遅かったこと。中学三年に上がる時の春休みにハルが引っ越したこと、それからアキくんは⋯⋯」
「アキは高校のこと、なにか言った?」
恭司は顎をさすりながらわたしの方を見た。わたしの中のなにかを見つけようとしているような、そんな視線。
あまり気持ちのいいものじゃなかった。
わたしたちはお互いに腹のうちをさぐり合うような関係じゃ、今までなかったから。
「アキくんは、高校のことはなにも言わなかった。ハルに逢えなくなったことが寂しいと言ってた。それをどうにもできない自分がもどかしいとも。だから早く進学して、ハルの近くに行きたいんだと、そう言ったよ。勉強しても勉強しても時間は縮まらないって⋯⋯アキくんの中はハルのことでいっぱいなんだな」
「⋯⋯わかんない。ほかの人たちみたいに毎日電話とかするわけじゃないし、最近は逢うことも減ったし」
「アキくんはただハルに追いつきたいんだな。今の彼の目標は、それなんだよ」
恭司は新聞をめくった。カサッという新聞特有の音がした。
よくわからなかった。
でも、恭司の言うことが本当なら、それが俗に言う『恋』なのかもしれない。
相手のことしか考えられない状態。
わたしは――わたしはいつもアキのことを想ってるだろうか?
無責任なわたしは、その時その時の気持ちで生きている。
ものすごくアキが必要だと思う時もある。
そういう時はアキのことしか考えられない。
でも別のことに夢中になってる時もある。例えば⋯⋯そう例えば、写真を撮っている時とか。キレイな夜空を見ると特にその一瞬を切り取りたくなる。流れゆく雲、澄み渡る青空、わたしの写真はそういうもので溢れている。
パパと同じだな、と思う。最低だ。
やっぱりわたしはパパの娘で、ママがどんなにがんばってもママの思うように育たなかったのかもしれない。
申し訳ない気持ちになる。
わたしは確かにママの娘で、ママと過ごした時間が多かったのに、それでもパパの空の色を見て育ったらしい。
わたしに『千遥』と名付けたパパのすきな空の色。
今まで意識しなかったけど、カメラのレンズの向こうにいつも、その空を探している。
恭司はザッとシャワーを浴びて麦茶を飲んだ。急いでいる様子はなく、シャワーの音は、いつもと同じ時間、鳴り響いた。
その間わたしたちは動くこともできず、話すこともできなかった。
言葉は溢れそうだったはずなのに、どこから手を付けていいのかわからない。下を向いて、まるで反省部屋にいるような気分だ。
「ハル」
アキが先に動いた。
絶対怒ってる。そうじゃないなんてことはない。
グッと目を閉じる。
「ハル」
アキはわたしの隣に来ると、わたしの頭に手を回して、自分の肩にわたしの頭を寄せた。心臓がドキドキする。
前にもこういうことは何度もあった気がするのに。
「ごめん、抱きしめたかったんだ、ずっと。いつの間にこんなに小さくなったの?」
「アキが育ったんだよ」
「全部、ハルのためだよ」
アキはわたしの頭を少し離すと、そっと耳の裏側に手を差し入れた。そのスムーズな一連の動きは止まることもなく、顔を傾けたアキはわたしに近寄ってきて、キス、をした。
別に初めてのキスじゃなかった。
だってずっと付き合っていたわけだし。
逢う度に、キスをした。まるで儀式のように。
でも今日のそれは違った。いつもの触れ合うようなキスではなくて、心の中にまで滑り込んで来るような、そんな⋯⋯。
このなのしたことない。
アキの唇は、まるで今までのものは偽物だったんだと語っていた。やわらかくて温かい唇は、触れるだけでは離れず、わたしのすべてを食べてしまいそうだ。
わたしの唇から、吸い取れるものをすべて吸い取ってしまうかのごとく動く。
変な感じがして、体を捩る。畳に置いた手が後ろに滑る。
息ができない。
「ね、息が⋯⋯」
「止めなくていいんだよ。息をするように合わせて」
そうじゃなくて。
こんなつもりじゃなかったのに。恭司もすぐそばにいるのに、アキの腕はしっかりわたしを抱きしめて離さない。
唇と唇も離れない。
わたしは腕に力を込めて、精一杯、アキを突き放した。
「変だよ、こんなの」
「どうして?」
「なんでこんなことするの?」
自由になった右手の甲で唇を拭うと、恭司がシャワーから出てくる音がした。わたしだけじゃなく、アキもハッとして、二人とも元の位置に戻る。
なんとも嫌な空気が漂い、涙がこぼれそうになる。
こんなことのために、アキはわたしを探してたのかな?
こんなこと⋯⋯。
みんなしてる。
わかってるんだ、本当は。ただわたしが着いていけないだけで。
「アキ、ごめんね」
「謝らないで。なんか、余計傷つく」
「消すぞ」
明かりが消えると、いつも通り、カーテンのない曇りガラスから街の明かりがぼんやり部屋を照らす。
街灯、看板、車のライト、信号⋯⋯。
信号の点滅は、わたしにいつもなにかを教えてくれる。止まれ、進め、注意しろ。信号はなにかを教えてくれる、いつも。
恭司の寝息はいつも規則正しく、眠りの深い人なんだなと思う。気持ちよさそうな寝息のリズムが、わたしにもいい眠りをもたらしてくれるような気がして、どこか安心する。
緊張しなくていい、気を抜いても大丈夫、と思う。
体から余計な力が抜ける。呼吸が穏やかになる。
なにもかもが溶けていく。その日のすべてが溶けていく。
暗闇に、その寝息が聞こえる。
「⋯⋯ハル、起きてる?」
「うん」
ごろん、とアキの方に向きを変える。
アキはわたしの方を向いて自分の左手を枕にしていた。
昔は丸くなって寝ていたのに、その体は丸くなるには伸びすぎたようだった。
「どうしてここにいるの?」
「あー」
「たまたま助けてもらったから? 女の子の一人暮らしの子はいないの?」
「いるんだけど、帰省中」
満里奈がわたしを泊めてくれたことは未だない。わたしの自宅が近いせいもあるけど。
アキはこっちを見ている。
そんなに真剣な顔をされると、こっちもそれ相応の顔をしなくちゃいけないような気持ちになる。
そんなに、なにを、じっと。
「このまま誰も知らないところに連れて行きたい。でももう子供じゃないから、あの時、夜の海に行ったみたいに逃げるわけにはいかない。だから僕はとりあえずこっちの大学に入るから。僕が卒業するまでは、スミレちゃんのところにいてくれない? 一日でも早く、こっちに来るから」
わたしには難しい話だった。
アキの話がわからなかったわけじゃなくて、そんなに理論的に行動することができたなら、わたしはここにいない。
だから返事をしそこなった。
「⋯⋯あと半年だよ」
囁くような声は、なぜか魅力的ではなかった。
騙されちゃいけないという思いが湧き上がる。
誰に? ひょっとしてアキに?
アキがわたしを騙すなんて、そんなことあるはずがない。
だってアキはわたしより歳下で、すぐ泣くし、いつもそばにいてあげないといけない――。
いつの話だ?
わたしがもしこのベッドから下りたら、その布団に入ったら、アキはわたしを難なくくるんでしまうだろう。
育ってしまったアキに、どうしても慣れない。
離れていた時間が長すぎたのか、離れないようしつこいくらい連絡したら変わっていたのか、それとも。
ダメだ、混乱する。
「あと半年経ったら、もうずっと一緒にいられるから」
それは確かに寝言ではなかった。
アキはわたしに恋をしている。
その事実が、胸の奥に重く沈んだ。
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