第24話 真夜中の電話

 恭司の寝息が健やかに聴こえる。

 いつ買ったのか、古い目覚まし時計の針がいつも通りマイペースにカチコチ音を立てる。

 真夜中、平和。

 今日も信号機は規則正しく動いて、真っ暗な天井を点滅させる。

 うーん、と恭司が寝返りをうつ。

 わたしはベッドの上で、限られたスペースの中で大の字になっていた。⋯⋯眠れない。

 恭司はわたしの夢について、一言も触れなかった。それは興味がなかったからか、それともカウンセラーだからか。

 ――いっそ、訊いてくれたらよかったのに。

 恭司になら、自分でも気づいてないことまで話せそうな気がする。これが信頼ってものなのかもしれない。


 珍しく、真夜中に着信のバイブが鳴る。

 ダルい腕を持ち上げて、枕元に放り投げてあったスマホを拾う。指紋認証すると、部屋の中は白い光で照らされた。

『遅くにごめん』

 そのメッセージの発信源は意外なことにアキだった。

 うれしいような、ドキドキするような、こんなシチュエーションに憧れていたような、いろんな気持ちがごちゃまぜになる。

『どうしたの? まだ起きてたの?』

『勉強してたから』

 ああ、受験勉強。

 こんな時間まで本当に真面目だな。

 睡眠不足はお肌に悪いのに。

『がんばってるね。でもそろそろ寝た方がいいんじゃない?』

 文字の沈黙。

 あれ、返事がない。

 そのままプツリと文字が途切れてしまった。

 混乱する。今まで一度もこんなことはなかったから。

 どちらかと言うと、そういう傾向にあったのは、わたしの方だ。


 そっとベッドから起き上がる。

 少しでも気配を察知されると、恭司に足首を掴まれて瞬殺される。

 油断禁物。いつもは続かない集中力を高めまくる。

 そっと、そっと、恭司の足元を通り過ぎてトイレに入る。

 鍵を閉めてしまえば恭司だって入れまい。

 スマホを見る。

 急いでタップする。

 そこには『アキ』と書かれている。

 呼び出し音がトイレから漏れるんじゃないかと不安になる。お願い、早く。

『ハル⋯⋯』

『もう、心配したじゃん。眠いの? 眠いなら寝なさい』

『ハル、 逢いたいんだ』

 え? 今までにない展開。

 わたしなんてなんの頼りにもならないのに。なにかあったんだろうか?

『なんかあった? 大丈夫?』

『大丈夫じゃない。でも⋯⋯』

 途切れた言葉に吐息が混じる。

『ごめん、迷惑だよね。正々堂々逢えるまでもう少しがんばるよ』

『え、ちょっと待ってよ。わたしだってたまには⋯⋯』

 無音。

 切れた。

 えー、なんでそうなっちゃうのかな? なんで? 全然わかんない。


 便座にすわって考える。

 アキは夜中なのに勉強していた。真面目なアキのことだから、これは普通にあると思う。

 で、わたしが返信した。『早く寝た方がいいよ』って。

 そしたら、プツリと返事が来なくなって。

 わたしは焦った。

 だから恭司に見つかる危険を冒して、トイレまで来たんだ。

 便座の上で考える人になる。

 ⋯⋯逢いたいのか。

 いつもはわたしが逢いたいばかりで、アキからのこういうケースはなかったのに、なにかあったのか、どうしても気になる。

 でも電話は切れてしまった。

 切れた電話はまた繋がるか?


「⋯⋯どうした? 腹、下したか?」

「ううん」

「逆か」

「ううん。でもそれって女の子に訊くことじゃないと思うよ」

「あー、そうかもなぁ」

 いつものように恭司は寝ぼけている。一度寝てしまうと、意識が戻ってくるのが難しいらしい。朝はすっきり起きるのに。

「そっちに行ってもいい?」

「水、流してこいよ」

 ⋯⋯蓋の上に座ってただけで流すものはないわー、と思いつつ、家主の命令なので大で水を流す。

 わたしは薄いドアを開けて、明かりを消して、恭司のそばにしゃがみ込んだ。

 恭司は寝ぼけてわたしをもっと近くに招き、タオルケットを半分かけた。⋯⋯同衾? それは、まずいのでは。

「腹を冷やすからそういうことになるんだよ」

 ぼっと顔が赤くなる。そういうこと、女の子相手に言うかなぁ? ていうか、あの、肌の温もりが⋯⋯。

 人肌の、やわらかな温もり。思わずやさしい気持ちになる。

 ちょっと放っておくと、恭司はまた眠りに落ちそうに見えた。


「ねぇ、寝てるところ悪いんだけど、相談が」

 パッと目が開く。ちょっと怖い。

 こっちを向く。

「相談? 珍しくないか?」

「えーと、カウンセリングじゃなくて個人的に」

「当たり前だ。俺のカウンセリングは三十分二千五百円だ。お前、払えるか?」

 首をフルフル振る。

 ふっと、やさしい顔になる。

 今はすっかり目が覚めてる。わたしの頭にポンと手を乗せた。

「どうした?」

「あ、アキがね、アキが」

「うん、アキくんが?」

「珍しく夜中に連絡してきて⋯⋯」

 わたしはことの次第を話した。

 すべて話し終わると恭司は無言で、虚空を見つめた。

 なにを考えてるのかさっぱりわからない。

「そうか、『逢いたい』っていうのはハルの専売特許なわけだ」

「だって迎えに来てくれるのがアキの役目だもん」

「となると、アキくんは今までの慣習を覆すことをしたんだな」

「⋯⋯」

 微笑むだけでなにも語らない恭司の瞳を覗き込む。

 したことのなかったことを望むアキの気持ちを、いつもの自分に重ねて考える。

 もちろんわたしだけが特別で、アキはどうでもいいわけじゃない。

 わたしたちは血を分けた姉弟くらい似てるのだし。


 アキを。

 アキをひとりにしちゃいけない――。


「ハル、ちょっと待った」

 立ちかけたところを掴まれて、どすんと尻もちをつく。恭司のキャッチは今回は間に合わなかった。

 わたしの心は急いて、鼓動が速くなる。

 間に合わなかったら⋯⋯。

「なにもすぐにアキくんが消えちゃうわけじゃないだろう?」

「わかんないよ。そんな、『絶対』なんて世の中にはないんだよ」

 確かだったはずのものが、ある日突然形を変える。

 それはふとした瞬間に、気付かぬうちに起こる。

 だから気を抜いちゃいけない。捕まえておかないと。

 その、影のしっぽの先でもいいから――。

「落ち着けって。ほら、もう一度まず電話してみろよ。いいか、コツは、こっちは聞きに入って、相手に喋らせることだ。ほらかけて」

 いつの間にか床に落ちていたスマホを渡される。鈍く、銀色に光っている。

 わたしはそれを受け取って、着信履歴を開く。

 更に鼓動が速まる⋯⋯。


『⋯⋯ハル?』

『そうだよ。さっき、逢いたいって言ってくれたじゃん。瞬間移動はできないから、今はとりあえず電話だよ』

 アキは黙った。

 目の前にアキの顔が見えるようだ。

 表情をなくして、困り顔で考えている。

 そんなこと、隠したってわたしには隠しきれないのに。

『ごめん、夜中って人恋しくなるからさ、逢いたいなって、いつもは封印してるんだけど口から思わず出ちゃったんだよ』

 落ち着いた声で淡々とアキは喋った。

 逼迫した感じのさっきのアキではない。

 わたしは恭司の顔を見た。

 恭司は座って、大丈夫、という顔でこっちを見ていた。

『ねぇ、思うんだけどさ、わたしたち、確かに簡単には逢えない距離にいるけど、逢いたいって口に出すのもダメなの?』

『え? それは』

『たまにはアキが言ってくれてもいいじゃん。わたし、うれしいよ』

『だってハル、飛んできそうで怖いよ。ちゃんとそこにいてよ。探し回るのは嫌だよ。わかるところにいて』

『⋯⋯なんでアキはわたしに逢いに来るのに、わたしが逢いに行ったらダメなのよ』

『それは⋯⋯』


 ハル、問い詰めるなよ、と小さい声で恭司は言った。

 闇に溶けそうな彼のシルエットがぼやける。

 まるで消えかけた蝋燭の炎のように。

『逢いに行く。朝、始発で』

『ちょっと待ってよ、困るよ』

『待ってて、わたしが行くよ』

 ――ちょっと待て。

 恭司が大きな声を上げた。

 たぶん、アキにも聞こえた。

 わたしもアキも黙った。叱られた子供のようだ。

 スマホを易々と取り上げられ、スピーカーに変えられる。

 胸が⋯⋯。

『アキくん、ごめんな。黙ってようと思ったけどハルがあんまり性急で強引だったから。保護者責任だと思ってもらえれば』

『⋯⋯すみません。僕が不甲斐ないばかりに』

 アキのしょんぼりした顔が目に浮かぶ。

 それはまだ小さい頃で、作り方を教わった凧を風に飛ばした瞬間、突風が吹いてアキの凧は河原を旋回してあっという間に河に落ちた。

 一瞬のことで、誰にもどうにもできなかった。

 アキのお父さんが「もう一度作ればいいよ」と言ったけど、アキは頑なに首を振った。

 アキの凧には干支の絵と、それに添えて『願い事が叶いますように』と書かれていた。

 アキの唯一の欠点、ミミズがのたうつような字で。

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