第22話 彼氏のいない街

 アキが従兄弟だというのは、そんなに問題なのかな?

 わたしたちの母親が一卵性双生児だというのはなにか問題がある? ――血が濃いと言ったのは誰だったっけ。

 航太はわたしのスマホをテーブルにパタンと置いた。

「写真、専攻してるくせに、彼氏の写真、下手だな」と言った。

 いや、そんなこと言っても、じっとポーズを取ってくれるわけでもないし、声をかけて振り向いたところを撮ったんだから、ブレてないだけマシだと思うんだけど。

「そっか、彼氏。確かに千遥に似てる。自分に似てる人間と付き合うってちょっと不思議な感じしないの?」

「⋯⋯似てると思ってない」

「マジかぁ」

 航太はもう画面を閉じたわたしのシルバーのスマホを傾けて見た。もちろんそこにもうアキは写ってない。

 確かにわたしは彼氏がいないタイプに見えるかもしれない。大雑把でガサツで、女子らしくないし。

 だからみんな、アキみたいに男の子らしい彼氏がいるって言うとこんなに驚くんだろう、たぶん。

 わたしだって、自分の彼氏がこんなに素敵だってことに驚いてるけど。

 なにしろチビの頃から知ってるわけだし。


 航太はスマホをわたしの方に押しやって「ま、彼氏がいるなら大丈夫か」とブツブツ言った。

「今度いつ逢うの?」

「いつ⋯⋯いつかな? わたしが呼んだ時、かな?」

「本気で言ってるの? 大変だな、彼氏も。遠いんでしょう?」

「そうだね、この前は三時間くらいだったし。でもなにかがあったらまず呼ぶように言われてるから」

 航太は頬杖をついてわたしを見た。

 なにかを考えているようで、口を閉じたまま、しばらく喋らなかった。

 わたしは緊張感に耐えられず、視線を逸らして壁に貼られたポスターを見てるふりをしてバナナジュースを啜った。

 音は立たなかった。

 気が済んだのか、航太はわたしを見るのをやめて、アイスコーヒーを手元に引き寄せた。

「なーんで僕が見つけたって思っちゃったかな」

「なにを?」

「まぁ、なんかいいもののこと。やっと見つけたと思ったけど、勘違いってあるじゃん」

「うん、あるよね。でもさ、勘違いが本当になることもたまにあるよね?」

「······あるかな?」

「あると思うけどなぁ」

 わたしは思い出して、バッグの底をゴソゴソ探した。

 確かここに入れっぱなしのはず。

「ねぇ、見て。アタリ」

「うちの店?」

「交換って本当にできんの?」

 航太はアイスコーヒーから顔を上げて、少し顔を傾けてこっちを見た。

 なにか、別のことを言いたいように見えた。

 けど、思い過ごしかもしれない。

「できるよ。またすぐバイト入るから、持っておいでよ」

「うん、そうする」

「······友だちだからさ、いろいろ心配するんだよ。いきなり倒れたりするし」

「あーねー」

 あれは大失態だった。


 じゃあね、と大荷物を提げた航太と駅で別れる。

 えーと、なにしに来たんだっけ······?

 しばらく考える。

 ああ、お土産。そうだ。

 今日はざる蕎麦にしようと考えて、駅近のスーパーで薬味と麺つゆを買う。

 すっかり遅くなって、急がないとこれは門限に間に合わないかもしれないと、気持ちばかりが焦る。足早に信号を渡る。

「あら、恭司のとこの」

 振り向く前からわかってたけど、佐伯さんだった。挨拶して帰ればいいのはわかってるけどなぜか無視はできない。早く帰りたい気持ちに拍車がかかるのに。

 門限なんかじゃなく、この人の前はすごく居心地が悪い。

「こんにちは」

「買い物? 恭司、もう帰ったわよ。急いだ方がいいんじゃないの」

 ほら、だから最初から声なんてかけてこなければいいのに。

 この人の前に出ると、自分がすごく子供に思える。それは実際の年齢差の問題じゃなくて······。

「さっきまで一緒だったの。そういう集まりがあって。あなたが気にするようなことはないから安心して。ほら、わたしは既婚者だしね」

「どうして······」

 なにを聞こうとしてるんだ?

「どうして別れちゃったんですか?」

 彼女は同じスーパーの袋を提げていた。

 重そうな書類の入った黒いバッグと一緒に。

「さぁ。恭司が言ったから。『もうダメだね』って。若い頃のことだし、深くは覚えてないけど。あの部屋もずっと行ってないから懐かしい。だからって行きたいわけじゃないの。人生って難しいのね」

 彼女はにこっと笑った。感じがよかった。

 そしてその笑顔は少し同情的に見えた。


 門限を過ぎたことは結果的には怒られなかった。蕎麦効果だ。

 やっぱり恭司は蕎麦がすきで、長野の蕎麦だと喜んだ。

 ついでに御守りを見せる。

 大きな手のひらの上に乗せたそれをまじまじと恭司は見て「これが本命か」と言った。

 わたしにはなんのことなのかわからなくて、バナナジュースをお代わりした話をして恭司を笑わせた。

「ミキサー買うか」

「バナナジュースできる?」

「できるよ、すぐに。でもアレだな」

「アレ?」

 恭司はわたしの頭をぐしぐしと撫でた。

 これがこの人の愛情表現なのかなぁと撫でられながら思う。

 少し伸びた髪は途端にぐちゃぐちゃになり、ひどいな、と手櫛で調える。

 恭司が手を伸ばしてわたしの髪に触れて、頭の形に沿うようにそっと撫でた。

 目がやさしくてドキッとする。

 この人は仕事をする時、こんな目をしてクライアントを見るんだろうか?

 やさしくて慈しみ深く、少し、情熱的に――。


「佐伯さんに会った」

「うん、今日は千嘉と一緒だったな」

「······別れて何年も経つのに、まだ名前で呼ぶんだね」

 彼は黙って、いつものようにキレイに髭の剃られた顎に手をやる。

 癖だ。

 答えを考えている時の。

「それもそうだな。千嘉は千嘉だけど、考えてみたら既婚者を名前呼びするなんて、どうかしてるな」

 わたしは胡座をかく恭司の前に座って、その顔を間近で見あげた。

「······どれくらい、付き合ってたの?」

 考えに反して恭司は吹き出した。怒られるんじゃないかとちょっと慎重に訊ねたのに。

 笑うことか?

「お前たちに比べたらほんとにちょっとだよ。ほんのちょっと、紙より薄い。それなのに呼び捨てにずっとしてたなんて、俺はまだまだ子供なのかもしれない」

「恭司が子供だったらわたしはどうなるの?」

「そうだな。どうだろう? ······俺が子供でお前が近所の小さい子だったら、泣いてても手を繋いでやれたのにな」

「どういう意味?」

 チョコレートが溶けるように、恭司の表情はさっきより更にやさしく、やわらかくなった。

 甘い、甘い瞳を覗き込む。

 そこにはわたしがいる。

「アキくんを遠くから呼ばなくても済んだかもな」

 ピンと来ない。

 わたしの人生で、呼んでもアキが来ないなんてことはそうそうなかった。

 予備校だったり、ピアノの練習中だったり、そういう時は無理だったけど、それ以外はいつだって、呼べばアキが隣に。


「ねぇ、アキ、迷惑だったよね?」

「どうだろう、アキくんの気持ち次第だろう。でもアキくんはここまでできる限り早く駆けつけたし、それが答えだろう? それともハルはそれだけじゃ不満なの?」

 アキが逢いに来たときのことを思い出す。

 ドキドキするためじゃなくて、アキがどんな目をしてわたしを見ていたのかを思い出すために。

 手の感触、もう懐かしくなってる。

 一度逢うと、また逢いたくなるのはおかしいんじゃないかな?

 あの時繋いだ手を、ギュッと握る。

「······離れてると寂しくなるの」

「逢えないことが?」

「······上手く言えないんだけど、人生が空っぽになる感じ。そういうのって、わかる? すごく寂しくなる」

「だからいつも呼ぶの?」

「だってアキはいつも誰よりも早く来てくれるから」

 髪を撫でられて、その続きのように頭の後ろに大きな手がやって来た。その手は、わたしの頭より大きいんじゃないかなと思っていると、おもむろにわたしの頭を自分の方に招いた。

 恭司の肩が、胸が、顎が、どんどん迫る。

 そしてすとんと、落ち着くところに落ち着いてしまう······。

「アキくんがいないのが寂しいんじゃないの? それとも呼んだらすぐに迎えに来てくれる人が欲しいの?」

「それは······」

 シャワーの後の恭司のシャツは少し汗で湿っていた。いつもの匂いがする。それが嫌じゃない。

 慣れ親しんだ毛布のように、わたしを包む。

「家出少女はいつも、迎えに来てくれる人を待ってるのか?」

 そういう風に考えたことはなかった。

 アキしかいないわたしの小さな世界から、その外側にある大きな世界へと、ポンと背中を押されたような気持ちになる。


 それは――。

 迎えに来てくれる人はいつもアキだったから。


 なぜか口に出すことは憚られた。

 言葉にするのが怖かった。どうしてかわからないけど。

「ジューサーはやっぱり買わないよ」

 恭司はわたしを離すと、真っ直ぐに座らせた。

 温もりが、離れていく。

「どうして?」

「独り身の男は荷物を多く持たないから」

 そう言うと恭司は立ち上がって、冷蔵庫へ向かった。扉を開くとグラスに麦茶を注ぎ、喉を鳴らすように一息にそれを飲み干した。

「じゃあ今度、一緒に飲みに行かない?」

 冷蔵庫に麦茶を戻しながら、恭司は笑った。

 まるでわたしをバカにしてるんじゃないかと思うくらい、大きく。

「お前、俺みたいな男がバナナジュース飲んでたらどう思う?」

「おー、趣味が合うなと思う」

 バタン、と冷蔵庫のドアを閉めてのしのしとわたしの前へ歩いてきて、しゃがんだ。

「そういうところがまだ子供なんだよ」

 デコピンを食らう。

「子供じゃないよ、十九だもん」

「まだまだ夢を食べて生きてる年頃だろう、ハルの夢はなんだ?」

 わたしの夢。

 夢は。

 それは、はっきりと他人ひとに言えることではなかった。




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