インディアンサマー[spring]

月波結

第1話 汚い

 光が、弱い光がわたしの目を覚ます。

 街明かり。

 信号の点滅。

 そういったものがくもりガラスの向こう側に存在する。わたしの部屋から見えなかったものたち。

 どれくらい眠ったんだろう? というか、いつ寝てしまったんだろう?

 いつの間にか雨が降っている。

 くもりガラスが涙を流す。

 泣きながら「ごめんなさい」と謝ったあの時はまだ、降ってなかったはず。

 足元に丸めたタオルケット、それから持ってきたアウトドアメーカーの大きめのリュック。全財産。

 ふぅ、と胸に溜まった息を吐き出して、寝返りを打つ。天井には雨漏りの跡なのかシミがあり、そういうのってお化けに見えるんだって思ってた子供時代を思い出す。


 ······懐かしい。

 子供時代、あの子といつも一緒におばあちゃん家に泊まりに行って、その夜の深さと迫るような天井が怖くて、二人でくっついて眠った。

 いくつくらいまでそうしてたんだろう?

 あの子の手を離してここまで来てしまったけど、子供のようにまた泣かせてしまったかもしれない。

 わたしがいないとダメなんだ。

 そう思ってた。

 でもそんなものはただの驕りで、気が付けばあの子も立派な、自分の足で立つひとりの人間になっていた。······わたしの方がお姉ちゃんだと思ってたのに、なのに。


 汚い。

 今のわたしは汚い。

 この部屋の、カーテンさえないくもりガラスも、シミのついた天井も、ダニがいるに違いない畳も、みんな汚い。

 かけるべきものが不在なカーテンレールに、わたしと彼のTシャツが干されている。魚の干物のようだ。どう切りとっても美しい景色じゃない。

 そしてそれらはわたしによく似合う。

 汚いわたしをあの子はどう思うだろうか?

 清潔で、常に守られて生きてるあの子。

 一緒に転がったレンゲの咲く草原は、どこに消えてしまったんだろう?

 二人、青草を踏みつぶして笑っていたあの頃にはもう戻れない。

 だってわたしは汚れてしまったから。


 軋むベッドから下りて立ち上がると、ガシッと強く足首を掴まれてビクッとする。大きくて厚みのある、大人の男の人の手。

 まるでお酒でも飲んだかのような寝ぼけ声で「どこに行く?」と聞かれる。

「シャワー、借りたい」

 ああ、シャワーか、と彼は言って「洗ったタオルが一応置いてあるよ」と付け足した。

 ありがとう、と小さく呟いて狭いシャワールームに飛び込む。

 設定温度の高めなシャワーは、わたしの汚れを洗い流そうとする。でもそんなに簡単に汚れは落ちない。

 丹念に体を洗う。

 そういうことではないのに、肌を痛めつけるように肌を洗う。

 罪は消えない。罰を受けなければ。


「なんだまだ朝にならないのか。眠れなかったんだろう?」

 シャワーを上がって髪を拭くわたしに彼はそう言った。

「いえ、少しは。せっかくベッド借りたのに、ごめんなさい」

「それについては寝る前に散々、話し合っただろう? 蒸し返すな」

 彼は人の良さそうな笑顔で穏やかに話した。

「······ありがとう、キョウジ」

「そうだな、それでいいんだよ、ハル」


 キョウジとは街中で出会った。

 リュックを引き摺るように背負ったわたしは、金曜日の夜の人波に、寄りかかる壁もないまま立ち尽くしていた。

 まるで決められた速度を守るように流れていく人波。その場に立つわたしはまだ馴染めずにいた。

 そこに三人の大学生らしい男の子たちがやって来て、わたしをカラオケに誘ってきた。

 その夜を過ごす場所を手にするためにそこに立っていたわたしは「いいでしょー?」と肩に手を回されると怯んだ。

「どうせ行くとこないんじゃないの? 変態オヤジとかよりオレらの方が良くない?」

「そうそう、楽しくやろうよ」

「変なとこ行こうって言ってるわけじゃないじゃん。カラオケだよ。歌いに行くの」

 代わる代わる話しかけてくる。

 段々、膝が笑ってくる。

「朝まで歌ってればさぁ、こんなとこに立ってなくても済むじゃん?」

 覚悟を決めろ。

 グッと歯を食いしばる。

 頷いてしまえばいいだけなんだから。

 どうせそういうのわかってて来たんでしょ、と自分の中の自分が囁く。

 別の男の子に手首を掴まれ、もう逃げられそうにない。

 夜の街にはリスクがある。そのリスクを知ってて、買われに来たのはわたしだ。


「離してやれよ」


 その男はわたしを囲う三人の後ろから現れた。三人の大学生に比べると筋肉質で肩幅も広く、簡単に言えば強そうに見えた。

 男の子たちは目つきを変えて男を振り返った。

「見てたんだけど、その子、お前たちと行く気ないんじゃないの?」

 三人の中のリーダー格らしい、今流行りの、皆がしているような髪型の子がまず反発した。

「オジサン、勘違いしてるみたいだけど、オレら仲良しなんで。これから歌いに行くだけなんで」

 ヘラヘラと笑顔でそう言った。

 な、そうだよな、と仲間に同意を求める。

「そう? あんまりそういう風には見えなかったんだけどな」

「ね、えーとなにちゃんだっけ? オレらカラオケ屋に向かってるとこだよね」

「······」

 緊張と怖さで声が出ない。無理に声を出そうとすると、喉の奥がヒッとなった。

「離してやれよ」

 わたしは男の顔を見た。目を見た。哀願した。

 怖かった。怖くてなにもできない。手首に回された手を振りほどこうとしても、腕の力が上手く入らない。


「――助けてください!」


 思ったより大きな声だった。

 道行く人がなんだ、という顔で行き過ぎる。

 わたしたちだけが歩みを止めて、流れの邪魔をしている。

「助けてください」

 男は三人をさも簡単に、力を使ってる様子もなく振り払った。

「ほらな。早く行けよ」

 男の子たちは口々になにかを言って離れていったけど、喧騒の中、それはすぐに消えていった。


 はぁ、はぁ、はぁ、······。

 走ったわけじゃないのに息が切れる。胸を押える。苦しい。

 目に涙が滲む。

「苦しいのか?」

 真剣な目。心配してくれてる。信用してもいいのかもしれない。

 わたしは涙目で頷いた。

 男はその大きな手のひらでわたしの口を塞ぐと「少し息止めて」と言った。わからないけど従う。背中から緊張感が、すっと抜け落ちる。

「大丈夫か?」

「······ありがとうございます」

「怖かったな。過呼吸みたいなもんだろう。ありがとうが言えるならもう大丈夫だな。じゃあな、今度は気を付けろよ。どうせなら相手を選べ」

 立ち去ろうとするその広い背中に、無意識に手を伸ばした。汗で濡れたTシャツの感触が手に伝わる。

「あの」

 振り向きざまに男は言った。

「名前は?」

「千遥です」

「ハルね」

 きちんと伝わってない。周りがうるさいからだ。

「うちに来るか。それともパパ活でもするのか?」

「⋯⋯名前は?」

「俺はキョウジ。仕方ない。じゃあ行くか、キレイなとこじゃないぞ。寧ろ古くて汚い。でもなんでか出る気になれないんだよな、あの部屋」

 足の速い彼に追いつくよう、駆けるように歩く。履き慣れないちょっと踵の高い靴がカタンとなって、キョウジに支えられる。――恥ずかしくて顔が見られない。

「ありがとうございます」

 小さく伝えた。


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