第3話 保護者を拾う

 恭司は、お弁当をその大きな口で瞬殺してしまった。

 お湯は沸かしたまま、まぁとりあえずこれでいいか、と包装のビニールを剥がしたままのカップ麺を脇に避けた。

「実は俺は神社の神主の家系なんだ」

「え!? 冗談ですよね」

 さっき覚えたばかりの名前を思い出す。

 言われてみればそうかもしれない、という名前だった。

「苗字は『守矢もりや』。守る、に弓矢の矢だ。守矢恭司、らしいだろう?』」

「······じゃあ、職業は神主?」

「いや、全然。普通の職に就いてるよ」

 なかなかない展開に驚いて心拍が大きくなる。

 聞いたことのない話だ。

 お寺の家の子というのは同じ学年にいたことがあったけど、神主の家系というのはどこか神々しくてさっきまで感じなかった距離を感じる。

「継がなくていいの? お兄さんがいる?」

「いや。継がなくていいって。子供の頃からよその子と分け隔てなく育てられたよ。クリスマス会にもプレゼント交換用に包みを持たされたり、ジンジャーブレッドクッキーまで焼いてくれたし」

「神社なのに?」

「ああ」

 いつの間にゆったり両膝を立てたスタイルで緩く手を結んで座っていた彼は、遠い目をした。


「普通に学校に行って、喧嘩して言い付けられるとどっちが悪くても『神主の子供のくせに』って言われて、母さんが『ごめんなさい』って低く頭を下げるのを見てるのが嫌でな。それで喧嘩はよそうと思った。

 進学も就職のこともなにも言われなかった。自分の道は自分で守れって、それだけだよ」

 なにも言えなくなってしまう。

 わたしはいつも自分のことでいっぱいいっぱいで、他人のことまで考える余裕がなかった。

 なんだかそれが、今は恥ずかしいことのように思えた。

「まぁ、ひとりひとり違うからな。みんななにかしらの事情を持ってるわけだ。俺のコンプレックスはそこってこと」

 ⋯⋯わたしのこと、思いやってくれてる?

 心配してくれてるのかな?

 それは考えすぎかもしれない。

 でも、そう思いたい気がした。


 ケトルのお湯は沸いて、カップ麺を作る彼の背中は少し楽しげに見えた。まるで鼻歌でも歌っているかのように。

 古びた冷蔵庫に貼り付けられたタイマーをセットすると、また戻ってきて腰を下ろした。

「聞きたいことがあるんだが」

「はい」

 緊張する。

 割り箸をお弁当の縁に置く。

 正面から顔を見る。

「遠くから来たの?」

「いいえ、うちはかなり近いとこで」

「ふぅん、そっか。ずっと帰らないつもりなの?」

「それは⋯⋯」

 言葉に詰まる。アキやママ、続けて友だちやいろんな人の顔がぼんやり浮かんでは消えていく。

 消えていく⋯⋯。

 もう戻れないかもしれない。前のようにできる自信がない。

「俺が信用に足る人間かどうかはお前が決めていい。でもあんなところで知らない誰かを待つくらいならさ」

 そこで言葉が区切れた。


 考え事をしている。

 口が真一文字に結ばれて、次の言葉を探している。

 その口はゆっくり開いて、わたしはそれをじっと見ていた。

「袖触れ合うって言うだろう? お前に危害を与えるつもりはない。なんていうか保護動物みたいな感じだな。少し、気持ちが落ち着くまでここにいる?」

 面食らった。まさかそんな言葉が出てくるなんて。

 わたしのことを信用できると思ってるんだろうか?

 やろうと思えば、金品を奪って出ていくこともできるのに。

 涙が自然に溢れた。

 出てきた言葉は「ごめんなさい」だった。

 そしてわたしは顔を上げられなくなった。神主の息子とか、全部わたしを騙すための作り話かもしれない。

 でもそれでもいい、今は。

 縋る袖がないのなら、セーフティゾーンが見つからないなら、ここを頼ろう。

 恭司を信じたところで、今の最悪な状況より更に最悪にはならないだろう。


 ――それが、わたしと恭司の、不思議な出会いだった。


 今朝は恭司に起こされて、まだ気怠い体をごろんとさせる。恭司は少し困った顔をしてわたしの顔を覗き込み「ハル、ご飯食べるか?」と訊いた。

 頭の中で数分、昨日の出来事を巻き戻して思い出す。そうか、ここは恭司の部屋だ。

 天井のシミは健在で、くもりガラスからはいささか和らげられた真夏の光が差し込んでいた。

 わたしは上半身を起こして驚いた。

 恭司がスーツ姿だったから。「ひっ」と声が出そうになる。

「やっぱり似合わないか?」

「ううん、あの、昨日のイメージと合わなかっただけ」

「昨日はちょっと外に出たつもりだったから、ひどい格好だったしな」

 確かにちょっと怖い格好だった。

 ハワイのお土産かなと思うくらい、裾に極彩色の染めが入ったよれたTシャツに、膝のところでカットオフされたボロボロのデニムにサンダル。

 トドメがロン毛。その額の下の意志の強そうな太くて黒い眉。髭がなくてよかった。

 あの男の子たちもさぞと思っただろう。わたしも最初、この人はいい人なのか迷った。今、そんなこと、とても言えないけど。

「スーツ、似合う。ちょっとこっちに寄って。ネクタイ曲がってるから」

 わたしの高校は制服がネクタイだったので、正しい結び方は知っていた。

 恭司はなぜか赤い顔をして「ありがとう」と言った。

 テーブルの上には平皿に目玉焼きと、袋ごと、テーブルロールが置いてあった。

「卵アレルギーじゃないよな?」

 首を縦に振る。

「パンは焼きたかったら自分で焼いて。トースターは使えるから」

 またこくりと頷く。

「どこかに出る時はこれ」

 じゃらっとした鍵を渡してきた。皮のキーホルダーが付いている。恭司がスペアを使うらしい。

「エアコンのリモコンはここにあるけど、うちはつけっぱなしだから消さなくていい。門限は十八時。暗くなるまでに帰ってること。一応今は俺が保護者だからな」

 こうしてわたしは保護者を拾った。


 真夏の街は賑やかすぎて、わたしは影を落とすことしかできない。その影も誰かに踏み潰されて無かったことにされそうだ。

 置いてもらっているので、買い物でもしようと街に出た。この街はうちから一駅。たったそれだけの距離しか離れていないのに、誰もわたしを探すことができない。

 恭司は仕事に行ってくる、と真面目なスーツスタイルで出かけて行った。あの、わたしに似た重い黒髪はオールバックになるよう後ろで結ばれて、それでいてひどく真面目な人に見えた。

 昨日の恭司とは全然違う。

 もしかしたら本当は神社関係の人なのかもしれない。······まさかね。

 あの話も笑い話の一環の作り事だろう。

 とにかく恭司のいない間、一宿一飯の恩を返すべく、スーパーを探す。

 騒がしいのは表通りだけで、中に入ってしまえば住宅街だ。都会なんてそんなもの。地元の人が気取らずに通うスーパーを見つける。

 あの貧相な台所でまともな食事が果たしてできるのか? 炊飯器は長いこと使われた気配がなかった。······壊れてるってことはないよね?

 不安になる。

 例えばもし炊飯器が使えなくても、お鍋があればご飯は炊けることを思い出して、うーんと唸る。その前に、鍋がいくつあるのか見てくるのを忘れた。······皿は? 皿は何枚?  ああ、こう暑くちゃ戻って確かめるのも難しい。

 熱中症になるのがオチだ。

 あるもので済まそう、というのが最終的な結論だった。




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