第14話 過去と頭痛
その夜は、殊更早く語り比べの宴が終わりました。
どなた様も誰かへ「サンパギータ」と囁きたくなる夜だったのでしょう、皆それぞれのパートナーと寄り添い、いそいそと宴の間を離れて行きました。
今夜、サンパギータの名は幾つ囁き交わされるのでしょうか。
そしてその誓いの内幾つが本当の誓いでしょう。
ラアヒットヒャ様も、シヴァンシカ妃に「サンパギータ」と、囁くのでしょうか。それは随分皮肉な事に思います。シヴァンシカ妃はロキ様の語りを聞かなくて正解でございました。
わたしもサンパギータを連れて部屋に戻りました。
手早く寝間着に着替えさせると、ねぎらいをこめてサンパギータのお世話にかかります。
香油をほんの少し垂らした水で湿らせた布でお顔を清め、繊細な細工が施された
贈り物のおかげでお手入れ用品が充実しましたので、サンパギータの美しさはますます磨かれていました。わたしもとても誇らしい気持ちです。
「サンパギータ、あなたの名前は愛の囁きだったのね」
サンパギータは、虫除けのお線香の煙が天井へ上がっていくのを見つめています。
「死んでから愛を囁くのは、どんな気持ちでしょう。……死んでいた方が気楽に言えるかしら。少なくとも、死にそうにはならないわね」
サンパギータは静かに目を閉じました。わたしの声なんて聞こえていないとでも言うようでした。
けれどいつもの事です。
わたしが微笑んで彼女の髪を撫でていると、部屋の扉が開きました。
召使いがサンパギータへの贈り物を届けにやって来たのです。わたしは静かに召使いへ頭を下げて、贈り物を受け取りました。
召使いたちの目の中には、相変わらず引力のある呪いと嫉妬が焼け焦げています。
それは精一杯の蔑みの視線となって、サンパギータを射貫こうとしていましたが、矢の無駄遣いでございました。自分を蔑んでいないサンパギータをその矢で射抜く事は、端から不可能なのです。
部屋を出て行く召使いたちを見送り、わたしは薄く微笑みました。
少し前まで同じ呪いを持ち、慰めのようにすら感じていた彼らの感情を、懐かしく思ったのです。
あれは暗闇に淡く灯るランプのように安らぎ、更に、自分より大きな影を作り出すのでとても魅力的なのですが、わたしにはもう、彼らと同じ感情はありません。圧倒的な光を前にして、ランプの灯りなど無いも同然。
わたしの光は勿論、サンパギータとロキ様です。
二人は影も作らぬほど、わたしを照らします。
「サンパギータ、サンパギータ……」
わたしはこの美しい人を呼ぶ度に、知らず誓っていたのかも知れない。
死んでからも誓い続ける事が出来るなら、わたしもどこかで花になりたい。
ずっとずっと、誓いを囁いていたい……。
そんな風に夢想していると、外から水音がしました。
わたしはハッと顔を上げ、バルコニーへ出ました。
僅かな灯りが揺れる水面に足を浸し、ロキ様がバルコニーの階段に腰掛けていらっしゃいました。
*
幾つも瞬く夜空の星が、静かで平らな水面でも煌めいています。
その中を泳いで来た彼の身体から零れ落ちる水滴は、流れ星のようでした。
昨夜の事がありましたので、わたしはロキ様が今夜ここへやって来られるとは全く思っていませんでした。
「どうして」と声を出し、驚きを隠す事が出来ませんでした。
「何がですか?」
ロキ様は、髪から水を滴らせて首を傾げられました。
長い前髪をかけた右の耳で、銀のピアスが濡れ光って揺れています。その片割れを、自分が持っているのだと思うとくらくらします。
こっそりと賜ったピアス。わたしはそれに施されたミル打ちの数まで覚えてしまいました。
「もう来て頂けないとばかり思っておりました」
「ラタの居場所を知っているのに、俺が来ないわけがありません。何故そんな事を?」
「お、怒らせてしまったので……」
「へぇ」
ロキ様はいつものように優しく微笑まれました。そして、長い足でチャプンと水面を蹴り、柵にしなだれてわたしに問いました。
「ラタは、いつ、どうやって俺を怒らせたのですか?」
「昨夜身に余るお誘いに従わなかった事と、今夜わた……サンパギータが、あなた様の語り比べの邪魔をした事です……」
「人生を変えてしまうような誘いをどうするかは、ラタの自由です。サンパギータ様の語りでラタに腹を立てたりしません」
「で、でも、昨夜、ロキ様はお怒りでした」
「サンパギータ様に嫉妬しただけです」
ぱしゃん、と、つま先で水面を弾きながら、ロキ様はそう仰って俯かれました。
わたしはロキ様が嫉妬などという感情を持っている事に驚き、言葉を失いました。
この人があの感情を持っているのなら、と、再び取り返したくなります。
「サンパギータに?」
「ええ。サンパギータ様の為に、俺と共に生きる道を断とうとなさるのだから……そうはさせませんが。ラタ、ここへおいで。話をしましょう」
ロキ様は、自分の座っている横の床をポンと叩いて、わたしをお誘いくださいました。
微笑みに誘われて、そろそろと彼の横へ座りました。すぐ横にロキ様がいらっしゃる。ただそれだけで幸せでした。
「話……語りでしょうか。わたしは上手くなくて……」
「いいえ。今夜は星がたくさん出ていますね、といった、そういう他愛のない話をしたいだけです」
「どうしてでしょうか」
「話をして、ラタの事をもっと知りたいからです」
わたしはそれを聞いて、魂を縮こまらせました。以前にも申し上げましたが、わたしは自分の事を一番知られたくないのです。
「奴隷以下の女というだけでございます」
「流れ者の俺が、階級の事をとやかく言えませんよ。サンパギータ様のお世話はいつからされていたのですか?」
「……八つくらいのころから……です」
そう答えた後、ズキン、と頭痛がしました。
サンパギータのお世話係になる前の事を思い出そうとすると、こうして身体が拒否をするのです。
思い出してはいけない。誰にも言えない、と。
すらすらと思い出せるのは、心に留めた物語だけ。それだけが、わたしの慰みであり、唯一の思い出でした。
「それまでは、どちらに? ご両親とは引き離されたのでしょうか?」
尋ねるロキ様の声が歪んで聞こえます。
ズキン、ズキンと頭痛が強くなり、わたしは頭を抱えました。
「どうしました? 気分が優れませんか?」
「いえ……大丈夫です。申し訳ありません……幼い頃のサンパギータのお話にしませんか? サンパギータは、それはそれはとても愛らしい少女で……」
サンパギータの事を話し出したわたしに、ロキ様は呆れた様にお笑いになられました。
「またサンパギータ様ですか……ラタの話が聞きたいのですが」
「わたしの話などありません……サンパギータが、今までのわたしのすべてです」
「……サンパギータ様が羨ましくて死にそうです」
死という言葉を聞いて、わたしはゾッとしました。もしもロキ様が死んでしまわれたら、わたしはロジータのように病になって死にとうございます。
「ロキ様が死んでしまったら、わたしも死にます」
思わず口に出して宣言すると、ロキ様は訝しげにわたしの顔を覗き込み、唇を歪められました。
「あなたは俺が死んでも、サンパギータ様の為に生きますよ」
「でも……でも、必ずどこかが死にます……」
「ふふ、ありがとうございます。では、その死んだ欠片は私の骸の側へ来てくださるのですね」
「はい」
そう出来たなら、夢のようです。
「そうしたら、二人でサンパギータを咲かせましょう」
そう出来たなら、夢に違いありません。
サンパギータの名を囁きながらも、ロキ様へ愛を誓えるなんて。
「けれど、長く幸せに生きて欲しいです」
「俺は、生き続けるならあなたに側にいて欲しい」
「……それは……」
わたしはサンパギータの眠る部屋の方へ、視線を彷徨わせました。
ロキ様はそんなわたしの顎にそっと指で触れ、ツイとわたしの視線をご自分の方へ向き直させました。
「ラタ。ラジャはこの宴が終わり次第、サンパギータへ神聖な巫女の地位をお与えになられるそうです」
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