四章
第16話 毒と星とさえずり
今宵ロキ様が語ったのは、神に魅せられた娘の物語でした。
娘を愛してしまった若者の苦悩が、艶やかな声で語られています。
わたしは聴衆と同じ様にその娘に呆れ、娘に恋する若者に同情しました。
同時に、その娘の気持ちが分からないでもありません。……わたしのサンパギータは神ではありませんが……。きっと近い気持ちだと思うのです。それに、その娘だって若者のことを愛している筈。
……ロキ様の語りは、その夜もついつい感情移入してしまう素晴らしい語りでした。
「――そして今夜も、若者は娘の顔見たさに彼女の元へと通うのでした。……いつか、若者の気持ちが通じると思う方は拍手をお願いいたします」
初めて聞く変わった話の閉じ方に、聴衆は喜んで拍手をしました。殆どの者が、娘が神の元ではなく若者の元へ行く事を望んでいるのでした。
わたしはサンパギータの傍らに伏して、拍手の音を聞いていました。
熱いくらいにロキ様の視線を感じましたが、顔を上げて、彼の目を見る事がどうしても出来ませんでした。
――わたしは本来ならこの場にいてはいけない者なのです。拍手なんて、出来るわけがないではありませんか。
拍手が鳴り止み、ラアヒットヒャ様が「さて、次に語る者はいるか」と聞きました。皆に呼びかけている態でしたが、目はサンパギータをご覧になっておいででした。
「どうだ、サンパギータ姫。このままではそなたの宝石が、ロキラタの物になってしまうぞ」
ラアヒットヒャ様は、ご自分の奥方が宝石を奪い、更に『サンパギータの宝石を勝負の景品に』とご提案されたのに、すっかりその事をお忘れなのでしょうか。わたし以外にも耳を疑った者がいればいいのですが。
いっそ、ロキ様へ宝石をお渡ししなければならなくなって、悔しがるお顔を拝見してみたいとすら思いましたが、サンパギータの宝石はサンパギータの物です。
サンパギータ自身が宝石を取り返す姿を、皆の目に焼き付け崇拝させなくてはいけません。
――語って、サンパギータ。
「……子らよ、衣を与えよう。一枚、二枚、三枚……」
サンパギータはスラリと立ち上がり、わたしが昨夜語った物語を語り始めました。
ラアヒットヒャ様の目には安堵が、シヴァンシカ妃とファティマ姫たちの目には嫌悪が現れていました。語り比べが始まってからというもの、彼女たちにとって随分長い苦痛を与えている気がします。
彼女たちもそれが耐えられないのでしょう。
特にシヴァンシカ妃はサンパギータが語り出すと、席を外されてしまいます。
人々のサンパギータを見る目には、色々な種類がありました。
猜疑は勿論、恐れなどの否定的なものから陶酔や崇拝まで、数多の視線を浴びてサンパギータは語ります。
「皆様には怖いものがございますか? わたしにはあります。それは自分の心の中に垂らされた自分専用の毒です。その毒は増えます。外から与えられたにも関わらず、いつしか知らぬ間に自分自身で作っているという、恐ろしい毒です。何故毒を自ら作ってしまうのかと思われるやもしれません。しかし、作らねば不安で仕方がなくなる毒なのです」
道に置いて行かれた様な聴衆の表情を見て、わたしは冷や汗をかきました。
雅な方々には物騒すぎただろうかと思ったのです。それとも、何を言っているのか解らないのかもしれません。何を言っているのか解らない語り部ほど困ったものはいませんので、わたしは顔を赤らめました。
しかし、サンパギータは恐れません。彼女は実に悠々と語ってくれました。
「さて、その毒に犯された一人の娘がおりました。その娘は毒に犯されているどころか、奥から二番目の左下の歯が抜け、左手の小指を曲げる事が出来ません。更に、背中にはミミズ腫れが数本。そんな醜く役に立たない娘でしたので、暗く小さな部屋に閉じ込められていました」
聴衆はやはり渋い表情をしています。
毒に犯された醜い娘の話など、誰が好んで聞くでしょうか。
物語は心が気持ち良くなる為のものだと身に染みてわかっているクセに、どうしてこんな話をはじめてしまったのだろうと、不安で仕方が無くなりました。しかし、始まってしまったものはもう止まりません。
失敗かもしれないわたしの話を、サンパギータはどんどん語っていきます。
「ある日、娘は部屋から出る事になりました。娘を待っていたのは、小さな美しい姫でした。その美しさは、世界中の人々の美しい夢を集めても、まだ足りません。娘は産まれて初めて美しさというものに呆然となり、小さな姫の足下へ跪きました。姫は娘の毒の症状を和らげ、娘が失いかけた優しさや、綺麗なものを見て潤う心を取り戻してくれました。例えば毎夜、夜空に瞬く星を眺め煌めく光で遊びます……」
サンパギータが、美しいサリーを翻して外の星空を指さしました。
皆がその動きに釣られて首を動かします。
すると、サンパギータの声が外の廻廊から聞こえました。
「見てご覧なさい、今日の星はなんて綺麗なのでしょう」
ギョッとする聴衆を欺く様に、サンパギータの声が今度は宴の間の隅から上がります。
「まぁお姫様、夜は冷えますからショールを……」
聴衆が慌てて声のする宴の間の隅へ首を回した矢先から、今度は外の廻廊からコロコロと笑い声。
「ほらほら、雲がかかってしまうわ。早くこちらへいらっしゃい」
すると、娘はショールを持って部屋の隅から姫の元へ移動したのでしょう、今度の返事は外の廻廊から聞こえました。
「わぁ、本当に綺麗ですね。お姫様、星座をつくって遊びましょう」
「いいわよ。あら、流れ星!」
声の聞こえる場所が揃って、本当に外の廻廊で二人の乙女が寄り添っている様な錯覚がしました。
これはゾッとする話術でした。
でも、この不思議な話術のお陰で、聴衆の感心がようやく物語へ向いた気配を感じました。
ラアヒットヒャ様は目を見開き、腰を浮かしておられました。
ファティマ姫は多くの聴衆と同じで恐ろしさを感じたのでしょう、取り巻きのお嬢様方と雛鳥の様に身を寄せ合って、外の廻廊の方をまじまじと見ています。
ロキ様は、目を輝かせてサンパギータを見つめておられました。
皆が驚くただ中で、サンパギータは畏怖にも賞賛にも頓着せずに語ります。
「そしてある時は日向ぼっこをしながら、小鳥の歌声に耳を澄ませます」
サンパギータはルルルルル……と、小鳥の鳴き真似をしました。
高い天井の梁の至る所から、小鳥の声が零れ落ちてきます。
いつかそれを笑ったファティマ姫が、取り巻きと微妙な表情を合わせています。あの日中の鳴き真似が語りとなった時、この様な効果を生むものだとは夢にも思っていなかったのでしょう。
サンパギータは、娘と姫との優しい日々を語りました。
「――毒に犯された娘にとって、姫との美しく穏やかな日々は宝物でした。暗い部屋で悪夢にうなされ、目が覚めた時に聞こえる寝息。貴重な食べ物を分け合う時の美味しさ。どんな話も静かに聞いてくれる美しい瞳。触れると温かい手。何か大切なものがあるという事が、どれだけ娘を救ったでしょうか? 姫がいなければ、娘はきっと毒で死んでしまうでしょう。可笑しな事に姫のお世話している娘の方が、姫無しには生きていられなくなっていたのです」
――――そうよ、サンパギータ。
召使いの部屋に押し込められていただけの十年だったけれど、たくさんの煌めきを頂いた気がします。
もうお気づきとは思いますが……サンパギータの声は、わたしとサンパギータの少ない思い出をなぞっていたのでした。
しかし、心から大事に思っている思い出ですが、一夜で作り、語り聞かせるには限界がありました。
ですから、わたしはこんな風に語りを閉じる事としました。
「さて、娘は姫とずっと一緒にいられるのでしょうか……続きは明日の夜お話致しましょう」
サンパギータがそう告げると、宴の間は戸惑いに満ちました。
彼らは今まで、語り比べで一話完結の物語しか聞いた事が無かったのです。
もしかしたら却下されるかもしれない。
わたしは不安に胸を炙られました。
そして、やはり不満の声が上がりました。
それはファティマ姫の声でした。
「そんなの狡いわ! 数稼ぎよ!!」
彼女はロキ様の忠実な味方なのです。
ロキ様の不利になる事をするサンパギータへ、憎しみの視線を向けて騒ぎました。
「サンパギータ姫よ、続きはどうしても明日なのか」
ラアヒットヒャ様は今すぐスッキリしたいというお顔をされて、尋ねました。
しかし、サンパギータは語り終えていたので、無反応です。
見つめても睨んでも、彼女の顔の表面をランタンの光が揺れるだけです。
ラアヒットヒャ様はため息を吐きました。
「こうなってしまうと、どうしようもない」
「でも、お父様!!」
美しいビーズ刺繍のスカートの裾を揉んで、抗議するファティマ姫を止めたのはロキ様でした。
「ファティマ姫、私の為にありがとうございます。しかし姫、もう少し私の力を信じてくださると、私はとても嬉しいのですが」
「ロキラタ様……。も、勿論貴方は素晴らしい語り部ですわ。それは信じておりましてよ?」
上目遣いで睫を揺らすファティマ姫に、ロキ様は艶やかに微笑みかけられました。
「ああ、嬉しいです。ファティマ姫。それでは、明日の夜を待ちましょう」
「ええ……勿論ですわ……」
庇って頂いているのは分かるのですが、わたしは何となく嬉しくありませんでした。
娘があんな風に微笑まれたら、誰だって言う事を聞くしかないではありませんか。
「ロキラタが良いと言うのであれば、よかろう」
ラアヒットヒャ様も頷かれました。
元々、ラアヒットヒャ様はサンパギータの味方ですから。
これで、今夜もサンパギータへ物語を語る事が出来ます。わたしは胸を撫で下ろしたのでございました。
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