第17話 閃き過ぎて見えてしまった

 その夜は熱帯夜でした。いよいよ本格的な乾期です。

 湖から立ちこめる匂いに、泥の匂いが混ざってきていました。

 もう少し涼しくなる夜更けまで涼ませてあげようと思い、サンパギータを連れてベランダへ行き、大きなシダの葉で煽いであげました。


「今夜は凄かったわ、サンパギータ。あんな事が出来るのね?」


 煽がれて気持ちよさそうに目を細めているサンパギータへ、わたしは話しかけます。

 サンパギータはランタンに群れる羽虫を眺めていました。 


「今夜は何を語ろうかしら?」


 わたしはサンパギータの返事がないのを分かっていて、自分勝手に喋ります。


「物語なのだし、姫様と娘が本当には出来なかった事をさせてあげるのも素敵かもしれないわ」


 離ればなれになる運命ですもの、その前に二人で何か楽しい事を……。

 そうそう、卑しくもご結婚に嫉妬した娘の醜さも語らなくては……。

 それから、娘がどんなに姫を好きか……。

 サンパギータと、もっとしたかった事があります。

 それは叶わない事でしたが、物語の中では可能でしょう。それから、もっとやってあげたかった事がたくさんあります。それも、物語の中でうんとしてあげたい……。

 わたしは夢想とお喋りに夢中で、近づいて来た水音に気がつきませんでした。


「美味しいものをたくさん持って、お花畑に行きましょうか。ロキ様の仰る海という所に行くのもいいかもしれないわ」

「それなら私もご一緒したいですね」


 ふいに聞こえた愛しい声に、わたしは慌てふためきました。

 いつの間にか、ロキ様がベランダの階段傍に小船をつけてこちらを見上げていました。


「もう足が泥を掻いてしまうので、小舟を拝借して来ました」

「ロキ様……」

「今夜語ったのは、あなただったのですね。それだけじゃない、今までも……」

「……と、とんでもございません。全てサンパギータの語りです」

「けれどあの切ない内容を思い返すと、あなたからサンパギータ様への手紙の様です」

「違います! あの物語はわたしとは何の関係もありません!!」


 わたしは慌てて弁明しましたが、ロキ様は微笑んでバルコニーの階段を上がって来られます。


「いい話でした。しかし、毒とはなんなのです?」

「物語です」


 わたしがオロオロとサンパギータの髪を梳き始めると、ロキ様はわたしの左手を取りました。

 そして、小指に指を這わせます。

 そっと曲げようとされましたが、わたしの小指は曲がりませんでした。


「生まれつきですか」

「いいえ、これは……昨日どこかでぶつけてしまって、それで動かないだけなのです。数日もすれば動きます。たまたま、サンパギータがこの事を物語に使ったのだわ。きっとそう……んっ!」


 突然ロキ様はわたしを抱きすくめ、唇を奪いました。

 大きな熱い手が肌着の下へ、甘く冷たい舌が唇の奥へと入り、わたしは身体を跳ねさせ硬直しました。

 その短い間に、ロキ様はわたしの背の手触りと歯並びを把握してしまわれました。

 もう言い逃れはできませんでした。

 そして、諦めがつきました。もうこれで、ロキ様は醜いわたしを愛さないだろうと思いました。

 けれどロキ様の腕はいつまで経っても解かれず、唇も離れる様子がありません。

 すぐ傍にサンパギータがいるというのに、こんなに好きにされては困ります。


「サンパギータがいますから……」

「初めてあなたを見た時気づかなかった……どうして鞭打ちの跡があるのです」


 ロキ様は声を震わせ、わたしを再び掻き抱かれました。

 わたしは、自身の傷で誰かの声が震えるとは思いも寄らなかったので、戸惑いました。


「……打たれたからでございます」

「どうして……誰が……」

「ば、罰なのでお気になさらず。ロキ様、お寒いのですか? 何かお召し物を……」

「大丈夫です」


 震えていらっしゃるロキ様へ、何か着るものを探しに行こうとするわたしを、ロキ様はお放しになりませんでした。


「打ち明けてくれませんか。あなたに何があったか」

「わたしには何もありません。わたしにあるのは架空の物語だけ」


 ロキ様の瞳の中で微笑んでいる女性は誰でしょう。

 どこまでも黒い瞳を悲しげに煌めかせ、微笑んでいます。どうして彼女が微笑んでいるのか、わたしにはわかりません。こんなに悲しく瞳を潤ませているのに、何を笑うのでしょう。それは優しさでしょうか、愛情でしょうか、それとも捨てきれない見栄でしょうか。

 物語として連れて行って欲しいと願うのは、都合が良すぎるのでしょうか。



 三日が経ちました。

 サンパギータとロキ様は、一向に物語を切らしませんでした。

 「娘とお姫様の物語」は、四話目を迎えていました。

 物語で娘は、花咲き乱れる野で菓子を食べ、川の先まで船遊びをし、海の波に足をつけて笑い声を上げました。美しい朝日の中、二人で風の音とハミングもしました。

 姫の身だしなみはいつも抜かりなく、上質なお道具で丁寧に行われましたし、身につけるものの刺繍だって、誰よりも多く絹糸を使い施されています。外国中から、美しい絵本や玩具を取り寄せた事もありました。

 そして姫が美しい声で鳥の鳴き真似をしても、誰も笑ったりしません。皆膝を折り、微笑むのです。

 物語は内容こそ素朴で平坦なものでしたが、娘と姫が宴の間をいっぱいに使って動き回るので誰もその退屈さに気づきませんでした。

 もはや、語り部としての人気はサンパギータのものでした。

 これで宝石さえ手に入れば……。


「幸せな日々が続きました。しかしある日、姫に結婚のお話が持ちかけられました。お相手は申し分の無い条件のお方です。娘は、姫が結婚をしてしまったら、もう一緒にいられなくなってしまいます。さて、憐れな娘は一体どうしたらよいのでしょうか。ああしかも、あろう事か娘は高貴な姫の幸せに嫉妬してしまっていました」


 娘に湧き上がった嫉妬の部分を語る時、わたしは娘が醜くなるようドロドロと情念を込めて語ったのですが、サンパギータはそのように語りませんでした。

 悲しいほど弱々しい声が、宴の間の中央で震えているのです。


「ああ、わたしはこんなにも醜いから、幸せにはなれないのに。お姫様は高貴で美しくて狡い」


 これも非難が飛ぶように台詞を組んだつもりでした。

しかし非難は飛ばず、聴衆は皆暗いため息を吐き、優しい眼差しを宴の間の中央へおくっています。彼らの眼差しには、安易な同情心とは違う、純粋な共感が宿っていました。

 ここは娘が聴衆に憎まれるところなのに。と、わたしは戸惑いました。

 皆、誰もいない宴の間の中央に、自分の中の何かを見ている様子なのでした。

 そして、娘が心を改め、自分の真の幸せは姫の幸せなのだと気づくとき、救われた表情で安堵し、手を叩く者もいました。

 話が終わる頃には、拍手が次第に大きくなって、娘を応援する声まで聞こえます。

 わたしは戸惑うばかりで、ずっと伏して床を見つめていました。

 混乱していると、ロキ様の声がしました。


「素晴らしい話だ。ラアヒットヒャ様。私は是非もっと続きが知りたいと思います」

「うむ。私もだ。しかし、一夜に一話ではないか」

「ですが、姫の嫁いだ後の、娘の顛末が気になりませんか」


 ロキ様が甘い声でラアヒットヒャ様を誘惑し始められたので、わたしの心臓がせわしなく動き出しました。

 だって、次の話は今夜サンパギータへ聞かせなくては、存在しないのです。


「ううむ……確かに。姫は素晴らしい結婚をしたが、この物語の主役は娘ではないか?」

「ええ、全く。流石、『物語りツウ』でいらっしゃいます」

「ふむん。サンパギータよ、今夜は一夜に一話は無しだ。存分に語るが良い」


 わたしが冷や汗をかく中、サンパギータは無言で虚空を見つめています。

 このまま乗り切れないかと思いました。

 だって、サンパギータはなのですから。


「サンパギータは宝石をご所望のご様子。勝敗を今夜に決めるとなれば、慌てて語るのでは?」


 ロキ様の言葉に、わたしは顔を上げました。

 彼はわたしの方を見ませんでした。その横顔は、キッパリとされていて、勝負をつける気なのだと容易に分かりました。

 彼は夜ごとわたしの元へ出向いている内に、サンパギータの語りに限りがある事に気がついたのでしょう。

 帰ったふりをして、わたしがサンパギータへ物語を聞かせているのを床下で聞いていたのかもしれません。そして、次の夜に語られる物語が常に最後の話なのだと察したのでしょう。


「うーむ……ではロキラタ、そなたがまず語るがよい。それが呼び水となろう」

「かしこまりました。しかしラアヒットヒャ様。今夜サンパギータ様が語れなかった場合は、もう私へ勝利をください」

「はははは、サンパギータは『続く』と言っているのだぞ。まあよい。約束しよう」


 ラアヒットヒャ様はサンパギータの『続く』を『まだ持っている』と解釈してしまっていました。

 もうお仕舞いです。

 ロキ様がいきいきと雄々しい口上を始めました。


「それでは、『島の女神へ贈ります』」


 わたしは、瞼を閉じるしかなかったのでございます。

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