六章
第28話 王妃の返答
静まりかえった宴の間の外では、涙雨が降り出していました。
冷たく冷えていく床に、聴衆達は居心地が悪そうにしています。
「――これが、毒に犯された娘の物語でございます。……皆様、そんな悲しいお顔をなさらないでください。この先の希望は、ご存じでございますね。別の娘と成り果てても、お姫様と出会えたので娘は幸せでございました」
そう結んで、わたしはラアヒットヒャ様を見上げました。
ラアヒットヒャ様とファティマ姫は、親子であらせられるだけあってどことなく似ていらっしゃいます。
特に、言動の割に目の力をそれほどお持ちではない所がそっくり。
宴の間にいる全員を、片手で御する事はできましょう。
不愉快だとわたしの首を落とす事も。
けれども、この領土をお離れになられたらどうでしょうか。
他所に君臨する鷹の様な目、虎の様な目を前にしたら、借りてきた猫の様になられるに違いありません――わたしの目の前でそうしているように。
今、親子二人は青ざめてわたしを見ていました。その視線に、怯えた疑念が湧くのをみとめればみとめる程、申し訳なく思いました。
わたしは物語る事によって、怒りたいわけでも、泣きたいわけでもありませんでした。
もちろん、責めるつもりもありません。
今更ながらとても恥ずかしくて辛いので、できれば忘れて頂きたいと思っています。なにより、こんな話を聞いて誰が楽しめましょうか?
けれど、語り比べの数に入れる為、始めてしまった物語を約束の結びまで語らねばなりませんでした。
誰も得をしない空しい思い出語りでしたが、それでも。
ラアヒットヒャ様は、顎髭をせわしなく弄り傍に控える召使いに命じました。
「―――シヴァンシカを連れて参れ」
「お妃様をでございますか? しかし、ご機嫌が――」
「構わぬ、私の命令だと言って連れて参れ!」
「か、かしこまりました」
ラアヒットヒャ様の剣幕に、召使いは急いでシヴァンシカ妃を連れて戻って来ました。
シヴァンシカ妃は、召使いからわたしの物語をかいつまんでお聞きになられたのでしょう、不機嫌な顔をして宴の間へとやって来ました。
「なんのご用でしょうか。就寝前のチャイを楽しむところでしたのに」
主人の呼び出しに対し不遜な態度の妃を、いつものラアヒットヒャ様であればお許しになられたでしょう。しかし、今のラアヒットヒャ様は、どうしても狩らねばならない獲物を前にしている様に、強く、しかし用心深く話を切り出しました。
「我が妃よ。私は今、恐ろしい物語をそこの娘から聞いたぞ」
シヴァンシカ妃は、すーっと目を細め、尖った顎を上げて返事をなさいました。
もちろん声を出す前に「ふん」と、鼻息をお忘れになられません。
「そうですか。あなた様は何事も素直に信じやすいお方。一体何を聞かされた事やら」
「そなたには得意の物語があったな? 富豪での不愉快な取り替え子の話だ。私は今、それに近い物語を聞いたぞ。筋書きは随分違っていたがな。シヴァンシカ、この娘は――」
ホホホ、とシヴァンシカ妃。
笑っておられるのは、彼女だけです。
宴の間の空気は張り詰め、凍り付いておりました。
「そこな卑しい娘の語ったものはどうせ、私の物語を都合良く弄った物語でございましょう? 人以下であるゆえ、猿まねが得意なのでありましょう」
「なるほど。ところでシヴァンシカ、そなたは私の兄の宮殿へ参った事があるな?」
突然の質問にシヴァンシカ妃は眉を潜めつつ、少し思い出す風にしながらお答えになられました。
「なんなのです……?
「うむ。どちらもめでたく輝かしい日であったな」
シヴァンシカ妃は眉を吊り上げられて、ラアヒットヒャ様のお言葉に返事をなさいませんでした。
おそらく彼女にとってその二日は、ラアヒットヒャ様のお言葉通りの日ではなかったのでしょう。
ラアヒットヒャ様が、その態度をどのように感じ取ったのか――ありていに言わせていただきますと、冷たい
「では、妃は宮殿を見た事もあるな。宮殿の配色を覚えておるか?」
「ええ、もちろんでございます。とても壮大な宮殿で……確か、白と、青と、桃色の配色でございます」
宴の間はシーンとしていましたが、人々の目は騒がしくしていました。見開いたり、見合わせたり、閉じたり開いたり……。
「そうだ。荘厳で偉大な宮殿である。して、宮殿の外はどんな地理であったかな?」
何をそんな簡単な事を、といった具合にシヴァンシカ妃は鼻を鳴らされました。
「広い平地で、中央を大河が流れておりましたね。河川港に商業船が行き交い、とても賑やかだったと思います」
「……うむ。我が兄、偉大なるマハラジャの領土、宮殿である。そこにはかつて、美しい姉妹がいた。語り部の娘よ。姉妹に名前を付けてみよ」
ラアヒットヒャ様はわたしにそう仰いました。
わたしはすぐに答えました。
「上の姫はアヴァンティカ姫、お妃様のお国の系統の名です。下の姫は――」
もの凄い形相で、シヴァンシカ妃がわたしを睨んでいます。
恐ろしくなりましたが、震える声でその名を呼びました。
「ダミニ姫でございます。マハラジャ様が、特に厚く信仰する雷の女神の名をお与えになられました」
「ああ……そうだ。それぞれその名で順番に、私からも出生祝いをお贈りした。アヴァンティカ姫は療養のため離宮へ行く途中に惨殺され、ダミニ姫は同行した妾が攫ったと言われておる。惨殺された遺体は、顔が潰されていたものの、アヴァンティカ姫のサリーと装飾品を身につけていたからな。しかし、義姉上はあまりの事に心が混乱されたのであろう、惨殺された娘の方がダミニ姫だと騒ぎ、発狂してご自害されてしまわれたそうだ。どうにも不可解な事件であると感じていたが……まさか……こんな話を聞かされるとは……」
ラアヒットヒャ様は震える肩を落とし、深いため息を吐き出されました。そのお顔は、急速に老けて見えます。
わたしは母の死を知って、唇をギュッと結び、目を閉じました。
お姉様にとっては悪魔の様なお方でしたが、わたしにとっては恋しい母でした。
今頃大きな河の遠い遠い先にある死者の国で、罪を
ロキ様が、わたしへ気遣うように寄り添い背を撫でながら、ラアヒットヒャ様に尋ねました。
「マハラジャから、捜索の遣いは来なかったのですか?」
「兄の領土から、この地は随分離れておるからな。事後報告だけである」
「ふぅむ……お妃同士の秘め事であったゆえ、まさか姫がこの地へ連れられているとは思わなかったという事でしょうか……しかしお妃様からは極秘でシヴァンシカ妃へ、万が一を賭けて確認の連絡が来ているのでは?」
ラアヒットヒャ様は頷いて、シヴァンシカ妃に尋ねました。
その瞳は、早々に愛を失っておられるご様子でした。
まだ結論の出る前からこれでは、長年連れ添われたシヴァンシカ妃が少し気の毒に思います。
「シヴァンシカ、正直に申せ。そなたは義姉上から尋ねられなかったのか?」
「……馬鹿馬鹿しい。作り話でございましょう?」
「シヴァンシカよ、マハラジャの元で拷問を受けたいのか?」
シヴァンシカ妃の顔色が変わりました。
「そこの娘を信じると仰るのですか……。人以下の娘ですよ……」
「その娘が、どうしてこの様な物語を語れるのか。初めから語って頂こうか? お前の惨い仕打ちも――マハラジャへ知れたら間違いとて温情を計れぬぞ。背がすり切れ肉が裂けるまで鞭打たれたいのか? 義姉上の頼みを忠実に守っただけなのであろう? 入れ違いが起こっていたと、知らなかったのであろう?」
わたしも、お母様がどうして手違いを疑わなかったのか気になっていましたので、お二方の会話を食い入る様に聞きました。
シヴァンシカ妃は、異国で拷問を受けたくなかったのでしょう。そして、もう逃げ場はないと観念なさったご様子で、急に薄ら笑いを浮かべ始めました。
「……確かに姉上様から、極秘で伝達は来ました。私の元へ連れて来られたのはダミニ姫の方ではないかと」
「やはり。お前はどうして確認をしなかったのだ」
ラアヒットヒャ様の問いに、シヴァンシカ妃は珍しく目尻を下げて、媚びる様に微笑まれました。けれども本当には媚びていないご様子。何故なら、美しくも醜い凄みのある笑顔だったのです。
もう我慢できない、彼女はそう言いたげにお答えになりました。
「ククク……! 確認の伝達が来る前から、私はダミニ姫だと気づいておりました!」
それを聞いて、体中の血の気が引きました。
シヴァンシカ妃は、青ざめるわたしの方を見て、満足そうにニヤリと唇の端をお上げになりました。
最後の最後まで、爪痕を残してやるとばかりに。
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