一章 

第1話 木偶の姫と奴隷以下の娘

 クスクスと笑い声が上がる中、わたしはサンパギータの手を引いて、震える足で宮殿の廻廊を進んでおりました。廻廊の先では、サンパギータをこの場へ呼びつけたファティマ姫と、その取り巻きのお嬢様方が待ち構えていて、荒々しい神々をしたお面のように笑っています。

 彼女達が身にまと豪奢ごうしゃなサリーに施された刺繍ししゅうビーズやスパンコールが、ギラギラと光って悪夢のようでした。


「サンパギータ、いつ見てもみにくい額の傷だこと」

「ファティマ様の地位を盗もうとした罪印ざいいんだわ」

「奴隷よりもいやしい身分の女に手を引かれて歩くなんて、おぞましいことね」


 そう罵りながら、奴隷達に運ばせたどろを、彼らの手を使ってわたしとサンパギータへぶつけ、笑い声をあげています。

 ファティマ姫は十を数えたばかりの子供ですので、こういう遊びに関して容赦ようしゃがありません。息もつけない程の泥が飛んでくるので、前も見えなくなり惨めにうずくまるわたくしのかたわらで、サンパギータは立ち尽くし、されるがままに頭から泥を滴らせています。


「ちょっと、お前はサンパギータの世話係なのに、ちゃんと庇ってあげないの? サンパギータ、卑しい世話係にすら見捨てられているのね」 


 ファティマ姫がわたしを叱り、サンパギータを貶めました。わたしは慌てて立ち上がり、サンパギータをかばいます。

 身分の無いわたしは、姫様方に「もうお止しください」とも言えません。許し無く口をきけば、更なる激しい体罰が待っています。

 サンパギータの細い身体を抱きしめて、耐えるしかありませんでした。


「何をしている?」


 と、声がして、泥が飛んでくるのが止みました。


「お母様……」


 わたしたちから少し離れたところで、ファティマ姫の母君シヴァンシカ妃が顔をしかめておられました。

 母の前で酷い仕打ちをしていらっしゃるというのに、ファティマ姫は花の様に微笑んで言いました。


「サンパギータと卑しい女に、泥で仕置きをしていましたの」

「まぁファティマ……泥だなんて」


 シヴァンシカ妃は泥だらけのサンパギータを見て美しい顔をしかめ、仰りました。


「優しいのね。此奴こやつらは泥より汚らわしいのだから、けがれが落ちてちょうど良いではないか。仕置きというなら今度は泥に石も混ぜなさい。廻廊が汚れるのは困りますから、外で思い切りやると良い」


 わたしはサンパギータを守る態で、彼女の細い体にすがり付きブルリと震えました。

 そこへ、冷たく厳しい声が突き刺さってきます。 


「目障りである。宮殿にお前達の居場所は無い。さっさと泥を掃除して別邸べっていへ戻りなさい。別邸を抜け出した罰も、後で受けるように」


 ファティマ姫に命じられて宮殿ここへ来たのです、などと口答え出来るはずもありません。

 大人しく廻廊の掃除を始めましたが、床にはいくら拭っても新しい泥が降ってきます。

 悪魔のような鳴き方をするお嬢様方が飽きるまで、泥は床に降り続けるのでした。

 サンパギータは、その間もただただ立ち尽くしているだけです。その姿はいっそ清々しい程で、どれほど泥に汚れていようとも、どこか高貴こうきなのでございました。

 わたしは唇をんで、床を拭い続けました。

 


 日が落ちた頃、ようやく泥だらけのサンパギータを連れて別邸へ戻ると、召使いの長が入り口で丸太の様な腕を組んで通せんぼうをしていました。


「こんな時間に、宮殿で何をしていたのだ」


 泥を投げた奴隷達に昼下がりの出来事は面白おかしく聞いているでしょうに、彼はわたしへ詰問きつもんします。

 召使いの長は、サンパギータを憎んでいました。

 彼は、別邸で一番大きくて豪華な長の部屋が与えられる事を夢見て、人生の半分以上をその為の努力に費やしてきた召使いです。しかし、ファティマ様がご誕生され、召使いと奴隷用の別邸へ移り暮らす事となったサンパギータの為に、夢見た部屋を奪われてしまったのです。

 半生をかけた夢を木偶の小娘から鼻先で奪われる気持ちを考えると、なんとも言えない気持ちになります。


 彼は悪い人でしょうか?


 この別邸に住み、彼を知る召使たちや奴隷たちは、首を否定の向きに振る事でしょう。

 わたしは平伏して申し開きをしました。


「申し訳ありません、ファティマ姫様から宮殿へ呼ばれ、その帰りでございます」

「嘘を吐くな、ファティマ姫様が卑しい貴様らを宮殿へ呼ぶなどあり得ぬ」

「……」

「宮殿へ行って何故泥だらけなのだ。盗みを働いていたのではなかろうな」

滅相めっそうもございま……あっ」


 着ていたヘレンガのストールを剥がされ、羞恥しゅうちに身を固くするわたしの前で、召使いの長は目をギラギラさせてストールを調べながら言いました。


「おまえは人以下であろう、豊かな言葉を使うでない」

「申し訳……」

「それだ! 人の言葉を使うな! 人以下なのであれば、家畜のように鳴くのが筋であろう! おまえと同じ者たちは、言葉を知らずにろくに喋らないというのに、何故お前は言葉を巧みに操るのだ、忌々いまいましい!」


 ストールを奪われあらわになった髪を掴まれ、サンパギータの部屋へ引きずられました。

 サンパギータは静かにわたしの後をついてきます。サンパギータがわたしの後についてくるのを知っていて、彼らはわたしを動かします。一度はラアヒットヒャ様が姫と決めたサンパギータに、直接手を下すのを恐れている分だけ、わたしが乱暴に扱われるのでした。


「さあ、おまえらには勿体ない部屋へ消えてしまえ!」


 部屋へ投げ入れられ、わたしは床に伏してしばらく動くことが出来ませんでした。

 しかし、戸口でぼんやりと立ったままのサンパギータの為に起き上がり、彼女の手を引いて部屋の外の小さなバルコニーへと向かいました。

 バルコニーからは、見せつけるように幾千ものランタンの明かりに浮かび上がる宮殿が見えます。

 雨を溜めた水瓶から水をすくい、サンパギータの顔と身体を綺麗にしてあげなくては。


「サンパギータ、お顔を綺麗にしましょうね」


 わたしはせっせとサンパギータを綺麗にします。サンパギータが綺麗になっていけば、今日あった辛い事を拭い去れる様な気がしました。ぽっかり空虚に開いた宝石のような瞳を覗き込めば、夢心地になれなくもありません。この美しい瞳を遠慮無く見られる事が、わたしの心を慰めてくれます。

 泥を落とした光り輝く髪を梳けば、わたしの心に光が灯るようです。

 サンパギータは、わたしの心の慰めだったのです。


 サンパギータを寝台に寝かすと、わたしは彼女に物語を語ります。

 わたしはこの宮殿にやって来た時の記憶がございません。しかし、何故か様々な物語だけはたくさん覚えておりました。それだけが、わたしの財産でした。失った過去とのつながりの様にも感じていました。

ですから、辛い日々の中で忘れてしまう事の無いように、毎夜サンパギータに聴かせるていで語り続けていたのです。

 記憶にある物語や、自分でつくった他愛たわいない物語を聞かせる時、わたしが自身で語る物語に酔ってしまうからでしょうか、サンパギータが少しだけ微笑んでいる様に見えるのでした。 

 わたしはその微笑みに心が満たされ、思わずサンパギータに語りかけます。


「美しいサンパギータ、貴女あなたはきっと、何処かのお姫様なのでしょう? 美しすぎて、貴女を取り合う戦争が起こる前に、と捨てられたのかしら。それとも、誰か他の姫や妃に嫉妬しっとされて誘拐されたのかしら。貴女を姫とお呼びし敬いたいけれど、シヴァンシカ妃様に禁じられているの……お可哀想に……」


 サンパギータは答えません。

 その事に、わたしは失望したり苛立いらだったりしません。

 彼女だけが、人以下となったわたしに言葉を語らせてくれるからです。



 サンパギータが寝息を立て始めると、わたしは自分の身体とサンパギータの衣服を洗う為に、バルコニーから地上へつづく階段を降りて、近くを流れる川へとむかいました。

 マングローブの林をゆったりと静かに抜けていくこの川を、皆「ネハ川」と呼び、乾期の時期はこの川の水で生活をしています。

 わたしは川を他の人達と使う事が許されておりませんので、こうして夜、皆が寝静まり誰もいない時間に、衣服の洗濯をし、身を清めていたのでした。

 わたしはまず、両手のひらを皿にして水を掬うと、そっと顔をおおいます。気が済むまで、そうして川の流れる音を聞くのです。そうしなければ、気がおかしくなりそう。

 夜に咲くホソバマヤプシキの白い花が、静かに咲き乱れておりました。

 腰まで水に浸かると、川の緩やかな水流が床掃除をして痛む腰を撫でて慰めてくれます。

 月明かりの中、髪と身を清めるのは気分の良いひとときです。小声で歌を歌っても、誰にも咎められません。

 その微かな歌声を聞き付け誰かがやってくる事に、不用心なわたしは少しも気づいていませんでした。

 

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