第2話 遠くで鳴る銀のシルク

 川沿いに群生ぐんせいしているニッパヤシが大きくしなった音に驚いて振り向くと、背の高い男性が一人、わたしと同じように驚いた顔をして立っていました。

 その男性は、一瞬息をするのも忘れてしまう程、うるわしい人でした。

 月明かりしか頼りがないので、色は分かりませんがとても綺麗な瞳の持ち主だと遠目からでも分かりました。それは視覚ではなく、引力の様なもので分かりました。

 わたしは慌てて胸元を腕でかくし、男性へ背を向けて水の中に身体を沈めました。

 誰かが川を使う時に、わたしは川を使ってはいけません。

 きっと理不尽に罰せられるに違いない。

 なんとか逃れられないだろうかという恐怖から、川の深みの方へ必死で進みました。

 すると運の悪いことに、思いがけない深さと強い水流に足をとられてしまいました。

 わたしは小さく悲鳴を上げて強い水流の中へ引きずり込まれ、川に流されてしまったのです。

 しかしすぐに、水の中でもがいていたわたしの身体を、誰かが抱き上げました。

 恐らく先ほどの男性でしょう。

 わたしはせき込みながら、必死で彼にしがみつきました。

 彼はわたしを岸まで運び、自らの腰に巻いていた飾り布でわたしの身体を隠すと、衣服を探して持ってきてくださいました。


「大丈夫ですか?」


 低く美しい声でした。

 わたしはまだ荒い息のまま平伏へいふくして、「申し訳ありません」と繰り返しました。


「そんなに怯えないで。私の方こそ、驚かせてすみません。女性がこんな時間に沐浴もくよくをされるとは思わなかったので、女神か精霊かと目を奪われてしまいました。異国から来たものですから、文化を知らずご容赦ください」

「滅相もございません……助けて頂きありがとうございました」


――異国から……。では、わたしを罰する事はしないだろう。


 わたしはホッとして顔を上げ、彼の顔を正面から見ました。

 彼は少し気圧された様子でしたが、美しい瞳でわたしの不躾ぶしつけな視線を堂々とお受け止めになられました。近くで見る彼の端正たんせいなお顔は、とても魅力的でした。

 これまでに何人の女性が彼に甘い夢を見たのだろうと、刹那的せつなてき焦燥しょうそうられました。


――けれど、わたしには夢などはなから残されていない。


「……失礼いたします」

「待ってください」


 わたしが深く頭を下げてその場を離れようとすると、腕をそっと掴まれました。

 何かされるのかと身を固くしたわたしに、彼はう様に仰りました。


「服を着てから、少しお時間はありませんか? 貴女の名前を教えてください」

「……」


 わたしは激しく動揺しました。

 なんとか小さく頷いて彼の手から離れると、ニッパヤシの影へ回り、敢えて布擦れの音を立てながら着替えました。

 男性は川の流れの方を向いて、こちらに背を見せておられます。

 わたしは彼の逞しくもスラリとした背を一瞬だけ熱く見つめ、そろりとその場を後にしたのでございます。



 駆けて駆けて、駆けました。

 あの瞳、あの腕、あの低く美しい声を、振り切るように。



 部屋へ戻ると、高鳴る胸を押さえつつ、わたしはサンパギータの寝台の横に置かれた長椅子へ横たわり、目を閉じました。

 遠くで遠雷えんらいが聴こえてきます。

 手の届かない遠くから、くぐもって聴こえるその音は、わたしの愛情や喜び、栄光のようです。水を含んだ重たい風が、窓から一筋流れて行きました。もうすぐ、雨期になる事でしょう。

 いつしか遠雷は遠くかき消え、サンパギータが静かな寝息を立てています。


 それから数日後の事です。異国の男性が一人、宮殿へと招かれました。その男性は自身をかただと言い、一月ほど前からラアヒットヒャ様の領地でうわさになっていたそうです。

 誰も聞いた事の無い素晴らしい物語を数多あまた流れる様に語り、その語りの巧みさに誰しもが幻惑げんわくを見たかのようになる、と。

 それを耳にしたラアヒットヒャ様は興味を持たれ、宮殿の高貴な女性達も、彼がとてつもない美男子だという噂を聞きつけ色めき立っていました。

 噂の語り部を招く為、宮殿では宴が開かれる事になったのでございます。


 

 宮殿の宴は滞りなく準備が整った様でした。

 日が落ちてそろそろ始まる頃かしらと思っていると、サンパギータが自ら動き、ふらりとバルコニーへと出て行きました。

 そんな事は初めてで、わたしは驚いて彼女の後を追いました。

 サンパギータは何を見るでもなく、ぼんやりと宮殿の方へ顔を向けています。

 夕闇に浮かぶ宮殿は、いつにも増してきらびやかに輝いておりました。


「宴に出たかったの、サンパギータ?」


 わたしはサンパギータの横に並んで尋ねました。

 サンパギータはもちろん何も答えません。

 瞳の中に輝く宮殿を映してはいるものの、恐らく見てはいないのでした。

 それでも、宴に招かれない寂しさを感じないわけではないのでしょう。現に、こうしてバルコニーに佇んでいるのですから。

 それに、サンパギータはきっと物語が好きなのです。わたしなどの下手くそな語りより、語り部と名のる者の語りを聴いてみたいと思ったとしても仕方がありません。

 サンパギータが中々部屋に戻ろうとしないので、わたしは自分のストールをバルコニーの床に敷き、彼女をそこへ座らせました。 

 視界が下がった柵越しからでも、宮殿は十分明るく輝いて見えます。

 宮殿からは、音楽も微かに流れ出て、わたしとサンパギータへ音の残り香をよこします。

 銀色のシルクの様に湾曲わんきょくする旋律せんりつは、弦楽器のシタール。水中で聴く鼓動こどうの様な、とらえどころの無い律動りつどうは打楽器のバヤです。カンジーラの音もシャンシャンと楽しげに響いてにじんでいきます。

 わたしはそっとサンパギータの横に座って、小さな声で呟きました。


「語り部という人は、どんな物語を語るのかしら」


 噂が本当であれば、語り部は今夜、きっと富を得る事でしょう。

 そしてそうなのだとしたら、やはり、一体どんな物語を語るのだろうと思うのでした。

 宮殿の主や妃、大勢の高貴な人々の前で語りをするのは、どんな気分なのでしょう。

 わたしはせいぜい眠るサンパギータの耳元で、小さく囁くように語るくらい。

 人々を夢中にさせ、王宮にまで呼ばれた語り部は、凛々しく美しい人なのだという。


 ……川でわたしを助けてくれたあの方よりも?


 わたしは小さく首を振って、湧き出る様々な気持ちを追いやりました。

 宴に招かれないサンパギータとわたしには、何をどう想像を膨らませた所で結局何の関係も無い事です。

 美男子も、朗々と美しい声で語られる物語も、それらに酔う心の権利も、わたしとサンパギータにはないのです。


「可愛そうなサンパギータ」


 わたしは隣に大人しく座っているサンパギータの髪を指できました。世にもまれな美しい髪だとしみじみ思いながら。

 雨が降り出して、わたしとサンパギータのすべらかな頬を水滴がでていきます。


「そろそろお部屋へ上りましょう、サンパギータ。わたしが語り部で申し訳ないけれど、今夜はいつもより長い物語にしましょうね」


 その提案を気に入ってくれたのか、サンパギータはすんなり立ち上がって、わたしについて部屋へと戻りました。

 わたしは微笑んで、彼女を寝台へ寝そべらせました。そして部屋のランタンの灯を弱め、語り始めます。


「『神々がげよとおっしゃりますゆえ広めましょう』……ある所に美しい姫が」


 始まりの口上こうじょうを終え、語り始めたその時でした。


「おい! ラアヒットヒャ様がお呼びである! 今すぐ宴の間へ急げ!!」

 

 そう叫びながら、宮殿の召使いが部屋へ駆け込んで来たのでございます。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る