第8話 転がる木の実

 一夜、二夜と雨の夜が巡り、宮殿は美しい湖上こじょうの宮殿へと変わりました。

 雨期が終わり、乾期が来て水が引くまで宮殿に閉じこもる日々の到来とうらいです。

 語り部を宮殿に閉じ込める事が出来たので、今期のラアヒットヒャ様は大変ご機嫌であらせられました。語り部が宮殿から出られるのは、一月半ほど後になる事でしょう。

 さて、語り比べがその後どうなったかお話しましょう。


 幾夜いくよも過ぎた頃、美しい衣を着て語るサンパギータの姿は皆の評価を変えていきました。

 好意と少しの戯れ心から、匿名とくめいで贈り物が届くようになり、サンパギータは夜ごとに髪肌つやが良くなり、衣装が豪奢になっていきます。

 シヴァンシカ妃もファティマ姫も、彼女たちの取り巻きも、目ざとくそれに気づいてはいるものの、「さてどうしてくれよう」というお顔をして、蜷局とぐろを巻く蛇の様にサンパギータを見ているのでした。

 今夜はシヴァンシカ妃自らが、チラリとその赤い舌をお見せになりました。 


「今期もとっぷり水が溜まったコト……ロキラタは宮殿から一月半出られないわね。彼は放浪ほうろうに出ようがないのですから、語り比べなど必要ないのではございません?」


 サンパギータの語りを聞きたくないシヴァンシカ妃が、ラアヒットヒャ様に進言されました。

 宴の間にヒソヒソと非難と反対の声がさざ波立ちます。それもそのはず、この頃になるとサンパギータ以外にも語る者が遠慮がちに現れて、頬を高揚こうようさせて語る楽しさに触れていたからです。

 前日に物語を用意しておく事、それを披露する事の楽しさに、たくさんの方々が夢中になり始めていました。そして、そんな親兄弟や友人の語りに耳を傾ける事も、随分楽しい時間でした。――わたしには、サンパギータしかおりませんが……。

『語り比べ』は皆の贅沢な楽しみになっていたのです。

 そんな楽しみを、この閉じ込められて退屈な時期に取り上げられる事は、皆望まぬ事でした。

 そして、王様は勝者に宝石を贈らなければなりません。……たとえ、形だけでも。

 下々との約束を、大っぴらに「用がなくなったから」と簡単に反故ほごする事ほど信頼を失う事はなく、みっともない事です。


「妃よしかし、約束が……」


 ラアヒットヒャ様が何か仰る前に、語り部が微笑んで仰いました。


「お妃様。私は島国育ちですから、泳ぐ事が語りよりも得意です。この位の岸との距離なら、四半時の半分も掛けずに泳ぎ切れます」

「おお、ロキラタ、そんな脅すような事を言わないでくれ。ほらほら、語り比べをしよう。誰か、語りたい者はおらぬか」


 語り部の言葉に、ラアヒットヒャ様が慌ててお手を叩かれ、語り比べの幕を上げられました。

 シヴァンシカ妃は顔を歪められ、奴隷少女が彼女の為にあおいでいた大きな扇を、自分の羽扇ではたいた後、何か思いついたようにニヤリと笑って立ち上がられました。

 皆が少しの恐れを持って彼女を見る中、シヴァンシカ妃は耳に飾った大きな金の輪をキラリと光らせ、


「ようございます。じんの無い事を言ってしまいましたね。皆もロキラタも許してちょうだい」


 彼女はそう仰いました。

 彼女の横では、先ほど扇を叩かれた少女が感情を殺した顔で、扇を煽いでいます。

 仁ってなんでしょう、と、わたしは床に向かって目を細めました。


「お詫びに、わたくしも一つ語りましょう。……高貴な大富豪の屋敷内で起こった悲劇です」


 それを聞いて、人々は驚いたり目を輝かせたりしました。

 なんと、妃が語られると仰るのです。

 宴の間に集まった者みな、シヴァンシカ妃に注目をしました。

 妃は皆の視線をたっぷりとお受け止めになり、満足そうに語り始めます。


「その話をわたくしが聞いたのは、十年前の事でした。話は、そこから更に十年遡さかのぼったところから始まります。ある大富豪の主人が、田舎へ狩りに出ました。その際、鷹や鹿の他に身分の無い女を一人捕まえて、屋敷に飼ったのです。……奥方は美しく、側室だって何人もおりましたのに、少し変わった味を試した訳ですわ……」


 シヴァンシカ妃が赤い唇をなまめかしくねじ曲げて、クックッと笑いました。

 ぞろぞろと釣られるように、品の無い人たちが喉で笑います。

 ラアヒットヒャ様は、その話を知っているのかあまり楽しそうではあられませんでした。

 自分の指輪を眺めて、目を細めていらっしゃいます。


「その女は家畜の様にすぐに孕みました。その同時期、奥方も主人の子を懐妊かいにんしておりましたの。ふふふ、そんなにお元気なご主人なのに、初めての子でしたのよ、ホホホ……」


 内容にはばかりを一切感じていないのか、シヴァンシカ妃は堂々と声を張ります。宮殿の妃だけあって、迫力がおありです。

 ファティマ姫は母が語っている内容を分かっているのかいないのか、クスクス笑って語り部にしなだれかかっています。

 語り部は彼女に人差し指を立てて、「静かにしましょう」と無言で窘めていらっしゃいました。

 ファティマ姫はそれを聞かず、何故かわたしの方をチラチラと見てクスクスと笑い、取り巻きに何か耳打ちをしています。

 語り部はその隙に彼女からスルリと逃れ、あろう事かわたしとサンパギータの方へ移動して来られました。

 わたしは慌ててサンパギータの後ろの影に入り込み、頭を深く床に着けました。

 語り部は静かにサンパギータの隣に、胡座あぐらをかいてお座りになられました。

 幾夜もコッソリ盗み見た背中が間近にある事に、頬が熱くなりました。

 美しく着飾ったサンパギータと美丈夫の語り部が並ぶ姿は、とても釣り合っています。

 相変わらず見窄みすぼらしいわたしは、彼とこんな風に並ぶ事など出来ないのだろう、と、分不相応にも悲しくなりました。

 悲しくなる事すら図々しい……そう思うのに、胸が冷たく、酷く寂しいのでした。


「……そして、高貴な赤子が誕生し、それを真似するように人以下の子が産み落とされました……」


 シヴァンシカ妃の語りは、高貴な人々の注意は引いておられましたが、召使いや奴隷達の表情を微かにくもらせていました。

 わたしも、嫌な気持ちになる語り方だなと、思いました。語りが下手なわけではないのです。ですが、耳を覆いたくなる話を聞くのは、これが初めてでした。

 けれど苦痛ではありません。

 退屈でもありませんでした。

 わたしの目の前には、語り部の背中がすぐ側にあるのですから、こっそり見とれていれば時間も過ぎましょう。

 そう思っていると語り部が、サンパギータのたっぷり布を使ったストールや、自分の身体の影に隠して腕を背後に回されました。つまり、わたしの目の前に、彼の大きなスラリとした手が差し出される格好となったのです。

 わたしはお恥ずかしい事ですが、その麗しい手をジッと見つめてしまいました。

 彼のどんな部分でもいいので、近くでよく見たかったのです……。

 すると、彼の手が注意を引くように少しだけ上下に動きました。

「なんだろう、どうなさったのだろう」と、戸惑っているわたしの前で、彼の服のそでから手へ木の実とお菓子がコロンと転がり落ちました。

 手品の様でした。

 思わず声が出そうになって、慌てて両手の指先で唇を押さえます。


「生まれたのはどちらも女の子でした。それが、不幸を呼んだのです!」


 シヴァンシカ妃の大仰に語る声が、全く耳に入りません。

 木の実とお菓子を乗せた手が、「お取り」とばかりに微かにすられました。

 サンパギータやわたしの側に座りたがる者はいませんでしたので、語り部の手は、間違いなくわたしに語りかけています。

 わたしは胸を高鳴らせ、迷いました。


「その卑しい女は――」


 ――罰せられる?

 ――もしかしたら、ファティマ姫の考えた罠?


 猜疑さいぎと恐れが、わたしを凍らせました。

 けれども、欲望だけは凍りませんでした。


 ――それでも、微かでもいい。


「卑しい考えを起こし――」


 わたしは、そっと彼の手から木の実を取り、固く熱い手のひらに指先で触れました。

 ほんの微かに。

 その刹那せつなでした。

 木の実とお菓子が床に転がりました。

 パッと彼の大きな手が、わたしの手を捕まえたのです。


「とんでもなく浅ましい過ちを犯したのだ!!」


 シヴァンシカ妃の語りに熱と力がこもり、わたしは身体を微かに跳ねさせました。

 慌てて手を引っ込めようとしても、語り部の手はわたしの手をしっかり捕まえて離しません。わたしは大いに狼狽うろたえ、おびえました。

 自分の手から伝わってくる彼の熱を覚えない様にしようと必死でした。

 彼の手は何度か優しくわたしの手を「きゅっ」と握り、そっと放すと、元の正面の位置へと戻って行きました。



「その女は、奥方の赤ん坊と自分の卑しい赤ん坊を取り替え、八年も黙っていたのです!」


 どよめき。

 非難の声。

 人が胸を痛めた時のため息の音。


「しかし悪行は明かされた。卑しい子供は殺されるのが筋ですが、奥方が非常に優しい方で、八年も育てた子供だからと温情をかけたのです。そして、その汚らわしい子供は外国の親戚の元へ追放され、今は本来の人以下の扱いを受けている事でしょう……」


 シヴァンシカ妃がまだ何か熱心に語られています。

 満足のいく内容だったのでしょうか、ちらほらと拍手が上がっているご様子。

 でも、わたしはもう、その夜の記憶が一つの事しか残っていませんでした。

 熱く優しい大きな手、それだけでございます。

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