第7話  銀の鉢を満たす金の蜜

 雨は相変わらず天から滝のように降り注いでおりました。

 宮殿の周囲に生い茂る木々の枝葉の影がうごめき、力強い舞踊ぶようの様です。

 三日三晩雨が降れば、床下ギリギリまで水が上がってくる事でしょう。

 灯り用の蝋燭ろうそくや油が残り少なくなってきても、語り部とサンパギータは交互に物語っていました。

 交互に語られる語りは、どちらも素晴らしい声と溢れる情緒に彩られ皆を酔わせています。

 語り部は主に、語り部の島に伝わる話を再び物語られました。

 故郷の物語なので、記憶している数が多く語りやすいのでしょう。

 サンパギータはというと、相変わらずわたしの聞かせた寝物語を語っていきます。

 わたしが知っている物語、聞きかじって補正した物語、結末を幸せなものに付け替えた物語、逆に、美しい悲劇に変えた物語、そこから派生していったわたしの物語が語られていきました。

 わたし自身が忘れていた物語も披露され、その時は何か大切なものを取り戻した気持ちになり、胸が温かくなるので不思議でした。

 そういった物語を十年間分となれば、それなりの量です。

 もしもサンパギータがそれだけの間分記憶していたら……の話ですが、彼女の様子に期待せずにはいられないものがございました。

 質ではなく数の勝負なら、サンパギータは宝石を賜れるかもしれない。

 しかし、そう思った矢先に「語り部の島ではお喋りを始める前の子供すら物語をつくる」と、語り部が語られたのでたちまち希望は立ち消えました。

 サンパギータの虚ろな様子からは読み取れませんが、宝石を取り戻す為に語っているのだとしたら、きっとそれは叶わないでしょう。


 可愛そうなサンパギータ。


 大切なものを二度も奪われるなんて!

 語り部はあの宝石を手に入れ、どうなさるのでしょうか。

 物語の題材にされるのかも知れないし、何処かで売り払って旅の資金にされるのかも知れません。


 そして……もしかしたら……誰かにお贈りになられるのかも知れません……。


 しかし、わたしには露ほども関係のない話です。

 外の暗闇から、土の香をはらんだ霧が濃く立ちこめてきました。

 霧はランタンの灯りを滲ませ、宴の間を彷徨い、語る二人が起こした広間の熱気を冷ましていきます。

 幼いファティマ姫はシヴァンシカ妃の膝枕で眠りに落ち、所々で大人達の欠伸が漏れ、宴の間の隅で立って控えている召使い達は足が辛そうに渋い顔をしています。

 まだ目を爛々とさせていらっしゃるラアヒットヒャ様を、シヴァンシカ妃がたしなまれました。


「あなた、そろそろお開きに致しましょう。これほど一度に語られてしまったら、話も一夜で尽きましょう。本末転倒でございますわ」

「おお……そうだな。妃の言う通りだ。ロキラタよ、疲れたであろう。続きはまた今夜にしてゆっくり休まれよ。それにしても、あれだけ語って声が枯れぬとは、強靱きょうじんな喉を持っているな」


 語り部は一度にたくさん語り過ぎてお疲れになられたのでしょうか、それともサンパギータとの合戦に熱中し過ぎてしまわれたのでしょうか、少しボンヤリとした調子で「畏まりました」とラアヒットヒャ様へ頭を下げられました。

 ラアヒットヒャ様は彼を宮殿で一番良い客間へ案内するよう、召使いに命じられました。

 それから、サンパギータの方を見て「今宵も宴に来るように」と仰せになられました。

 その言葉の途中でピシャンッ、と、シヴァンシカ妃の扇が閉じる音が響き、こうして第一夜の宴がお開きとなったのでございます。



 心も身体も疲れて、わたしはサンパギータの手を引き別邸へと戻りました。

 途中、別邸へ続く渡り廻廊の入り口前で、召使いの長と鉢会ったので跪いて道を譲りました。

 しかし、いつもなら「当然」という顔で先に行く召使の長が動きません。

 ざあざあと雨の音が響く中、誰も動かないので時が止まった様な感覚がしました。

 少しして、跪くわたしの視界の中に、召使の長の大きな足の太い指が居心地悪そうに動くのが見えました。

 わたしはまた、何か難癖なんくせをつけられてしまうのだろうか、と、身構えました。

 身を小さくしていると「行け」と小さな声がしました。

「え?」と声を上げ、召使の長を見上げると、彼は顔を歪めて回廊の入口を指さしました。

 なんと、彼はサンパギータへ道を譲ったのです。

 わたしはそれが信じられず、戸惑いました。

 召使の長の方も、この場を誰にも見られたくないのでしょう、そわそわと辺りを見渡しながら、再度わたしたちを急かしました。


「早く行け」


 再度雨の音に紛れる程の小声でそう言われて、慌てて立ち上がりサンパギータの手を引きました。

 シダ葉を重ねた渡り廻廊の屋根は古く、大粒の雨漏りが無数に滴っています。

 わたしはそれを理由にサンパギータの手を強く引き、早足で部屋へ駆け込みました。

 ドキドキする胸を押さえて、一息。なんという夜だったでしょう。

 部屋は、宴に行く前のままで少し乱れています。

 わたしはサンパギータを寝台に座らせ、溜まったばかりの新鮮な水を彼女に飲ませてあげました。一晩中語っていたのですから、喉を潤したいだろうと思ったのです。

 サンパギータはさじから水を静かに飲むと、目を閉じて眠ってしまいました。わたしは匙の柄を両手で握り、サンパギータを見下ろしました。


「今夜は、わたしの寝物語はいらないのね」


 わたしはバルコニーの戸口へ行き、宮殿を眺めました。

 勢いの無いランタンの灯りが、けむる雨の向こうに見えます。わたしは目を閉じ、今夜の事を思い返しました。

 あの人との再会。あの人の声。あの人の優しさ。麗しいお姿……。

 あんなにも皆の心を酔わせて、悠然と微笑んでいらっしゃった。

 そして――十年振りに皆の関心を引いた、サンパギータ。

 この部屋にほとんど幽閉ゆうへいされて、暗く静かにわたしと死んでいくのだろうと思っていました。

 でも、もしもラアヒットヒャ様が思い直しをされたら――?

 バルコニーの側に垂れる大きな葉に雨水が溜まり、重みに耐えかねた葉から零れバタバタと醜い水音を立てました。

 わたしはハッとして、唇を動かします。


「善いこと、だわ」


 その時でした。


「失礼します」


 と、声がして、二人の女性の召使いが部屋を訪れました。

 彼女達は少し震えて恐ろしそうに部屋を見渡しています。

 召使いの一人が持っている銀のトレーと、その上に乗った蓋付きの銀ボウルが、互いに触れ合いカチカチと鳴っていました。

 召使いの長をはじめ、召使い達は総じてサンパギータを見下していましたが、今夜それが完全に覆ったようです。しかし、わたしに対しては当てはまりません。

 その証拠に、召使いはサンパギータが寝台で眠っている事を知ると、途端に横柄おうへいな態度になりました。

 当然です。私は、高貴な人々が思いついた「人以下の者に世話をされる憐れな姫」というサンパギータへの侮辱ぶじょくの材料なだけなのですから。

 召使いは「ラアヒットヒャ様が、これを、この方へと」と言って、わたしに銀のトレーを押しつけました。

 戸惑っている私を無視して、入れ替わりにもう一人が大きな布包みをわたしの足下に置き、息を合わせた様に急いで部屋を出て行ってしまいました。


「なにかしら……」


 一度、こんな風にしてファティマ姫からサソリを贈られた事がありましたので、わたしは大いに警戒をしました。

 綺麗な箱を開けたら、サソリが尾を怒らせていた時の事は、今思い返してもゾッとします。怯えながら銀食器のボウルを開けると、中には更に蓋をされた銀の鉢が三つ、並んでいました。大きな鉢二つと、その隙間に小さな鉢があります。

 毒虫か何かだったら、と思うと胃から酸っぱいものが込み上げてきます。ですが、用心深く銀の鉢を観察してみても、羽音やいずる音は聞こえない様でしたので、匙を使い思い切って蓋を開けました。すると、大きな鉢の一つは数種の木の実が盛られ、もう一つはお米に野菜と肉のかけらを炊き込んだビリヤーニが詰められていました。


 食事が運ばれた。


 意地悪な厨房係に貶されながら、焦げたチャパティ(薄焼きのパン)や調理鍋にこびり付いた料理をこそぎ、二人分をやっと手に入れていたわたしとって、食事が運ばれた事はとても強い衝撃でした。

 わたしは震える手で、最期の小さな鉢の蓋を開けました。そこには、黄金色のとろりとしたものが満たされていました。

 わたしは目を見開き、銀の蓋を床に落としてしまいました。

 それは、この辺りでは高貴な者の舌にしか許されていない蜂蜜でした。

 わたしはぺたんと座りこみ、蜂蜜を凝視ぎょうししたまま落とした蓋を拾うため床を弄りました。

 すると、床に置かれた大きな布の包みに手が触れました。

 わたしは先ほどの召使いよりも怯えた目で、そっと包みを解きました。


「ああ……」


 解いた布包みの中には、色とりどりのヘレンガやサリーが畳まれていました。

 自分の薄汚れた服で手を拭い、美しい生地の一枚に触れてみます。

 そうした指先は、クラクラするほど滑らかで柔らかいのでした。


―――別世界の物だわ……。


 わたしは眠るサンパギータを呆然と見ました。

 食べ物が傷んでしまう前に、起こして差し上げなくては。

 そう思うのに、わたしは眠る彼女の手に触れて、囁くことしかできませんでした。


「行かないで……」

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