二章

第6話 蕩け流れ出る他愛ない世界

 今宵こよい一番のもよおしとばかりに、皆がサンパギータを見ました。

 ファティマ姫が羽扇の影で小さく笑いを吹き出すと、湖水の上を広がる波紋はもんの様に嘲笑が広がってゆきます。

 わたしは嫌な音や気配を、雨音が掻き消してくれればいいのにと願いました。

 語り部がサンパギータを見上げておられます。その表情は静かで真面目でいらっしゃいました。

 サンパギータは立ち上がったものの、ぼんやりとしています。

 嘲笑のさざ波は、次第に苛立ちを帯びて危険なものと変わっていきました。


「物語るかと思ったら……」

「期待して馬鹿をみた」

「腹立たしい」

「目障りだわ、早く別邸へ」


 皆が木偶などにコケにされたと興を削がれ、サンパギータを口々に邪険にしました。

 渦中のわたしは、慌ててサンパギータの手を引いて別邸へ逃げ帰ろうと思いました。

 なんてこと。

 サンパギータは口をきかないのに、何を期待したの。どうしてこんな時に立ち上がったりしたの、サンパギータ!

 わたしは皆と同じ類いの腹立たしさを感じていました。

 勝手に期待し、待って、失望し……魔法めいたものを信じた自分の愚かさに対する腹立たしさを、サンパギータへの腹立たしさにすり替えていたのです。


「サンパギータ、お部屋へ行きましょう」


 虫の羽音より小さな囁きかけをして、わたしはサンパギータを連れて行こうとしました。

 その時、語り部が強く、それでいて静かな声を上げられました。


「子らよ、心に衣を贈ろう、一枚、二枚、三枚」


 皆が虚を突かれて語り部の方を見ました。

 サンパギータへの非難の為に腰を上げかけたお方が、そろそろと座り直しました。

 他の方々も、少しだけご気分をほぐされた様子で語り部の次の行動を見守ります。

 皆様、語り部がサンパギータを取り残して新たな語りをしてくださると思われたご様子でした。

 シンと場が静まりかえる中、語り部はしかし、この上なく尊いものを見る様に、サンパギータを見上げておられました。

 当惑と物見高さをない交ぜにした視線を完全に無視して、語り部は再度声を上げられました。


「子らよ、心に衣を贈ろう、一枚、二枚……」


 その台詞を聞くと、語る前の一呼吸をする様に、サンパギータが小さく息を吸い込む音が聞こえました。そして、彼女は彼の声に声を重ね始めたのです。


「さ……ん、まい……」


 宴の間がどよめきに包まれました。

 木偶となってから十年、ずっと声を上げた事がなかったサンパギータが、声を出したのです。

 サンパギータの声を聞いたのはこの時が初めてでした。

 幼子の靴に縫い付けられた鈴音の余韻の様な、儚く愛らしい声でした。

 語り部が彼女から声を引き出そうと、もう一度声をお上げになられました。


「子らよ、心に衣を贈ろう、一枚、二枚、三枚」 

「こらよこころに……」

「『衣を贈ろう』」

「ころもを……」


 皆が目を丸くする中、とうとうサンパギータは語り部に言葉を習う様にして、一節いっせつを完全に声にしました。


「『子らよ、心に衣を贈ろう、一枚、二枚、三枚』」


 それはおそらく、物語を始める口上でした。

 その凜とした声の美しさといったら……儚い愛らしさどころの騒ぎではありませんでした。そして声もさることながら発声の量、発音の強弱とひるがえり方、言葉尻の余韻、全てが心地良いのです。

 宴の間に穏やかな風が吹き込みました。まるで、呼ばれた様に。

 シルクシフォンのカーテン房が、風にサラサラ鳴る中、サンパギータは、くい、と顎を上げ喉を逸らしました。


「あるところに優しいハヌマンラングールがおりました……」


 恐ろしい程引力のある声が、宴の間に放たれました。

 皆、雷に打たれたようになったのでございます。



 さて、サンパギータは何を物語ったと思いますか。

 それは、わたしのよく知っている……わたしが彼女へ聞かせた物語でした。

 幼い子供に聞かせる様な、動物に言葉を話させた陽気で他愛たわいない童話です。

 わたしはそれに気づいた時、頬を赤らめて『やめて、サンパギータ』と、心で願いました。だって、それはわたしが聞きかじった物語ではなく、空想してつくった物語だったからです。

 サンパギータは相変わらず心ここにあらずの様子で、わたしの物語をトロトロと唇からこぼしていきます。

 語る彼女に、表情はありません。

 それなのに、なんという変幻自在の声を出すのでしょうか。

 そしてまた、わたしのつくった物語の動物たち――優しいハヌマンラングール(灰色の猿)と、ちゃっかり者のアクシスジカの性格を理解し尽くして、わたしの思い描いていた通りに喋り、笑い、そして、的確な動作を描写語りで伝えます。

 その語りは、恐ろしく上手かったのです。

 自分ではそれほど面白いものではないと思っていた物語によって、宴の間の人々が聞き入ったり笑ったり、展開の節目に思わず小さな感想を漏らしたりして楽しんでいる様子を見て、わたしは驚きました。

 彼女を蔑んでいたいシヴァンシカ妃とファティマ姫だけが、サンパギータの声を心から閉め出そうと仏頂面をしていました。

 語り部は、瞳をキラキラさせていらっしゃいます。

 優しい瞳を縁取るまつげが、少しだけキラリと光っておられた様な気がして、わたしは胸が締め付けられました。

 否応なくわかります。

 この他愛ない物語を、誰か他の者――例えばわたし――が語れば、たちまち詰まらない話になる事が。そして、そう、サンパギータは特別な語り部に語られるべき人物で、わたしはそうではないのでしょう。



 物語が終わると、サンパギータは糸が切れたようにペタンと座り込みました。

 水を打ったように静まりかえる宴の間の静寂せいじゃくを、ラアヒットヒャ様が拍手はくしゅ野暮やぼったく破られました。


「おお、サンパギータ……! なんという……! 姫が元に戻った!」

「いいえ!」


 シヴァンシカ妃が鋭く否定の声をお上げになられました。


「よくご覧くださいませ、また木偶に戻っておりますわ」

「しかし、ロキラタに負けない語りだったぞ」

「中身が無い者には、時に霊的なものが乗り移るのでしょう。語り好きの神か精霊が、ロキラタ様の語りに集まっていたのかも知れません」


 シヴァンシカ妃の言葉に、宴の間にいた人々は「ほう」と息を張り詰めました。

 ラアヒットヒャ様が不思議なサンパギータをかつて迎え入れた様に、皆神や精霊を信じているのです。妃のお言葉は、先ほどの神がかったサンパギータの様子を皆に納得させました。そして、「サンパギータ本人が戻ったのではないのだ」とも、思わせました。

 誰しも、信じられない事に直面した時、神や精霊の仕業だと思うものですから。

 ラアヒットヒャ様も、もちろん妻の言う事に髭を撫でて頷かれました。


「なるほど。ではサンパギータに宿ったお方に物語を……ロキラタ、類い希なる語り部よ。そなたは試されておるのかも知れぬ。我らを神々しい場面へと導いておくれ」

「……かしこまりました」


 語り部はラアヒットヒャ様に一礼なさると、皆が今までよりも緊張して見守る中、深々とサンパギータへ平伏されました。そしてそのまま、穏やかな声で仰いました。


「――はるか遠くの、とある温かい海域に、神々に守られた八つの島が浮かんでおります。島にはそれぞれ女神が宿り、珊瑚礁さんごしょうと共に島を護っておられます。先ほど私の故郷と申しました『語り部の島』も、その一つです。さて、どの島の人々も島の外へそうそう出て行きませんが、わたしの語り部の島の人々だけは違います。これこのように、皆一度は旅に出るのです。そして外界で見聞きしたものを物語にして、島で語り継ぐのです。今宵は姫君に降臨くんりんなされた神聖なお方の御前であるとの事、島でもとっておきの物語を語りましょう。では、『島の女神に語ります』」


 サンパギータが微かに頷きました。

 それを見たのは、わたしだけのようでした。

 本当に、シヴァンシカ妃のいうとおり何か精霊か神様が降りておられるのかもしれない、と、少し恐ろしく感じましたが、語り部の声に惹かれずにはいられませんでした。

 語り部は自分の島に語り継がれているという、火山の女神と珊瑚礁の精の婚礼の話をされました。

 猛々たけだけしく火を噴く火山も、色鮮やかな魚たちの住処だという美しい珊瑚もわたしたちは知りませんでしたので、興味津々でお話を聞きました。

 それは心躍る島の創世記そうせいきであるようでした。

 ああ、このお方はどうしてわたしたちが見た事のないものを、声で見せる事が出来るのでしょう。

 皆、その不思議な感覚に夢中です。

 語りが終わった時、自分達が何故美しく温かな島の砂浜に寝転がっておらず、この豪奢な宴の間にいるのか混乱した程でした。


「では、次の語り部は?」


 語り終えて、語り部が誰にともなく尋ねました。

 すると、


「『子らよ、心に衣を贈ろう。一枚、二枚、三枚』……」


 またしても、サンパギータが語り始めたのでございます。

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