第9話 悲観の鳥かご

 夜咲いて朝花びらを閉じる花の様に、宴の日々は次々と過ぎてゆきました。

 宮殿の多くの人が、続く夜更かしのせいで睡眠不足となり、健康に支障をきたす様になりました。

 ぼんやりした頭で聞く物語は、本来の半分も面白くありません。

 そして語る方も支離滅裂、空中で泡のように消えるあくび語りをしてしまいます。

 語り部とサンパギータだけが、しっかりと物語っていましたが、やはり覚めた頭で聞くのとそうでないのとでは、素晴らしさに雲泥の差がありました。

 ラアヒットヒャ様に至っては食欲を落とされてしまい、主治医に宴を控えるよう注意をお受けになられたご様子でした。

 ラアヒットヒャ様は語り比べに夢中でいらっしゃいましたが、渋々主治医の進言を飲み込むと、「一夜に語るのは一人一話まで」と決められました。

 寝不足だった多くの人が、その取り決めにホッとした様子でした。


 ……わたしは、少し不満でした。

 だって、たくさん物語を語れる語り部とサンパギータが悪いみたいではありませんか。

 それに宴の時間が短くなるという事は、語り部とお会いする時間が減ってしまう。

 木の実とお菓子でわたしの手を捕まえたあの晩から、語り部は機会を見つけては同じ事を繰り返されました。

 木の実とお菓子は、彼が身につけていらっしゃる装飾品に変わっていきました。

 ターバンの端を縁取る小さな赤珊瑚の一粒、銀のピアスの片方、トルコ石のビーズを夜ごと……。

 そして贈り物の度にわたしの手を取って、誰かが夢中で語っている間、お放しにならないのでした。

 サンパギータのサリーとストールに隠れて、彼はわたしに手で語ります。

 その短くて熱い心蕩けるような語りの最中、サンパギータは自分が語ろうとしてふいに立ち上がったりせず、静かに座っていてくれるのでした。

 そういう時間が短くなってしまうのは、悲しい事でした。

 しかし、賢い人なら……そして誠実な人ならば、そんなやましい事を考えたりしないでしょうし、そもそも彼の手に手を伸ばしたりしないでしょう。


 彼は流浪の人。

 わたしは繋がれた家畜同然。


 随分残酷なお戯れではありませんか。

 けれど。そうと分かっていても尚。

 愚かで卑しいわたしは、彼の手に触れたいという気持ちを抑えられずにいました。

 わたしは木の実もお菓子も、彼の装飾品も要りませんでした。

 震える指先を熱い手のひらの中にしっかりと包み込み、親指で手のこうを優しく撫でていただきたかったのです。

 わたしはもう、彼の手の形と温度を覚えてしまっていました。

 サンパギータが眠った後、暗がりでまどろんでいると彼の手を感じる事ができるくらいです。

 彼もそうだと良い、何処にも行かないでほしい、と、幻の手を握って眠りにつく際、酷く心地よい時もあれば、酷く苦しい時もありました。


 湖の水が引くまでの、残された僅かな日々に起る事すべてが夢だといい。

 どうせ覚める夢なら、最期まで泣きませんから。


 灯火ひとつ無い暗い室内で薄目を開けて、そんな事を願いました。

 外はしとしとと、もの悲しげな雨の音。

 それは激しい雨期の終わりを告げる音でございました。



 雨がいよいよキッパリと止んで、湖が青空を映す美しい時期となりました。

 せっかくの湖ですが、雨が上がると同時にゆっくりと水が引いてゆきます。

 宮殿の人々はそれを惜しみながら水面を愛でて、乾期におけで育てて用意しておいた浮き花を浮かべます。色とりどりの浮き花は、退屈な湖上生活を彩るやしでした。

 更にこの天国の様な眺めは、ぬかるんだ陸に暮らす下々の者達から宮殿への敬意と愛着を集め、彼らのわずかなほこりとなるのでした。

 サンパギータのお世話係で良かった事はいくつかあって、この景色を観られる事がその一つでした。

 わたしと同じ身分の無い者は、湖の上からこの美しい景色を観る事が出来ませんから。

 彼らは宮殿に近づく事も許されません。

 今頃ぬかるんだ地面を家畜と共にペタペタ歩き、人の嫌がる仕事をもくもくとしている事でしょう。

 それなのにわたしときたら、労働はもの言わぬサンパギータのお世話だけ。

 最初はサンパギータの様子に恐れを抱き戸惑い、お世話に手間取りましたが、れれば赤ん坊よりも楽です。

 サンパギータのお世話は、不気味がって誰もやりたがらない仕事でしたが裏を返せば良い仕事だったのです。


 ――食べ物が満足に得られない事や虐められる事は、何所にいても同じなのだから。


 わたしはサンパギータに日光浴をさせる為、贈り物で狭くなってきた部屋からバルコニーへと連れ出しました。

 外では水面がキラキラ輝いて、浮き花を揺らしています。

 ルルルルル、とバルコニーの側の木から小鳥のさえずりが聞こえて、サンパギータがそれを真似しました。

 語り始めてからというもの、サンパギータは喉と舌を使い慣れて、時々美しい音を真似するようになったのです。


「上手ね、サンパギータ」


 わたしは微笑み、サンパギータを座らせ寄り添いました。

 サンパギータは湖に浮かぶ花々を、美しい瞳に静かに映しています。わたしはその横顔を見て、こうして一緒に浮かぶ花を眺められるのは、今期で最期ではないかと思いました。

 それは予感ではなく確信でした。

 ラアヒットヒャ様は彼女を宮殿に戻そうとお考えになられている、という噂を聞いたのです。

 彼女から宮殿に相応しい神性を見い出されたのか、側に置き、物語を語らせようとお考えなのか……。

 一番有力な見解は、生き神のようにまつって人々に知らしめ、マハラジャの兄や他の兄達へ「神のいる宮殿だ」と権威を誇示こじしようとなさっている、と、いうものです。

 そしてそうなればわたしは役目から弾かれ、見栄えの良い高貴な娘達がサンパギータにはべる事となりましょう。

 わたしは一番最初の宴の夜に、サンパギータを連れに来た召使いの顔を思い出していました。

 自分の方がマシだと思っていた相手が、自分よりいい目に合う事が面白くない顔です。

 わたしは、そぅっとバルコニーから乗り出して、湖面に映る自分の顔を恐る恐る覗き込みました。

 ルルルルル、と、サンパギータが囀っています。

 囀りの巧さに、小鳥たちがルルルルル、と返事をし始めていました。


「ルルル……」

「サンパギータ、もうお部屋へ戻りましょう」

 

 わたしは、再び囀ろうとするサンパギータの背を押して、そそくさと部屋へ戻しました。

 背後で羽ばたきの音がしたので、慌てて木戸を閉めました。

 人が鳥になる事などないでしょう。

 けれど、人は鳥になりたいと、一度は願うものでございますから。

 


 その日の夜、語り比べの宴に出たサンパギータは一言も発しませんでした。

 ただ座り込み、瞳を虚空に向けて語らなくなってしまったのです。

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