三章

第10話 物語の在庫

 ぼんやりと座り込み、虚空を見つめるだけの姫に戻ってしまったサンパギータに、人々は落胆らくたんしていきました。

 ラアヒットヒャ様は、はじめは「一夜くらいならそういう日もあるだろう」と、寛大さをお見せになられましたが、三日続くと眉をひそめられました。

 宴の間に集まった人々も、ひそひそとサンパギータを怪しみ始めています。

 お喜びになったのは、シヴァンシカ妃とファティマ姫でした。

 この状況に、お二人の笑顔は八重咲やえざきの花が開くかの様。とてもご機嫌なご様子でした。

 わたしはそんなお二人に対して悔しがるでもなく、じっと伏せて床を見ていました。

 誰にも顔を見られたくありませんでした。

 いいえ、見られてはいけませんでした。

 何故なら、わたしは心底ホッとした顔をしていたからです。

 流石に八重咲の花にはなれませんが、微かな香りが立ち、誰かにこの醜い安堵がバレないようにと祈っていました。

 


 ある昼下がり、ファティマ姫が何人かのお嬢様と語り部を乗せたお船に乗って、サンパギータの別邸前へやって来ました。

 わたしはその時、髪を風にさらし、チョリ(丈の短い上衣)とペチコートだけという姿で、お部屋の絨毯をバルコニーの柵に干していました。ですので、ファティマ姫と共に語り部がやって来た事に大いに慌てました。

 一瞬目が合った語り部も、気まずそうに顔を伏せておられます。わたしは干した絨毯の影に急いで身を隠しました。

 それを見て、ファティマ姫は笑い声を響かせます。


「ふふふ、ご覧になってロキラタ様。あの人たちはここに住んでいるの」


 ファティマ姫の弾む声と、お嬢様方の笑い声が響きます。

 わたしは絨毯の影で身をいっそう小さくさせました。


「そうでしたか。彼女はここに……教えて頂きありがとうございます、姫」


 語り部の穏やかな声がします。

 その声の中に、姫達の様なあざけりはありませんでした。

 けれど、ファティマ姫は満足そうな声を上げています。


「そうなの! あの汚らしい絨毯をご覧になって。ああ嫌だ」

「この辺りの伝統的な模様ですね」

「あら、そうなの? ロキラタ様は物知りでいらっしゃいますこと!」


 そんなやりとりが、お船を漕ぐ音と共に近づいて来ます。

 もしや、部屋へお上がりになられるおつもりではないだろうかと、わたしは震えました。


「木偶に戻った語り部はどこ?」


 ファティマ姫たちのお船はどんどん近づいて、飛び移れる程の距離で止まりました。


「お……お部屋の中にいます」

「んまぁ、わたくしが来訪しているのに、出てきて挨拶もないのかしら?」

「滅相もございません、ただいま連れてまいります……」


 わたしはなるべく姿が見えないようにほとんど四つん這いで部屋へ入り、ぼんやりしているサンパギータを連れ出しました。

 途中で急いでストールをかぶります。

 部屋から出てきたサンパギータの姿を見て、ファティマ姫は小猿の様な笑い声を上げました。語り部以外の方々も、それに合わせて笑い声をあげます。喧騒けんそうに驚いて、辺りで休んでいた小鳥たちが飛び去る音が、あちらこちらでしました。

 わたしはサンパギータの髪や衣服が乱れているのかと心配になりましたが、彼女たちはただサンパギータを見るのが可笑しい様子です。

 語り部だけが、静かにわたし達を見つめていました。


「物語らなくなって、お父様が大変ガッカリしていてよ、サンパギータ。また木偶に逆戻りね、可哀相に残念だわ」

「これでいいのですよ、ファティマ姫様。語っている時も、薄気味悪かったわ」

「あの宝石はロキラタ様のものになりますわ!」

「きっと姫様のロキラタ様を思う心が、神様に届いたのですわ」

「物語の在庫がなくなったようでなによりでございますわ」


 キャアキャア鳴きながら、お船がバルコニーすれすれまで近づいて来ます。


「贈り物を贈っていた者達も、損をしたとなげいていたわよ、サンパギータ!」

「泥棒よ、詐欺さぎだわ」

「姫様の地位を奪おうとして失敗したのに、まだりないのね!」

「そうよ、でも今回も駄目だったのだから、もうこれからは大人しくしていなさい!」


 彼女たちは口々にそう言って、召使いからオールを奪い、絨毯をつついて落とそうとしてきます。

 絨毯が落ちないように咄嗟に押さえると、水をかけてきました。

 飛んできた水に目を閉じる瞬間に、語り部が船底に屈んでいらっしゃるのが見えました。


――そうよね。姫相手に止めてはくれない……。


 絨毯が水に落ち、水面で見苦しく漂ったのち、沈んでいきます。

 わたしとサンパギータはこれから、ささくれた床と直接付き合わなくてはならなくなりました。


「なんでお前達は頭を上げているの!? ひざまずきなさい!」


 ファティマ姫が、どうして今ここへ訪れたのかよく分かります。

 わたしはサンパギータを優しく跪かせ、その少し斜め後ろに跪きました。

 姫は、サンパギータがもう語らないと思い「元に戻った」事を叩き込みに来たのです。


――そんな事をしたところで、サンパギータには響かないのに……。


 それでも、自分が上だと納得したいのでしょう。

 自分以上に父や語り部の関心を引いたサンパギータが許せないのです。

 そして、元の木偶に戻ったとなると余計に腹立たしく、以前より憎くなるのでしょう。だって、少しでも自分の上へ行きそうだった者が木偶なのですから。

 自分が生まれるより先に、両親の元へ大鬼蓮に乗って現れた美しいサンパギータ。

 膝には宝物を乗せ、額に宝石をいただいて……。

 ファティマ姫は常に、サンパギータに心を脅かされているのでしょう。その反動で、金切り声を上げ、サンパギータを挑発するのでした。


「語ってみなさいよ! フフ、もう出来ないのでしょう?」


 ファティマ姫がそう言うと、サンパギータが顔をふいっと上げました。

 皆がハッとして彼女を見ました。

 しかし、サンパギータは沈黙の中「ルルルルルル……」と、囀っただけでした。

 ファティマ姫達は大笑いです。

 悔しくてじっと額を床につけていると、また水が掛けられました。

 その時でした。


「ああ、姫様大変です」と、今まで静かだった語り部の声がしました。

「あら、どうされましたかロキラタ様」

「船の底が抜けております」

「ええ!?」


 驚いて思わず首を伸ばして見れば、確かに語り部が座っている辺りの船の底から、水が入ってきている様子でした。


「これは沈むやつ。私は泳げますけど、姫たちは泳げますか?」


 しれっとした語り部の声に、姫達は悲鳴を上げ始めました。


「き、きゃー!?」


 船の上は混乱に満たされました。

 姫達の、たっぷり綺麗な布を使った衣装がどんどん水に濡れ、重たくなっているご様子です。湖に放り出されたら……水を含んだ衣装の重さでおぼれてしまうかもしれません。


「ちょっと、早く宮殿へ戻りなさい!!」

「ひとまずサンパギータ様の部屋へ……」


 召使いがサンパギータの部屋への避難をうながしましたが、ファティマ姫は顔をこれ以上ないほど歪めて、首を横に振りました。


「い、いやよ! こんな所に上がったら汚いわ!!」

「そうよ、ファティマ姫が病気になられてしまう! 早く宮殿へ!!」

「沈んでるわ!! 早くおし!!」

「ひ、オールを返してくださいませんか」

「ああもう、ほら!! 早くしなさい!!」


 ファティマ姫もお嬢様方も悲鳴を上げて、召使いに早く宮殿へ戻る様に指示しました。もう、サンパギータどころではありません。

 それでもサンパギータの部屋の方へは、かたくなに上がろうとしないのですからあきれてしまいます。

 騒がしい沈みかけのお船は、浮き花をかき分け急いで宮殿へと戻って行きます。

 途中、大混乱のお船の上から、語り部がこちらへ振り返られました。そのお顔は、楽しそうに笑っていらっしゃいます。

 目が合うと、小さく手を振ってくださいました。

 わたしはこらえに堪えて、サンパギータのサリーのはしに顔を埋めると、肩を震わせました。こんな風に笑ったのは、いつぶりだったでしょうか。

 サンパギータが、ルルルル……と囀っています。

 笑い終えたわたしは、その囀りを清々せいせいとした気持ちでしばし聞いていました。ですが、ふと胸騒ぎがしはじめました。

 ファティマ姫達のののしり声が、頭の中に響きます。


――物語らなくなって、お父様は大変ガッカリしていてよ。

――薄気味悪かった。

――在庫が……。


「在庫……」


 わたしはハッとして、サンパギータを見ました。

 彼女が初めて語り出したあの夜から、わたしは物語を聞かせていませんでした。あんなに素晴らしい語りをする彼女に、自分などが……と、萎縮いしゅくしてしまったからです。


「物語の在庫……が、無くなった?」


 きっとそうです。

 サンパギータは、わたしの寝物語を語り尽くしまったのです。

 新たに物語を聞かせてさしあげなくては、語る事が出来ないのだ、と、わたしは気づいたのでございます。

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