第11話 泥の手綱に蝕まれ

 サンパギータは、物語を聞かせないと語らない。

 そう気づいたわたしは、試しに宴前に物語を聞かせてみました。

 愚かな小猿たちの乗るお船が沈没しそうになる喜劇です。すると、サンパギータは予想通り、語りを再び披露したのです。

 ラアヒットヒャ様は飛び上がるほどお喜びになられ、宴の間も可笑しな小猿の喜劇に沸きました。

 シヴァンシカ妃とファティマ姫、その取り巻きたちは、顔を盛大に歪められていました。

 特にファティマ姫は、宴の間に入って来た時の悠々とした表情を無くして、お顔を赤く染め震えています。安堵から叩き落とされれば、ああなってしまうのは致し方ありません。しかし、自身に対する侮辱に関しては口を閉ざしていました。

 きっと、召使いの暮らす部屋など訪ねた事を父に知られるとお叱りを受けると思ったのでしょう。

 わたしはこうなる事を昼の内から予想して、少し意地悪い気持ちで楽しみにしていました。

 しかし、ちっとも胸が晴れません。

 それどころか、何故なのでしょうか。無性に嫌な気持ちになるのです。

 おかしな事に、わたしは、ファティマ姫の気持ちに寄り添ってしまいそうになるのでした。

 語り比べが終わり部屋に戻ると、部屋に再び贈り物が届きました。

 わたしは、サンパギータが初めて温かい食事と美しい衣服をいただいた夜の気持ちを思い出します。

 サンパギータにとって、素晴らしい出発の夜。けれど、わたしにとっては、自分の鎖を自覚した夜でした。

 サンパギータに代わって、贈り物の包みを開けていくと、その中に小指程のガラス小瓶を見つけました。唐草を模した青銅が、瓶を覆っている繊細な物です。

 その可憐な瓶の中には、ゆるりとした液体が、ほんの少しだけ揺れていました。

 わたしはしげしげとそれを眺めました。

 小瓶を傾けると、ふわりと芳しい香りがします。そこでようやく、香油の瓶だと気づきました。

 物語の中でしか触れた事がない貴重な品に、わたしは魅了されました。

 青銅の唐草も、その内側でランタンの光を反射する瓶も、キラキラしています。そして、それ自体に身を捧げたくなるような香り。遠くの国の、貴重な花に違いない、と、思いました。

 そして、この僅かな量。これは「お裾分け」ではないかと、思われました。

誰かが、貴重な素晴らしい香りをサンパギータと分かち合い、お揃いにしたいと思っている……。

 知らず奥歯を噛みました。

 真夜中だというのに、何処かの水面で水鳥が飛び立つ音がしました。その音を気にせず香油瓶の小さな蓋を開け、指先に香油を盗み、自らの額につけました。

 濃厚な花の香りから、もう逃れられません。

 そのまま、何処かを見つめているサンパギータの額の傷跡に、自分の額をつけました。大丈夫、サンパギータは痛がりません。

 額どうしがぬめって香油が練られ、本来は夢のような香りが、濃すぎて悪夢の様になりました。

 わたしはその夜、サンパギータに寝物語を語りませんでした。



 再び物語らなくなったサンパギータに、誰もが落胆した様子です。


「どうしたのだサンパギータ。もう語るものが無いか」


 ラアヒットヒャ様は、見るからに詰まらなそうでいらっしゃいました。

 周りには不遜にもからかっているのではないかと疑われ、陰口を囁かれる機会が戻って来ましたが、陰口など木偶のサンパギータには堪えません。


「語らないならば、もう宴の間に連れてくる意味は、ないのではなくて?」

「お母様の仰る通りですわ。仕事をしないのなら、その場にいるだけで不愉快よ」


 シヴァンシカ妃とファティマ姫が喜んで、蔑みの言葉を吐いています。

 しかし、サンパギータの何処に傷つく心があるのでしょう?

 彼女たちは物言わぬ壁に向かって毒を吐き、自身の徳を削っているようなものです。


 召使いの長をはじめとする召使い達、奴隷達は、今まで以上にサンパギータを嫌悪しました。

 サンパギータが存在する事で慰められていた自尊心を奪われ、蔑まれる立場に転落し、一時期頭まで下げてしまった事が、彼らには許せないのでした。

 彼らのそれは、高貴な方々とは思い入れの強さと方向性が全く違いまして、睨む目の奥に必死な呪いを含ませる類いのものでした。

 彼らは、語らなくなってまだ日の浅いサンパギータの周りを用心深くまわり、虎の様に様子見しているのでした。

 サンパギータへの無関心と蔑みに、敵意と恐れが付着して戻ってこようとしていました。


 わたしはあろう事か、そういった全てに心が安らぎました。

 その内、元の蔑まれる生活が訪れる事でしょう。

 わたしは、あの召使い達や奴隷達と同じ。

 どうしようもない程、さもしい女でした。

 それに気づいた今、煌々と輝く蝋燭の光に照らされた大きな手に、触れる事は出来ません。

 あたたかな瞳の光を受け取る事はもちろん、自らが視線を向ける事はもう決して許されないでしょう。

 慕わしい声が、旅先の少女に恋する旅人の物語を甘く語っても、遠い天国の出来事のように思えます。

 彼が紡ぐ喜びも悲しみも、憧れも、愛すら、このさもしい心の安らぎには敵わないのでしょう。

 きっとそうでございます。



 サンパギータが語らなくなり、ある者は憤り、ある者は落胆し、ある者は泣きたくなるほど安堵しております。

 しかし、湖の水が引き始め、宮殿の支柱が見えてくる頃になっても、ラアヒットヒャ様はサンパギータを宴へ呼び続けました。


 ラアヒットヒャ様は、サンパギータが語らなくても構わないとお思いなのだろうか?


 わたしはそう思い、元の二人きりの惨めな生活が戻らない風向きに、焦りと不安を感じていました。

 語りを披露せずとも、宴の間に存在する事を許されているサンパギータ。それが当たり前となってくると、人々は君主のサンパギータに対するお墨付きを見いだし始めました。

 ラアヒットヒャ様の、サンパギータへの対応がお変わりにならない。

 

――何故?

 

 祀り上げ語らせる際は、新しい物語である必要が無いからでしょうか。

 その際に必要なものは、サンパギータの美貌と語りの巧さのみ。確かに、たくさん物語る必要はないでしょう。それは、揺るぎない事実でありました。


 そして、問題は他にも。

 当たり前の事なのですが、物語を語れる者がいなくなってきて、語り比べがそろそろお開きという雰囲気を迎え始めていたのです。

 宮殿側の挑戦者は、ラアヒットヒャ様に睨まれて、しどろもどろにデタラメな物語を語りその場をしのいでいるだけでしたから。


 これ以上の勝負は無粋なだけ。

 語り部の勝利は目に見えています。

 サンパギータの宝石を手に入れたら、語り部はすぐに宮殿から立ち去ってしまうだろうか。ラアヒットヒャ様が「もう少しだけ」とお引き留めになられないだろうか。

 わたしは、自分が彼に相応しくないと自覚し、視線すら交わさなくなったというのに、彼を惜しんでいるのでした。


 執着、嫉妬、依存、猜疑、胸を搔き毟られる様な憧憬……心の中は猥雑を極めていました。


 どうしたら自分を見限る事が出来るのでしょう。どうしようもなく、自分が厭で仕方がありませんでした。

 魂から切り離して、打ちのめして、徹底的に否定して、蔑んでやりたい。


 ――それでも立っていそうで、嫌いです。



 宮殿の周りに溜まった水が引き始めました。

 水が徐々に無くなる毎に、わたしの罪悪感が満ちていきます。


 いつものようにサンパギータを寝かせると、バルコニーへ出て宮殿の残り灯を眺めました。

 ポツポツと消えていくランタンの灯の中に、わたしの心や命も混ざっていればいいのに。

 身勝手な願いは叶わず、全ての灯が消えてしまうと、後はただ月明かりの元、虫やカエルの鳴き声と水の気配だけが残りました。

 部屋に戻って、自分も休もう。そう思い、宮殿に踵を返した時でした。宮殿の方から、湖上を滑って来る影が目の端に見えました。滑らかな動きなので、水鳥だろうかと眺めていると、影が手を振りました。

 明らかに水鳥ではありません。

 影は水に潜ると、あっという間にバルコニーへ近づいて、乾期に地面へ降りる為の階段をジャブジャブと登って来ました。

 わたしは驚いてしまって、部屋へ逃げ帰る事すら出来ませんでした。


「こんばんは」


 小さなランタンの灯の下で微笑んだのは、水を滴らせた語り部でした。

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