第12話 半分の名前と割けない心
語り部が豊かな髪から水を滴らせて、微笑んでおられます。
粗末な明かりの下だからでしょうか、表情に少しだけ憂いが灯されている様に見えました。
わたしは震えて跪きました。
「こんな風に訪問してすみません。別邸への廊下を通してもらえなかったので、以前ファティマ姫に教えてもらった道で来ました」
そう仰りながら、彼は濡れた上着を脱ぎ、バルコニーの柵に掛けられました。
露わになった逞しい上半身が水に濡れて艶めいておられて、わたしは顔を上げる事が出来ません。
「あなたに会いたくて来ました」
「わたしに……?」
小さく問い返すと、語り部は片眉を上げてニヤリとしました。
「他に誰が?」
「さ、サンパギータが」
語り部は、わたしの言葉を遮る様に喉で笑い声を立て、仰いました。
「俺が幾夜も人目を忍んで手を重ねたのは、サンパギータ様じゃない。あなただ」
「……」
「あなたの名前を教えてください。この宮殿の誰もあなたの名前を教えてくれなかった。あなたも初めて出逢った時に、教えてくれなかった」
「身分が無いので、名乗る名前が無いのです」
わたしは思わぬ鋭さで出た声を、ハッと手で押さえました。
たくさんの知られたくない事の中で、名乗れない事は一番嫌なものでした。
ランタンや寝台、絨毯にだって名前があるのに、わたしは名乗れないのです。
俯いていると、ひたひたと足音が近づいて、大きな足が視界に入りました。
「……あっ」
慌てて後退ろうとするわたしの肩を、語り部は素早く捕らえました。
「名前がない?」
美しく真剣な瞳で見下ろされ、わたしは息が浅くなりました。
怒らせてしまったのだと、思ったのです。
「申し訳ありません、本当に……ないのです」
次に何を言われるのだろう、と、目を瞑り身を固くしていると、意外な言葉が降ってきました。
「では、俺の名を半分差し上げます」
「……え?」
「お嫌でなければですが……今から俺はロキ。あなたはラタです。如何でしょう?」
「め、滅相もございません、そんな勿体ない事をして頂いたら罰せられてしまいます!」
アハハ、と、語り部は軽快に笑われました。
宴の間での悠々とした印象と違い、まるで少年の様でした。
「秘密にすればいいよ。俺だけがあなたの名を呼びます。ラタ」
「……」
「ラタ、声が出せるなら俺の新しい名も呼んでください」
わたしは……声がつかえて出せませんでした。胸が苦しく、身体が震えて仕方がなかったのです。名をお呼びできない代わりに、いつの間にか頬に添えられていた彼の大きな手を取って、両手でぎゅっと包みました。
甘いため息が降ってきます。
「ラタが俺を見なくなり、手に触れなくなってとても寂しかった」
その声は、いつも朗々と語る彼らしくなく、小さく掠れていらっしゃいました。
逞しい身体を屈め、少し項垂れた様子に、胸が痛みました。けれど何故か同時に嬉しくもあり、罪深い事に心地よい胸の痛みなのでした。
自分の拒絶が、この人をこんな風にさせてしまうなんて。
宮殿中を、雄々しい大輪の花のごとく魅了してみせるこの人を。
身体のどこか奥底が、甘くゾクリと震えます。
わたしは欲が出ました。
決して嫌ってそうしたのではないと、どうしても伝えたくなってしまったのです。
「わ、わたしは、あなた様に相応しくないのです。ですから……」
「それは俺が決めます」
彼はキッパリそう仰ると、わたしの瞳を覗き込まれました。
「それよりも、俺はあなたに相応しいですか」
その問いに、わたしは心が凍りそうになりました。
どうして、わたしからの相応しさなど求めるのでしょう。
わたしに相応しいものは、サンパギータへ投げられる暴言のおこぼれと、蔑みの視線と、暴力と、汚れた裸足の足と割れた爪、そして残飯、水の底に沈んだ絨毯……。
そんなものと、この方を並べろと言うの?
そんな侮辱、とても出来るものではございません。想像するだけで涙が零れ出し、止まらなくなりそうでした。
そして、恋慕の情では収まらない自分の気持ちが、だんだん怖くなりました。
「……恐れ多いです。もうお許しください。あなたは、もうすぐ発ってしまわれるではないですか」
「そうです。ラタ、泣かないで……あの宝石を手に入れたら、あなたも連れて行きたい」
彼の言葉を聞いた途端、バルコニーを支える柱が崩れてしまったのだと思いました。
そのくらい床がぐらついた様に感じたのです。
「……え?」
「あなたも連れて行きたい。だから、ラタのしっかりした気持ちが知りたいのです。身体だけ攫さらっても意味はないので」
「……」
「俺と一緒に来てくれますか?」
幸福に目眩がしそうなお誘いを聞いて、わたしの心は一瞬だけ夢を見ました。
この暮らしからの解放。語り部との旅の日々。彼の故郷も見れるのでしょうか。
ですが、それは一瞬だけの夢でした。
何故なら、その夢でわたしの側にサンパギータがいなかったからです。
「……サンパギータが……」
わたしがいなくなったらサンパギータのお世話は誰が?
そう考えるだけで、彼に誘われた喜びがドロドロと溶けていきました。
彼は少し困った様に微笑みました。
「サンパギータ様は大丈夫です。彼女はあの通り、語りの女神なのだから」
「た、確かに語りをしている時はそう見えるかもしれません。でも……サンパギータは普段赤子同然なのです」
サンパギータは、髪を梳き、着替えさせ、食べ物を口へ運んであげなくてはいけません。
それから、日向ぼっこをさせて、月や星が綺麗な夜は一緒に見上げてあげなくては。
たまにふらりと好きな方へ動くので、危なくないように気をつけてあげなくてはいけません。
もちろん……それは誰にでも出来る仕事かもしれません。
女神と崇められ、たくさんの賢く優しい娘にかしずかれる生活になれば、わたしがお世話をしている今よりも良い環境かもしれない。
けれど、鳥や獣の鳴き声を真似て鳴いても笑ったりせず、愛情を持って褒めてあげられる人間が、この宮殿に何人いるでしょうか。
その人は、誰よりも何よりもサンパギータだけを心の拠り所として、大切に思ってくれる?
なんて綺麗なのだろうと陶酔してくれる?
毎夜物語を語ってあげられる?
わたしがどんなに醜くあがこうとも、いずれ取り上げられるのは分かっている。
それでも、わたし自ら離れていくことは出来ない!
別邸から追い払われ、遠く離れて泥にまみれようとも、サンパギータの噂だけでも耳に届く場所にいたい。
そう思う強い気持ちに、初めて気がつきました。
サンパギータはわたしがいなければ……?
―――いいえ、サンパギータがいないとダメなのは、わたし。
「ラタ、サンパギータは本物の女神です。ですから」
「いや!」
わたしは咄嗟にサッと彼から身を離しました。
彼の顔が青ざめたのを見て、やはり甘い痛みを感じるわたしは、なんと身勝手で恐ろしい人間でしょう。罪悪感で今すぐ息の根が止まればいいと思いました。
「ごめんなさい。何処にも行けません。どうか心だけ持っていってください」
虹彩が夜闇に溶けて瞳孔しか見えない彼の目が、わたしを悲しそうに見つめていました。
「ここに居たがっている心を、どうやって持っていけばいいのです?」
「心を裂きます。一番柔らかい所を差し上げます。わたしはあなたの心を乞いませんから、それでお許しください」
「裂けた心? そんな悲しいものは要らない。ラタ……どうして私の手を受け入れてくださったのですか? どうして潤んだ瞳を向けてくださっていたのですか?」
彼の言葉に、「本当にそうだ」と自身を責めながら、その責任から逃れたい一心で思わず言い返しました。
「……あなた様こそ。どうしてここへやって来たのですか? どうしてサンパギータを女神などにしようとなさるのですか? どうしてわたしからサンパギータを取り上げようと……」
わたしはハッとして言葉尻を切りました。
彼を見上げると、表情に野心の様なものが広がり始めているところでした。
「サンパギータ様、サンパギータ様……か。あなたの心はそこにあるのですね」
彼はゾッとするほど綺麗な笑顔を浮かべ、わたしに仰いました。
「分かりました。遅かれ早かれ、私はあなたからサンパギータ様を奪います。彼女は女神になられるのだから。その時、もう一度あなたに心を尋ねましょう」
「……やめて」
「やめない」
彼は静かに首を振り、湖へ続くバルコニーの階段を降りて行かれます。
「ロキ様!」
思わず名をお呼びしました。
恐らく、わたしの持っている言葉の中で一番強い言葉だったからでしょう。
ロキ様は振り返り、少年の様に無邪気に微笑えまれました。
「聞こえませんでした。もう一度呼んでください」
「……ロキ様」
「なんでしょう」
彼の美しい瞳からキラキラ溢れてくる愛情に、わたしは縋りました。
「わたしからサンパギータを奪わないでください」
「ああ……ラタ……」
与えられた名が、失望と共に彼の唇から空しく零れました。
彼は酷く傷ついた顔で眉をしかめられ、息を啜った後、奥歯を噛みしめて仰いました。
「それは出来ません……語り比べの宴で会いましょう」
彼はそう仰って、湖の中へ消えていかれました。
わたしは水音が聞こえなくなるまでバルコニーで佇んだ後、キリリと唇を噛み、踵を返して部屋へ戻りました。
―――勝てない。分かってる。だけど、少しでも。
そして、安らかな寝息を立てるサンパギータの枕元に座ると、ランタンの灯が絶えた暗闇の中、物語を語り始めたのでございます。
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