第4話 染めた爪と割れた爪

 視線が合ってすぐに、語り部は静かに瞳を見開かれました。

 わたしは急いで彼の次の視線から目を逸らし、自分の汚れた裸足はだしを見つめました。親指の爪が割れているのを見つけて、あちらからは見えはしないというのに、とても恥ずかしい気持ちです。

 ファティマ姫たちの、香油を塗ってつやめく足首と宝石を散りばめた金のアンクレット、赤く染めた爪をこんなに羨ましいと思った事はありませんでした。

 美姫びきとご令嬢が集まり煌びやかに着飾っている中で、ぼろ布を身体に巻いたわたしの姿は、どれほどみすぼらしく見える事でしょうか。剥き出しの嫌悪けんおふくんだ視線と、クスクス笑う姫達の笑い声が、率直そっちょくな答えなのでしょう。


「何をしておる、サンパギータこちらへ来なさい」


 ラアヒットヒャ様が、中々動かないサンパギータを、皆のくつろいでいる絨毯の上へお招きくださいました。

 しかし、シヴァンシカ妃とファティマ様が眉をつり上げ、口々に非難の声を上げました。


「まぁ、あの様な者を家族の絨毯の上へなど、ご冗談でございましょう?」

「お父様、サンパギータとその下僕を側になど置きたくありません。ロキラタ様にも失礼だわ」

「そうか……しかし、ロキラタは珍しいものを所望なのだ」


 愛する妃と姫に抗議されて、ラアヒットヒャ様はタジタジです。 

 しかし、ラアヒットヒャ様はサンパギータを神から授かったと未だ微かに思っていらっしゃるご様子で、妃と姫の様に表立って邪険にはしませんでした。

 この中途半端な信仰とほとんど無関心な上辺だけの慈悲が、サンパギータの首をつなぎ止め、同時に真綿で絞めてもいるのです。

 一度は姫と決めた者を「珍しいもの」と口にするその無神経さは、彼に仕える者達

――とくにシヴァンシカ妃にとって心を冒す微量の毒となっているに違いありません。


 姿を良く見せろと言われたり側へ寄るなと言われたりして戸惑っていると、語り部がスッと立ち上がりました。


「わたしがお側へ参りましょう」

「ロキラタ様!」


 語り部にしなだれかかる様にしていたファティマ姫が、彼の手を取って止めました。

 しかし語り部は彼女の手をそっと離すと、わたしとサンパギータの方へと歩まれました。

 途中、絨毯にいくつも置かれたクッションをひょいひょいと二つ拾われます。

 皆、どんな事が起こるのだろう、これからどんなお話が聞けるのだろうと語り部の行動を見守っています。

 語り部は立ち尽くしているサンパギータの側に片膝かたひざをつき、お辞儀おじぎをなさりました。

 柔らかな亜麻色の髪の束が肩から落ちていく滑らかさといったら。わたしはサンパギータの影でこっそりと釘付きぎづけになっていました。

 彼は瞳を輝かせてサンパギータを下から見上げ、朗々とした声で仰りました。


「やっとお会いできて嬉しいです。私はロキラタという名の語り部です」


 わたしは内心慌てました。

 サンパギータは例のごとく虚空を見つめ、返事をしないからです。

 少しだけ宴の間がシンと気まずく静まりました。


「木偶なのよ」


 と、ファティマ姫が静寂せいじゃくやぶります。


「醜い傷を持った空しい器」


 ホホホ、と、シヴァンシカ妃。

 女達が妃のあざけり笑いに合わせて一斉にクスクス笑いました。それに釣られて男達も。

 語り部は涼しい顔でそれらを無視して立ち上がり、サンパギータの手をお取りになられました。そして、持ってきたクッションの上に、宝物の様に座らせてくださったのです。

 そのご様子は、彼女しか見えていないとばかりなのでした。

 サンパギータの美しさに魅了されてしまったのだ、と、わたしは思いました。

 もしかしたらその時、わたしはファティマ姫と同じ表情をしていたかもしれません。

 語り部は、サンパギータをクッションの上に座らせた後、再度平伏されました。

 そして皆が呆気にとられる中、顔を上げられると、ラアヒットヒャ様にお尋ねになられました。


「王様、お話では彼女の額には宝石が付いていたそうですね。して、この傷は一体何故ついたのでしょうか」


 シヴァンシカ妃が、真っ赤な唇の隙間から水たばこの煙をくゆらせ、あらぬ方へ目を細めました。

 ラアヒットヒャ様は苦くお笑いになり、顎髭あごひげを指先でもてあそばれました。


「幼い頃は宝石がそこについていたのだが、……取れてしまったのだ」

「では、宝石が付いていたのは嘘ではないのですね?」


 ラアヒットヒャ様は憤慨ふんがいなさって、身を乗り出されました。


「余は嘘など吐かぬぞ。確かに着いておった。それとも何か? 余に、そなたほど不思議な体験など出来ぬと言うのか。その娘は確かに神から授かった娘であるぞ」

「しかし、無関心に扱われているご様子」

「……木偶になった故、神性は削がれた。しかし空虚な身体だけはある。崇めるには宮殿内で徳が足りず、打ち捨てるには罰が当たりそう――そういう者をふところに入れている余の気分などそなたに分かるまい」


 おまけに、妃と姫にはこれをネタにネチネチ嫌味を言われるし……と、ラアヒットヒャ様。

 当の妃と姫は、ラアヒットヒャ様へ恐ろしいほど優雅に微笑みかけています。


「それは大変失礼を……ところで、その宝石はどうなさったのでしょう?」

「余の宝物庫に保管してある。いつかマハラジャの兄が尋ねて来られたら、贈ろうと思っているのだ」

「そうでしたか。いずれマハラジャの宝となる尊い宝石を、わたしにも拝見させて頂けないでしょうか」


 ラアヒットヒャ様は尊大に頷かれ、召使いへ片手をひらりと上げられました。

 壁に張り付くようにして控えていた召使いの内の一人が、サッと礼をして宴の間から出て行きました。

 よく気の付く厨房の召使い達が、場つなぎの為に高価で珍しいお茶と伝統の菓子、蝶や鳥を見立ててカットした果物盛りを運んできます。


「素晴らしい。故郷に帰ったらこの技を故郷の人々に伝えたいと思います」


 語り部はそう仰って、サンパギータへ細工された果物を差し出されましたが、サンパギータは相変わらずです。

 語り部はどこか悲しげに薄く微笑えまれた後、わたしへ「貴女もどうぞ」と果物や菓子を勧めてくださいました。


「ロキラタ様! その者は奴隷よりも卑しい女です!」


 総毛立って腰を浮かすファティマ姫を、ラアヒットヒャ様がおなだめになられました。


「先ほどロキラタは、身分を問わず説法せっぽうを聴かせるシャーマンの話をしたではないか。きっとその話をしているのだ。姫よ、少し静かにして彼の好きにさせるのだ」


 ファティマ姫は父に宥められ、不満げな顔をしました。彼女は音を立てて羽扇を開くと、羽と羽のわずかな隙間からわたしをにらみ付けていました。

 わたしは慌てて床に直接、膝と頭を着けました。


「美しい人、顔を上げてください。膝が痛くないですか?」


 あたたかな声がわたしに尋ねてくださいました。

 サンパギータのお披露目が済むまで、こうして頭を上げずにいよう。そう決めたので、頭を伏せたまま小さく頷きました。

 本当は、美しいなどと言われて顔を上げられずにいたのでした。

 

 さて、召使いが宝石を持って来て、ラアヒットヒャ様へ差し出しました。

 サンパギータの瞳と同じ緑遊色を踊らす宝石は、ヒバリの卵ほどの大きさをしていました。皆がその美しい宝物に目を見開きます。


「美しいであろう」


 ラアヒットヒャ様は得意気に語り部へ宝石を差し出されました。

 語り部は頷き、「言葉に出来ない程でございます」と、囁かれました。


「ほう、そなたでも言葉に出来ぬ事があるのか」

「はい。その宝石を手に入れられるなら、死んでもいいとすら思ってしまいそうです」

「それほどか」


 どんな経緯で手に入れた物であれ、自分の持っている物を崇められたラアヒットヒャ様は、久しく覚えの無い高揚を感じられたご様子でした。


「どうだ、それでは取引をしないか」


 と、こんな事を仰りました。


「取引とは?」

「余はそなたの話を、その頭にしまっている分だけ全て聞きたいと思っている。しかしそなたは流浪の者。早々ふらりと気紛れに、何処かへ行ってしまうのだろう?」

「お察しの通りでございます。私にとって伝える事はもちろん、集める事も重要ですので」

「では、この宝石をやると言ったらどうだ?」


 語り部をまとう空気がスッと変わったのが、伏しているわたしにも伝わってきました。

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