第14話 乱高下

「……うぅん」


 ふわりと意識が浮上する感覚。重たい瞼をゆっくりと持ち上げれば、ぼやけた視界に見慣れた天井が広がっていた。

 身を起こそうとしてみると、腹部の上に眠る前にはなかったはずの重量を感じる。なんどか瞬きをして覚醒しきらない頭を働かせようとしてみると、昨日の記憶がよみがえってきた。

 あの後になにがあったかといえば、特段なにかがあったわけではない。他人事だと思ってやんやと騒ぐ部下たちに拳骨を落としかけたところで、何事だろうと寄ってきた玄武巫者が慌てて叫び声をあげたため、りょうら兵士連中と白雷はくらい尚書令は共々年下の娘を前に正座と反省をさせられた次第である。

 しかしさすがに昨日の今日。そして腹の上に圧し掛かっているものの重さと大きさからして、犬猫などという野生動物とは到底考えられないサイズ感。


 ――まさか本当にやったのではあるまいな。


 思わず上半身を跳ね起こし、自分の上に乗っていたそれに目を向ける。それは威遼の勢いに押されてころんと床に転がった。

 だが目に入ったのは、予想していた青灰色ではなく――燃える炎のような赤髪。

 床に落ちた拍子に丸く縮めていた身体が伸びて土埃をまとってしまった彼は、玄武巫者の守護者こと少年であった。


「んん」


 小さく身じろぎした拿柯は薄っすらと目を開けて、威遼を見上げる。

 ぱちりと目が合って数秒後、髪についた土埃を振るい落としながら大きくあくびをした。


「ふぁあ。ん。おはよう、威遼」

「……おはようございます」


 予想と違ったことに安堵すべきなのか、それとも拿柯が自分の上に乗っかって眠っていたことに一言申すべきなのだろうか。

 いや、たしかによく考えてみれば、一般の人間よりもはるかに勘の鋭い威遼の寝床に忍び込める人物などそうそういない。それにあの発言もあってそれなりに警戒はしていたのだから、もし白雷が夜這いにでも訪れたなら飛び起きるくらいの自信はあった。

 未熟でも仙人の端くれであるこの赤毛少年くらいでなければ、腹の上に乗っかって威遼の眠りを邪魔できるような相手はいないだろう。

 いまだ寝ぼけ眼を擦っている少年にため息をつき、彼の服についた汚れを落としてやる。あの手合わせ以降、妙に懐かれているようでこうしてよく彼の世話を焼いているのだが、最近はこれが日常になりつつあった。

 子どもの世話は嫌いではない。それに、自分よりも強い相手に向ける尊敬の念は、威遼にもよくわかる感情だ。


「まったく、貴方の主人は嚶鳴おうめい殿でしょう? お守りしなくてもよいのですか?」

「主人のとなり、暑い。眠れない」

「自分の上に乗るほうが暑いと思いますが」

「威遼の上は涼しい」

「……左様で」


 筋肉の発熱量を考えれば明らかに威遼の上にいるほうが暑いはずなのだが。

 まあ本人がいいと言うなら構わないが、どうにも調子が狂う。再び大きな欠伸を漏らす彼に苦笑し、威遼は寝台から降りた。

 幕舎の中を一瞥する。眠る前と物の位置は変わっていないので、本当にただ上に乗っていただけらしい。拿柯は悪戯をするような性格ではないと信じてはいるが、白雷になにか指示をされていたらと思うと気が気ではないのも確かである。あの尚書令であれば彼の純粋さを利用して遊びかねない。

 しかしまあ、とりあえずは一安心だ。

 完全に目が覚めてしまったし、夜明けも近い。水浴びでもしてこようと踵を返そうとしたとき、後ろから袖を引っ張られた。

 振り返ると、拿柯が小首を傾げて見上げている。


「どうしましたか?」


 そう問うと、彼は無言のままに腕を伸ばして威遼の頬に触れた。夜のうちに伸びた顎髭をざりざりと撫でて不思議そうにする。


「ひげだ」

「そうですね」

「そうか、威遼、ふつうのひとだ」

「ええと」


 いきなりなにを言い出すのかと困惑していると、彼はまた口を開いた。

 今度はなにを言うのかと思えば、威遼が想像していなかったことを口にする。


「そうか。威遼、すぐ、死ぬのか」


 わずかに拿柯は目を細めて、寂しげに呟いた。


 ――ああ、そういうことか。


 仙人は不死に近い存在である。常人よりもずっと強い体を持って、長く生きる術を持っている。

 拿柯もそうだ。あの手合わせで彼が負った傷はたかが擦り傷程度だったが、それさえも人間であれば治癒に時間がかかる。しかし彼は翌朝には傷一つなくなって元通りになっていた。戦いを好む拿柯にとって、その力はただ便利なだけのものだったのだろう。

 しかし、自分に勝った威遼が仙人ではないという事実を、いまようやく実感を伴って目の当たりにした。

 普通の人間は戦えば傷つき、やがて老いて死んでいくもの。仙境に生きていても拿柯はまだ幼い。それを理解できずに、ただ純粋に戦いを楽しんでいただけだったのかもしれない。

 威遼は仙人ではない。その現実がいま目の前にいる少年にどんな思いを与えたのだろうか。


「ええ、私はただの人間ですから」


 眉根を寄せる少年に、できるかぎり穏やかな声で語りかける。彼の手を取って軽く握った。

 この小さな手が斧を握って戦うのだと考えたら、胸の奥になにか重たいものが沈んでいくように思う。


(我が子がいれば、こんな気持ちになるのだろうか)


 そんな馬鹿げたことを思って、少しおかしくなった。配偶者も見つけないままに戦場だけを駆け抜けてきた威遼には、自分が親になった姿など想像することもできない。

 だがもし、仮にそうだったとして……ああ、それはとても残酷なことだろう。

 自分はきっと子を育ててやることができない。

 この国のために剣を取り、多くの戦場を経て、いつか果てる身の上。その時に残される誰かのことを考えると、どうしようもなく悲しくなってしまう。

 だからきっと、自分のような男に家族ができることはない。

 威遼の手を握り返しながら、目の前の少年は口元を引き結んで俯いていた。


「そんな顔をしないでください。たしかに私は仙人ではありませんが、今すぐに死ぬということはありませんよ。病気だってめったにしないのですから」


 努めて明るい声でそう言うと、彼はそっと顔を上げた。わずかばかりに涙を溜めた瞳が数度瞬いてから、拿柯はこくりと頷く。

 まだ納得しきれていない様子ではあるが、それでも先ほどよりはいくらか表情が明るくなっていた。

 それに安堵しながら彼の背を押して外へ促す。


「さあ、そろそろみなを起こす時間です。私も部下たちのところに行かなければ」

「……うん」


 素直に返事をして己が主人の幕舎へと戻っていく彼を見送り、小さく息を吐きだす。

 死を恐れないわけはない。本能的な恐怖というものは確かに感じている。

 だが同時に、あの瞬間に抱く衝動がどうしようもない高揚を生むのを知っているのだ。

 それを追い求めてしまうのが威遼のさがだった。


「度し難い」


 小さく呟いた言葉は、誰もいない虚空に溶けていく。

 幕舎から出ると、ちょうど日が昇るところだった。夜の終わりを告げる光が山際を照らしている。

 澄んだ空気を吸い込み、威遼はいつものように、自らの足で歩き出した。



 ***



 威遼は前日の朝のことを思い出して迷っていたが、幕舎の入り口から声をかければ、今回は普段と変わらない声色が返ってきた。

 ああよかった。昨晩は問題なく眠れたようだ。

 床に就く前に散々遊ばれたというのにこうして心配してしまうのは威遼の真面目さの表れである。なんだかんだといって白雷が無理をしていないかと気にかけていた。

 天幕の中に入ると、白雷は寝衣のまま、寝台の上で胡坐をかいていた。その手には地図が広げられており、彼は真剣な眼差しでそれを見つめている。

 ひどい疲れはないようだ。ひとまずは胸をなでおろす。


「おはようございます。昨晩はよく眠れましたか」

「ええ、おかげさまで。威遼殿が隣にいればもっとぐっすり眠れたでしょうけどねっ!」


 笑いながらそう口にする彼に、まだそんなことを言っているのかと苦笑する。正直威遼はもう忘れたいところだ。

 そんな彼の反応を見て、白雷は少し焦るように両手を挙げた。


「いや、冗談ですよ? さすがに本気では言ってませんってば。ただまあ、たまには夜這いに来てくれても構わないと言いたかっただけで」

「行きませんよ。というかそれもまた冗談でしょう。それに、あなたが私のような無骨者に手を出すとは思えません」


 きっぱりそう返すと、彼はまたおかしそうに笑って寝台の端に腰かける。

 ぱたぱたと子どものように足を振りながら彼は言う。


「はは、無骨者ですか。ぼくが女なら貴方みたいな方は絶対に放っておきませんけどねぇ」


 女なら、という言葉に思わず肩が跳ね上がりそうになるのを抑え、気づかれないように曖昧に笑っておく。

 その様子に白雷は一瞬だけ不思議そうな顔をしたものの、すぐに元の表情に戻った。なんとかごまかせたようである。

 絶対に発覚してはいけない彼の秘密を知っているだけに、どうにも居心地が悪い。いまも白い寝衣があの夜を思い出させてしまって、無意識に目線が泳いでしまうのを止められず、威遼は内心冷や汗をだらだらと流していた。

 しかし目前の麗人はそれに気づいていないので、手の中で巻き直した地図の束をくるくると回しながら、あれこれと今日の予定を小さく呟くだけだ。しばらくするとある程度考えがまとまったらしく、白雷は地図を片づけて立ち上がった。

 その動きに合わせて寝台が軋む音が響く。


「よしよし。それでは着替えたら朝議に向かいますので、皆さんを集めておいてくださいな」

「承知致しました」


 威遼は頭を下げ、幕舎を後にしようとする。その時ふと、背後から彼に声をかけられた。

 まるで世間話でもするような軽い口調で、特に深く考えたわけではないのだろう。

 だからつい、振り返ってしまった。

 その先に白い肌が晒されている可能性なんて微塵も考えないままに。


「…………あ」

「はい?」


 威遼に背を向けたまま白雷は自らの寝衣を脱ぎ捨てて下着姿になっていた。細い首筋から背中にかけての曲線がありありと示されている。

 ひと月前に見てしまったその白磁が、頼りない下着一枚の向こうにある。

 そこまで思い立った次の瞬間には勢いよく目を逸らし、そのまま幕舎の外へと飛び出した。


「失礼します!」

「あ、ちょっと⁉ まだ話は終わってな」


 白雷の言葉を聞き終わるよりも早く幕舎から離れる。

 心臓が早鐘を打っている。顔が熱い。というかあまりにも無防備が過ぎないか、あの上官は。

 うまやの前まで駆けていってようやく顔を覆う。指の隙間からは赤くなった頬が覗いていた。


「ああ、もう!」


 やはり昨晩のうちに説教をしておくべきだった。今更後悔しても遅いのだが、そう思わずにはいられない。

 幸い、白雷が追いかけてくる気配はない。下着姿で幕営地を歩くほど考えなしではないようで安心する反面、それなら話し終わるまで着替えくらい待ってほしかったと恨めしく思う。

 思わずその場にしゃがみ込んで唸っていた威遼のところへ、まだ寝ぼけ眼の徐福じょふくが重たそうに足を引きずりながらやってきた。


「あれぇ、将軍、どうかしましたか? なんか顔赤いですけど」

「なんでもない! お前はさっさと支度してこい!」

「ええー、いきなり理不尽」


 起きぬけに怒鳴られて耳を抑える副官に構う余裕もない。

 先ほどの光景は忘れろと自分に言い聞かせるのだが、ひと月前の経験上、そう簡単に忘れられるものでもないのはもうわかっている。


 今日一日、まともに仕事ができなくなったらどうしてくれる!


 そう嘆く威遼の顔はまだ真っ赤なままだった。

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