第4話 己が悪心を知る。

 それから数日の間、りょうはあの地獄を耐えぬいた。

 白雷はくらいは休憩のたびに、大量の書類を片付けていることを口実にして、威遼に対してちょっかいをかけてきた。最初はただ背中に乗ってくるだけだったのに、やがて耳元に顔を寄せてきて囁くようにまでなっている。

 そのたびに心臓は高鳴り、抑えなければならない欲求も顔を覗かせてくる。

 耳を塞ぎたくなる衝動に駆られつつも、それでは白雷の言葉を聞いていないということになってしまう。さすがに上司を相手にそんなこともできないので、必死に心を無にしてやり過ごした。

 そしてついに、その時が訪れた。

 最後の一枚となった書簡を仕上げるべく、威遼が執務机に向かったまま筆を動かしていると、白雷が背後からひょっこりと覗き込んできたのだ。

 白雷が近づいてきたことには気づいていたが反応する余裕はない。これが最後なのだ。これが終わればこの地獄から解放される、とそれだけを考えて手を動かす。集中を途切れさせてはならない。

 これで終わりだ。これが最後なのだ!

 気力を振り絞る威遼。しかし突然、その耳元に吐息を感じた。

 びくりとして思わず手を止める。

 吹きかけられる熱い呼気に、体が震える。


「お疲れ様でーす、威遼殿!」

「っ……お疲れ様、です」

「あとはこの書簡だけですね」

「そ、そうですが」

「じゃあ、話しかけても大丈夫ですよね。ね、お話しましょ?」


 かわいらしく。それはもうかわいらしく、ちょこんと両手をこちらの肩にのせて頬を寄せてくるはくらい尚書令しょうしょれい

 耳元で無邪気にかけられる声と鼻腔をくすぐる甘い香り。やわらかな肌がこちらの首筋にぴっとり触れる。

 ああもう限界だ。

 これ以上我慢できる気がしない。


「すみません。ちょっと気分が悪いので、医務室に行ってきます」

「え?」

「申し訳ありません。少し席を離れさせていただきますので、残りは部下に回してください」

「え? え? ちょっと、将軍⁉」


 戸惑いと制止の声を振り切って、威遼は部屋を出た。

 そのまま廊下を走り抜けて人気のないところへ向かう。途中ですれ違った部下たちが驚いた様子をしていたが、今はそれに構っている場合ではない。

 とにかく彼から離れようと廊下を急ぐ。兵部から別の部署へ続く渡り廊下へ差し掛かった時、向こう側から見知った顔がやってくるのが見えた。

 それは先日互いを励まし合った心の友、戸部こぶ長官のせいだった。


「どうされました、りょう殿」

せい殿……」


 張りつめていた糸が切れる。間違いない味方が現れたことに安堵した膝から力が抜け、思わずその場にがくりと跪いてしまった。

 慌てて駆け寄ってきた李正がその肩を支える。


「何があったのです。まさか、白雷様がなにか」

「いえ、ただ私が……申し訳ない、少し休ませてください……」

「それは構いませんが、ただならぬご様子ですよ」


 李正に支えられながら立ち上がった威遼の顔色は悪い。

 無理もない、あれだけの地獄に耐え抜いたのだ、むしろ今までよく保ったというべきだろう。絶賛されて然るべきとさえ思う。

 しかし、ふらつく足取りでそこから離れようとする二人の後ろから、たったっと軽い駆け足の音が聞こえた。

 二人の背筋が凍る。この足音には嫌でも覚えがあるのだ。

 あの『悪魔』がやってくる。

 聞き間違えるはずもないその音に、二人は揃って振り返り――そこにいた人物の姿を認めて絶句した。

 廊下の端からこちらの姿をみつけるやいなや、それは衣を翻して駆け寄り威遼の袖をつかむ。

 今にも泣き出しそうな表情をしている、二人よりずっと小柄な人物。

 それが誰であるかを理解した瞬間、二人とも声にならない悲鳴を上げた。


「なんで逃げるんですか⁉ ぼく、なにかしました⁉」


 うるうると目に涙をためて見上げてくる白雷を見て、二人は再び絶望的な状況に追い込まれたことを悟った。



***



 威遼と李正の二人がかりで宥めすかし、どうにか白雷を落ち着かせることに成功した頃にはすっかり日も暮れてしまっていた。

 その間も威遼は数度逃げ出そうとしたが、その度に白雷に袖を握られ、李正に首根っこを捕まれる。結局、最後まで逃亡を阻止されてしまった威遼は、なんとか残った精神力すら削られきってもはや思考能力の限界を感じている。

 尚書省の執務室で三人並んで座る中、威遼はひたすらに頭を抱えていた。


(なぜこうなるんだ)


 威遼は心の中で呟く。目の前では、まだぐずっている白雷に、李正が茶を差し出しながら当たり障りのない話をしている。

 李正の気遣いに感謝しながらも、目元を赤らめている白雷を見ていると気を落ち着かせることができない。子どものように目をこすり、それでも威遼の方を見るたびにしゅんとした顔をするのだから仕方がない。


「もう落ち着いたようですし、そろそろ威将軍を解放してあげませんか」

「やです」


 李正の提案に即座に返す白雷。その声に滲んでいるのは明らかな拒否だ。


「威遼将軍はお疲れなのです。今日くらいはゆっくりお休みになられたほうがいいでしょう」

「いやです」

「将軍のお気持ちを察することもできないようなら、あなたこそ尚書令失格ですよ」

「うぅ……だって、なんで逃げたのか、教えてくれないし……」


 白雷がいじけたように唇を尖らせる。

 それを見ていた威遼がついに口を開いた。

 この状態では仕事などできるわけもなく、さっさと終わらせたい一心で。


「遊ばれるのが迷惑だからです。その気もないのに思わせぶりな態度をとるのはおやめください。他人にもそんな態度をするのかと思ったら、それはもう心配で気が逸れてしまうのですよ。今回だって私が相手でなければどうなっていたか!」


 一息につげられた威遼の言葉に、白雷の動きが止まる。その顔が徐々に赤く染まっていく。

 その様子を見た威遼と李正は、まずいことを言ってしまったかもしれないと思いつつ、黙って成り行きを見守った。


「え? あー、えーと、そんなにわかりやすくしてましたかね……?」

「はい。少なくとも、我々にはそう見えました」

「うわぁ、恥ずかしい……」


 白雷が両手で顔を覆う。

 そしてそのまま俯いて動かなくなってしまった。


「うん、わかってます。その気もないのにふっかけて、ってことですよね」


 少し冷めた声が響く。人前で尚書令としての仕事を見せる、そんなときに彼が使う凛とした態度。

 それを目の当たりにして、威遼と李正は自然と息を呑む。

 ゆっくりと上げられた白雷の顔からは、先ほどまでの甘えた様子が消え去っていた。

 その瞳は鋭く、視線だけで人を射抜くことができそうなほど。

 さきほどの無邪気な姿とのあまりの落差に、背筋に冷たいものが奔った。

 しかし、それもほんの数瞬のこと。白雷はすぐにまたいつもの顔に戻って、困り眉で笑う。

 その笑顔を見て、威遼と李正は内心ほっと息をつく。

 やはりこの方には、あの幼い雰囲気のほうが似合っているのだ。


「いやーばれちゃいましたね。確かにこういうのを見抜くのは、威遼将軍の十八番おはこでした。残念残念」


 ころころと笑いながら言う白雷の様子からして、威遼の懸念はどうやら取り越し苦労だったらしい。

 それに安堵しながら、威遼も苦笑を浮かべる。


「まぁ、これでも一軍の将ですので」

「ああ、でも、半分はちゃんと本気ですよ?」

「は?」


 白雷の発した言葉の意味がわからず、威遼と李正は首を傾げる。

 すると、白雷はにこりと笑って、その小さな右手で威遼の左手を握った。

 ぎょっとする威遼をよそに、白雷はその手をぎゅっと握って自分の胸元まで引き寄せて、両手で包み込む。


「威遼殿は大切な部下ですから。ちゃんとぼくのことを理解して、こんなことをしたのに心配までしてくれて。だからちゃんと、貴方のことは好きなんですよ。それは嘘じゃありませんからね」


 白雷は握る力を僅かに強めた。

 穏やかな微笑みには、同じ国で、同じ主に仕える仲間を想う気持ちが溢れている。

 この人に信頼されていることは、素直に嬉しい。しかし同時に、叱責したいほど落胆する自分がいる。

 白雷は、威遼をひとりの人間としては見ていない。

 彼にとって、自分は王を守るために、そして戦うために使う道具だ。従順で、上司を気にかけるほど優しくて、本当に真摯な人物。

 そう映っているのが、彼にとって好感の持てる威遼という人間。

 そこにそれ以上の感情など、ない。


「だから、安心してください。これからもずっと、威将軍はぼくの自慢の部下ですから!」


 ぱあっと華やかに笑う白雷の高らかな宣言を前に、威遼はもう何も言えなかった。

 口を開けば感情のままにすべてを吐露してしまいそうだ。その気持ちを押し殺して、ただ、その胸に去来する思いを喉の奥で噛み潰す。

 いっそのこと憎らしさまで覚えた。その無垢な心に付け込んで、すべてを奪ってしまいたい。そんな仄暗い欲望さえ浮かんでくる始末。

 けれど、そんなことをすれば、きっとこの人は自分を許さない。

 それがわかるくらいには、長く傍にいる。

 だからせめて、自分はこの人が心の底から信頼できるような存在であり続けなければならない。


「ありがとうございます。私も、はく尚書令を心より尊敬しておりますよ」


 はじめてつくった心にもない笑顔と言葉は、我ながら上手くできたものだと思う。

 すべてを壊せるほどの度胸はない。

 けっきょく己は、ただの臆病者なのだ。

 ぼろぼろになってしまった自宅の壁を前にして、威遼はひとり思う。


 あの涙すら嘘だというのなら、己はなにを信じればいいのかと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る