第3話 何事も、そう上手くはいかないもので。

「はーいみなさーん、愛しの尚書令しょうしょれいさまの到着ですよー!」


 そう言いながら扉をくぐって入ってきた人物に、室内からワァッと歓声があがる。

 その声の大きさに驚いたのか、びくりと肩を上げて固まる姿はまるで小動物のようだった。


「あ、あれ? なんか今日はいつもより歓迎されてる? なんですかなんですか、みんなそんなにぼくに会いたかったんですか?」

「そりゃそうですよ!! 尚書令様はこの仕事の山を片付けてくださる天の使つかいですから!!」


 もはや全員が地にひれ伏す勢いで頭を下げる。

 それも仕方ないことだ。そもそもが軍人――いや武人などというものは、戦うことが仕事とやる気なのであって、それ以外のことは二の次どころか五の次なのだ。

 書類整理や事務処理なんてものは文官がやるべきことで、武官がやるものではない。

 そんな意識の輩だっている。だからこそ、本来ならばこの場にくるはずもない人物がやってきたことに、皆一様に驚きながらも野太い歓喜の雄たけびを上げていた。


「ええ、うん、まぁ、そういうわけでございまして。こんな者どもしかおりませんのが、我がへいでございます」

「あー。たしかにこれは、毎度兵部の報告が遅れる理由がわかりますねぇ」


 事務官の言葉に困ったように頬を掻いて、それから尚書令――天の御使いこと、白雷はくらいはぐるりと部屋を見渡した。

 積み重なった竹簡と薄紙書簡。机の上には大量の筆や硯、墨壺。片付けられてもいない、乾いた使用済みの茶器。

 そしてなによりも目を引くのは、部屋の隅に積み上げられた、まだ確認すら済んでいない物品と報告が入った木箱の山だった。


「うわ、すごいなこれ」


 執務に慣れている白雷でも思わず小さくそう零してしまうくらいに、ちょっと引くくらいの量がある。

 これを全部ひとりでやれと言われたらさすがの白雷でも目眩を覚える。それくらいに、目の前にあるのは膨大な量の資料だった。


「あのぉ、ひとつお聞きしたいのですけど、ここの皆さんは、これを毎日やってらっしゃる?」

「いえいえまさか! 私共も好きでこんなことをしているわけではないんですよ⁉」

「ではなぜ……?」

「うう……じつは、もともとほとんどの事務は、こう将軍の助手であるきょう殿がこなしてくれていたのです。しかしその、我々も手伝ってはいたのですが、さすがに限界が訪れまして。先日お倒れに」

「あー、なるほど。確かに姜里殿、しばらくお休みを頂くって連絡来てましたねえ」


 威遼と同じ五虎将軍のひとりこうの助手、きょう。彼は文官から武官に転身した珍しい経歴の持ち主だ。

 そのため五虎将軍も含めた同僚たちの中では、異様といっていいほどに事務雑務の捌き方が上手い。実際、白雷も威遼からよく彼の話を聞いていた。

 なんでも軍師としての才能もあるらしく、その采配ぶりはまさに神業のようだとかなんとか。


 ――ふむ、それは一度見てみたいものですねぇ。


 白雷ももちろん、彼がどんな人物なのか気になってはいる。しかし彼、姜里自身は白雷のことを嫌っているのか、何度か会ったことはあってもまともに会話をしてくれない。

 だから、こうして機会があればぜひとも会って話してみたかったのだが、思い返せば、少し前に休養すると連絡が入っていた。

 それゆえに威遼が寝不足に苛まれて目の下に隈を張り付けていたわけか、と納得する。


「それで、代わりの方を探していたのですが、これがなかなか見つからなくてですね。それで仕方なく、こうして我々が頑張っている次第でして」

「ああ、それで最近ぼくに仕事が回ってこないんですね。そもそも尚書省に上げる分すら終わってない、と」

「うう、返すお言葉もございません」


 申し訳なさそうに身を縮めて縮こまってしまう事務部官。

 その様子に、白雷は苦笑するしかない。


(まったく、威遼殿といい、この方々といい)


 威遼は真面目すぎるがゆえに抱え込みすぎてしまうところがあるが、彼らも根が近しいような気がする。

 人手が足りずに喘いでいるなら一声かけてくれていいのにな、と白雷は思う。

 まぁ、それでもこの量をひとりでやれと言われたら嫌なのだが。


「こういうのは適材適所ですからねぇ」


 自分は自分の得意な分野の仕事をすればいい。そう思って、白雷は肩をすくめた。


「まぁ、そういうことでしたら仕方ありません。尚書令たるこのぼくが、己の有能さをみなさんにお見せいたしましょう!」

「さすが尚書令様! 我ら一同、心より感謝いたします!!」


 感極まりながら泣きそうな顔で叫ぶ事務部の面々に、白雷は思わず引き攣った笑いを浮かべた。

 今日はただ威遼にちょっかいをかけるくらいのつもりでやってきたのに、これはそんな余裕もないかもしれない。


(いや、むしろこちらのほうが、やりがいがあって楽しいかもしれませんけど)


 なにせこの仕事の山、まだまだ減る気配すらないのだ。

 白雷がここに来る前に威遼が言ったとおり、おそらく明日以降もこんな調子が続くことだろう。それならば、たまにはこういうのを楽しむことも大切なのかもしれない。

 幸い、威遼オモチャは隣にいるのだし。

 騒いでいる自身の部下を前にして、顔から感情がはがれ落ち意気消沈している兵部長官。

 彼には悪いが、息抜きがてらに付き合ってもらおう。


(さぁ、まずはこの書類を片付けてしまいますか!)


「がんばりましょうね、威遼殿!」


 白雷はにっこりと笑って、竹簡の山に手を伸ばした。



***



 結局、威遼の地獄は予想以上のものだった。

 いや、仕事自体は極めて順調といっていいだろう。さすがは事務慣れした尚書省の長官。彼の指示には無駄も隙もなく、そしてタイミングが適切だった。

 おかげで本来自分がやるはずだった分も含め、あらかたの作業は通常の何倍という速度で捌かれ消えていく。

 ただ、それを補ってあまりあるくらいに、とにかく量が多い。

 そしてその量が、一向に減ったという実感がわかないのだ。

 それだけでも精神的につらいものがある。たいして疲労を感じないはずの鍛え上げた体でも、さすがに凝り固まって痛みを訴え始めているくらいだった。

 だがしかし、それをさらに上塗りする地獄が隣にいることが、なによりも威遼の精神を削ってしかたがない。


「威遼どの~、そちらの調子はいかがですかぁ~」


 のほほんと間延びした声とともに背中からぽふっと白雷が乗ってくる。

 その体重を受け止めながら、威遼は小さくため息をついた。


「まだまだ終わる気配がありませんな。尚書令殿のほうはいかがです」

「こっちもしばらくかかりますねぇ。さすがに疲れちゃったなあ」


 そう言いながらも、小さい頭をすりすりと寄せて、ううんと背筋を伸ばす運動。

 白雷の体が上下するたびに甘い香りが強く鼻腔をくすぐり、なんとも言えない気分になる。

 彼が男であると思っていたころはなんともなかったそれが、急に色めいたものに感じてしまうのだ。

 それと同時に、白雷が自分に向けているものに頭痛を覚える。


(遊ぶにしても、もう少し、気を付けたほうがいいのでは)


 今だって、無防備に体を預けてきている。

 もし、これが自分以外の誰かであったとしても、彼は同じようにやってきたのではないだろうか。誑かす、といっては言い方が悪いものの、自分にそういう気を向けるかもしれない……いや、明らかにそういう気を向けさせるために行っていることはわかっているのだが、それでも。


 ――それは、あまりにも、よろしくない。


 威遼は無意識のうちに眉間に深いしわを寄せた。

 狙いはどうであれ、今のこの状況は威遼にとって非常に悪い。

 白雷が誰彼構わずこういうことをしていることに苛立ちを覚えてしまっている。

 まるで、嫉妬ではないか。

 そんな自分の感情に、威遼はさらに苛立つ。

 白雷はただの同僚――仕事の上司でしかない。

 少なくとも威遼自身はそう思っていた。そのはずだった。

 だが、その一方で、白雷がほかの同僚とは大きく違うことを知ってしまったのもまた事実。

 だから余計にこの現状が腹立たしくて仕方がない。白雷がどういうつもりなのかはわからないが、この状態ではあまりに危険すぎる。


「尚書令、そろそろ離れたほうがよろしいかと」

「えー、どうしてです?」

「どうしてもこうしてもありません。仕事中なのですから、お休みはほどほどに」

「相変わらず威遼殿はお堅いですねぇ。仕事というのは、適度な息抜きがあるからこそ捗るものですよう」

「いいや、これは適度な息抜きとは呼べませんな。さぁ、離れてください。でなければ」


 ――あなたをこのまま押し倒してしまいそうですから。


 そう言ってしまいそうになった言葉を、威遼は寸前で飲み込んだ。

 いくらなんでもそれは駄目だと理性が告げる。さすがにそれは愚かさがすぎる。

 白雷がどんな意図を持っているのかは不明だが、ここは職場なのだ。

 しかも、相手は尚書令。直属の上官であることには変わりはない。

 ここでそんな真似をしてしまえば、確実に自分の評価は下がる。下がるどころか真っ逆さまに地まで落ちて、二度と上がることはないだろう。

 そんなことでここまで培ってきた部下たちの信頼を失いたくなどなかった。

 それに、彼との関係も、悪くなりたくないのだ。


「でなければ、何です?」


 いたずらっぽい笑いを含んだ声が背後から聞こえる。

 白雷はきっとこちらの葛藤を見透かしている。

 ならばなぜこんなにも煽るような行動をとるのか。

 既にこちらの気持ちを知っていて、わざとやっているのなら、本当に質が悪い。

 いや、おそらくそうではない。

 彼の性格を考えればわかることだ。おそらく白雷は、何も知らなかったとしても、こうしてすべて見通しているように振舞うことができる。そうして相手の反応を見て、相手が自分に向けている感情を推し量るのだ。

 目の前にいる人物が、その立場に相応しいか。麗しい容姿の上司に思わせぶりな態度を取られていたとしても、惑わされることなく職務を遂行できるのか。

 彼はそうやって人をる。白雷はそういう人間なのだ。

 そして、その性質を知っているはずの自分が、いまだに白雷に対して明確な感情を抱いてしまっていることが、なにより恐ろしい。


「何でもありませんよ。とにかく、もうしばらくは離れていてください」

「ふふっ、わかりました」


 くすくすと笑う白雷の声が耳元をくすぐる。


「将軍がその気になられたらいつでもどうぞ?」

「なりません」

「おや、手厳しい」


 肩をすくめてみせる白雷を背中に乗せたまま、威遼は書類へと向き合う。

 白雷はそれ以上何かを言うことなく、黙って背中から離れていった。

 そのことに安堵しつつ、同時にどこか寂しさを感じていることに気づいてしまい、威遼は思わず舌打ちしたくなる。

 だが、それもあと少しの辛抱だ。

 さすがの白雷も、この量の書類を今日中にすべて処理しきることは不可能。尚書令としての仕事もこなさなければならない以上、そのうちに嫌でも解放されるはず。

 それまでの我慢だ。

 自分に言い聞かせながら筆を走らせる。白雷のことはなるべく考えないようにしながら、ひたすらに書類へ目を通し、訂正部分を指示し、問題がないものには印を押していく。

 だがしかし、一度意識してしまうとなかなか頭から白雷のことが離れない。

 甘い香りが鼻腔を満たし、時折聞こえてくる吐息が鼓膜を震わせる。気になってつい振り返りそうになる自分を叱咤する。

 だめだ、今は仕事に集中しなければ。

 そう思いながらも、視線は自然と浮いて、白雷の姿を追ってしまう。

 さらりと揺れる黒髪。華奢で細い体の線。長いまつげに縁どられた美しい瞳。白い手首。そして、柔らかそうな、唇――。

 そこで威遼は慌てて頭を振った。

 何を考えているんだ自分は。仕事中だというのに。

 集中しなければ。

 そう思っても、どうしても視界の端にちらつく白雷の肌に思考を奪われてしまう。

 落ち着け。落ち着いてくれ。

 頼むから冷静さを取り戻してくれ、己の理性。

 だが、そう念じれば念じる程に、逆に白雷の姿をまじまじと見つめてしまっていることに気づく。


「威遼殿?」

「は、はい⁉」


 不意に名前を呼ばれて我に返ると、白雷が不思議そうに見上げてきていることに気づいた。


「なにかわからないところでもあります? その書類、代わりましょうか?」

「い、いえ! 大丈夫、だいじょうぶ、です」

「そうですか?」

「ええ、ええ、まったく問題ありません」

「それはよかった」


 ほっとした様子で微笑む白雷から、今度は目が離せなくなる。

 艶やかな唇に、また吸い寄せられてしまいそうだ。


「あ、そうだ。威遼殿」

「はい」

「大丈夫だと思っても、やっぱり難しいようなら、いつでも頼ってくれていいんですからね」

「……はい」

「ぼくはこういうのには慣れてますから。それに、曲がりなりにも上司ですし」

「ありがとうございます……」

「だから、遠慮せずに言ってくださいね!」


 にこっと笑いかけられて、胸の奥がぐっと痛くなった。

 この人は、どこまでが本心なのだろうか。

 どこまでが誑かしで、どこまでが嘘偽りない、仲間としての好意なのか。

 それがわからない以上、素直に笑うことができない。

 だからこそこの立場がつらい。目の前のそれが、彼の与える試練であると知っている。

 これからしばらくの間、こんな地獄に耐えなければならないのだ。

 威遼は小さく自嘲し、濁った色をおびていく自分の感情を眺めながら、再び筆を握った。


 

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