第2話 自覚はあり、覚悟はない。
結局、昨晩は一睡もできなかった。
寝不足で痛む頭を片手で押さえつつ、
三省の下に就く六部のうち、軍務を司る
だからこそこうして、昨晩の麗人と顔を合わせることになるとわかっていても、逃げることなく出席しているのだ。
昨日までに決定した事案の報告、経過状況の確認、新たに草起された案件のうち現在決まっている部分と今後それを進めていく部署の説明、そのほかは各自気になる点を挙げたり質問の応答。
ここ数年は諸外国との戦も国内の乱れもないから、兵部に関わる情報はほとんどない。あるとすれば王宮内の見回り箇所の変更だとか、演習場所に使う地区の手入れ状況だとか、その程度のものだ。
質問応答が始まればあとは会議が終わるのを待つだけ。しばらく繋げていた緊張の糸をほどきながら息をつく。
そのさなか、ふと視線を感じて顔をあげた。
そして思わずぎょっと目を見開く。
そこにはまじまじとこちらを見ている昨晩の不眠の原因、
とても、のぞき込まれている。
とても、近い。
「なにか」
「うーん、いえ……もしかして寝不足です? お疲れなご様子?」
「いえ、そんなことは」
「でも目の下の隈がすごいですよ。あ、そういえばこの間の件、まだ処理が終わってなかったか。今日は手が空きそうなので、ぼくが手伝ってあげますね!」
「え、いや、それは」
「遠慮しないでください。体調が優れないときは他人に頼ることも必要です。それにほら、ぼくはあなたの上司ですし! ここは部下思いな上司に甘えちゃっていいんですよ!」
ずいっと身を乗り出して人懐こい笑顔を向けられてしまえば、もうそれ以上反論する言葉が見つからない。
確かに、ここ数日は仕事の忙しさもあって寝る間を削っていた自覚がある。だからああして気の休まる小川に水を浴びに行ったのだし。
とはいえ、昨日徹夜をした理由は暑さで寝付けなかったこと――つまり目の前の麗人の裸を見てしまったことを思い返していたせいなのだが、当然そんなことを口にできるはずはない。
どうしたものかと思案する。
白雷は老若男女相手を問わず気さくな雰囲気で接すうえ、上下関係にもさほど厳しくはないから、一緒にいて気を揉むような人物ではない。むしろ自分を含め、たいていの軍人というものは、体を動かす仕事ならまだしも事務など不得手中の不得手である。毎日ひいひい言いながら見まわりの報告書を作成している部下たちからすれば、事務官中の事務官であるかの尚書令殿に手伝っていただけるのであれば、それは諸手を挙げて喜ぶことだろう。
しかし、しかしである。
残念ながら、自分は昨日のなにも知らなかった自分とは違うのだ。
白雷の正体が男装の麗人であるという事実を知っている。それはすなわち、目の前にいるこの男が、実は性別を隠している女なのだということを、知っているということなのだ。
昨日までは気楽に接していられた人物が、今日にはもっとも気を張る相手になってしまった。
それを思うと、どうしても白雷の顔を見ることができない。
視線を合わせられずに俯いていると、不意に白雷が近づいてきた。
驚いてとっさに身を引こうとするが、それを腕を掴むことで止められてしまう。なにをするかと身構えれば、彼――便宜上こう称することにする――は威遼の前髪をぺいっとめくりあげて自分の小さい額を押し付けた。
自分より少し温度が低い額。それを自覚すると同時に、かあっと今まで以上の熱が頭に昇ってくる。
「んー、やっぱりちょっと熱があるような? 連日暑かったし、いくら健康優良な威将軍でも、さすがに汗冷えしましたかね?」
「…………」
もはや言葉も出てこない。
昨夜の一件があってから、威遼はずっと白雷を意識してしまっていた。なにしろ昨夜目撃してしまったあの白い肌が、瞼の裏をちらついて仕方がないのだ。だから今だって、こうして間近で見ると、やはりどこか女性的な面影を感じる。
男にしては細い首筋。小さな頭。薄い肩。丸い輪郭。形の良い唇。そしてなによりも、触れた額はやはり柔らかくて白かった。
――ああ、くそ、俺は何を考えているんだ。
頭の中で己を叱責しながら、それでも目を逸らすことができない。
そんな威遼の葛藤を知ってか知らずか――いや、知るはずはないのだが――白雷は「うーん」と顎を撫でながら離れていった。
ほっと息をついて視線をあげれば、綺麗なかんばせをほころばせてこちらを見つめてくる白雷の瞳と目が合う。
「なんでしょう」
「いえ、べつにぃ」
「……」
「……」
「まだ何か用でも?」
「いえ、特に何もありませんけど?」
にっこり、笑う。
威遼はぐっと言葉を詰まらせた。
遊ばれている。
これは絶対、こちらの反応をみて遊んでいる。
もともと尚書令などという立場にいるのだから、彼はたいへん
こうしてつかず離れず、子どもの手遊び感覚で他人を手玉に取ろうとする小悪魔的なところがあって、そうした彼に
だからこれも、おそらくは自分の反応を見て楽しんでいるのだろう。
ならばいっそこちらも乗ってやるべきか?
否、それはあまりに愚かしい行為である。
――ここはひとつ、冷静になって考えようではないか。
そうだ、よく考えてみれば、そもそもなぜ自分がこれほどまで動揺しなければならないのか。
確かに白雷は男ではなく女である。それはもう紛れもない事実であり、そのことに気付いてしまった以上、彼の正体が男であろうと女であろうと関係はない。
そう、問題なのは彼が女だということであって、男ではないという一点のみなのだ。
ならば、どうする? そう、答えは簡単。
昨夜の出来事はきれいさっぱり忘れて、変わらぬ態度で接すればいい。
……ここまで考えた威遼は、己の思考が正常性を失っていることに気づけていない。明らかに思考が混乱しているのだが、ぐるぐると回っているそれを一つずつ解いていけるほど、いまの彼は冷静になれないのだ。
「あ、会議終わった。じゃあ、ぼくは先に失礼しますね。あとで
「あ、ああ、お疲れさまでし、た」
結局、白雷は威遼を
一人取り残された威遼は、先ほどまでの自分の言動を思い返して冷や汗をかく。
――まずい。これはまずい。
威遼は頭を抱えた。
完全に調子が狂っている。いつもならもっと上手く対処できるはずなのに。
これではいけない。このままだと、本当にまずいことになる。
忘れろ。
昨夜の記憶を消し、昨日までの自分に戻れ。
そうしなければ、きっと自分は――
(きっと、なんだ?)
思わず首を傾げる。
自分は一体、どうなってしまうのだ。
ふと浮かんだ疑問に、しかし答える者は誰もいない。
この日、威遼は生まれて初めて、己の中に芽生えた感情に戸惑い、恐れ、そして狼惑した。
しかし、それは誰にも知られることなく、ただひっそりと、やはり頭を抱えるしかなかったのである。
「威遼殿、そんな難しいお顔をして、どうなされたのです」
「む……これは、
朝議を終えても立ち上がらない威遼を見かねたのか、同じ尚書省下六部のひとつ
年の頃は三十後半くらいの男だ。切れ長の瞳は涼しげで、冠をつけているものの、それ以外の飾り気がない黒髪は後ろでひとつに束ねただけである。長身でそれなりに整った顔つきではあるのだが、彼はどこか冷たい印象を受けるためにその真面目さ以外に人気という人気はない。
それはおそらく、彼の仕事のせいでもある。常に冷静沈着で物事に対して動じず、財務を司るがゆえに彼は普段から横領や着服につねに目を配らなければならない。それが表情に出てしまうのだろう。
だが威遼にとっては、そんな彼も信頼できる同僚のひとりであった。
威遼は迷ったが、己の悩みを(もちろん白雷の秘密の件はふせて)すこしばかり相談してみることにした。
こんなことを他人に相談するのはどうなのだろうかという気持ちもあるにはあったが、自分一人で抱えるには大きすぎる問題でもあるのだ。相手が李正であれば他者に言いふらされる心配もないだろう。
そういう律儀さと真面目さは、本当に尊敬に値する人物だった。
「どうにも、尚書令殿に遊ばれているようでして」
「なるほど」
素直に話すと、李正はやはり眉一つ動かすこともなく、小さく相槌を打った。
そしてそのまま、少し考えるような仕草をしてみせる。
威遼はその反応をじっと見つめた。
何か思うところがあるのか、それともまったく興味が無いのか。
彼の場合は前者だろう。興味が無くても自身に告げられた相談を無下にするような人物ではない。
しばしの沈黙のあと、やがて彼は口を開いた。
しかしその口から発せられた言葉は、威遼の予想を大きく裏切るものだった。
「それは、いけませんね。早急に手を打つべきかと」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
目を丸くする威遼に対し、李正は至極真剣な面持ちのまま続ける。
「ご存知のとおり、たいへん好奇心の強いお方ですから。目をつけられてしまっては逃れられますまい。我が戸部でも何名か、あの方に目をつけられて枕を濡らしたものがおりますので」
「ああ、そちらもでしたか」
どこの世界でも同じらしい。あれほど美貌を持っていれば、同じ男だとわかっていても気を惹かれる者は多いのだ。
――いや、まて。ちょっと待て。いま、なんと言った?
納得しかけていた威遼は己の耳を疑った。
いま、李正は確かこう言ったはずだ。
我が戸部でも何名か、あの方に目をつけられて枕を濡らしたものがおりますので。
まさか、尚書令殿。
あの男、いやあの女、もしや。
「……尚書令殿は、つまりその……」
恐るおそると尋ねる威遼に、李正は大きくうなずく。
「おそらくは、そういった情に惑わされない者を、という試練のつもりなのでしょうけれども。気をかけては落とし、弄んで袖を振る。そういうことは一度や二度ではありません」
「爛漫に振舞っているだけで一方的に部下に惚れられていた、というわけではなかったのか」
「ええ。間違いなくあれは、わかっていてやっていますね」
どこか遠いところをみながら息をつく李正。
その表情があまりにも憂いを帯びていて、威遼は思わず同情してしまった。
ああ、わかる。その気持ちは痛いほどわかる。
せっかく引き入れて育てた優秀な部下を堕落させられて、すげなく振って田舎に帰らせる。ただでさえ足りない人手を奪われ、それでも黙って見過ごさなければならないというのは、部下としては辛いものがある。
しかもそれを平然とやられるとなれば、なおさらだ。
「私も、昨夜のうちになんとかしておくべきだったか」
「いえ、それはお気になさらず。尚書令殿はあくまでそう振舞ってくるだけの話でお心を向けることはありませんから、それを理解していればよいでしょう。いずれは飽きて次の
だがそれも仕方がないのかもしれない。
李正はきっと、これまで何度も苦渋を味合わされてきたのだ
そのたびにこうして耐え、諦め、そしてまた新しい犠牲者が生まれるのを遠巻きに見続けるしかなかった。
「苦労しているのだな、貴公は」
「……ありがとうございます」
互いにしみじみと言い合う。
そこには、同じ苦しみを知るもの同士にしかわからない共感があった。
「だが、そうなれば私はどうすればいいのだろうな。このままでは仕事に差し支えるのだが」
「手を打つべき、とは言いましたが、いっそこのまま放置してみてはいかがでしょう。どちらにしろ貴方は事情をご存知なのですから、惑わされることもないでしょうし……もしかしたら、それで何か変わるやも」
いや、変わってほしい。
そう言外に含ませる李正に思わず苦笑する。
確かに、それが一番良いのだろうとは思う。
だが――
できるか、俺に。
どう考えても耐えられる未来が見えない。
ただでさえ白雷に対して独りで抱え込めないものを持っているのに、わざとだとわかっているとはいえ意味ありげな態度を取られては、いくら沈着冷静・生真面目・堅物と三拍子鳴らされる威遼であってもさすがに揺らいでしまうのは目に見えている。
それこそ、いまの李正のように。
「……とりあえず、様子だけは見てみようと思う。何かあったら相談に乗ってもらえるだろうか?」
「ええ、もちろんです。いつでも。酒の席を設けても構いませんよ」
李正は快く頷いた。
その言葉にほっとして、威遼もまた頷き返す。
とりあえずはひと段落。李正という味方も増えたことで、わずかではあるが心に余裕が生まれた。
一番重要なことはさすがに相談できないが、こうして話せる相手がいるのは本当に助かるものだ。
李正と別れ会議の部屋を出る。
白雷はこちらの仕事を手伝うために、そう時間も経たないうちに兵部へやってくることだろう。
――とりあえずは、それを乗り切らねば。
腹に決まり切れない覚悟を収めて、威遼は自身の職場へと戻っていくのだった。
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