一章 禁忌を知るもの

第5話 序の口を知る。

 その日から、りょうの平穏は戻ってきた。

 溜まっていた書類は片付き、事務の要である姜里も休養からも復帰した。兵部で事務仕事の指示を行える人物の復帰は本当に頼もしく、彼が帰ってきたこともあって武人たちは各々の訓練や新人教育に精を出し始めた。

 はくらいも本来の仕事、尚書省しょうしょしょうでの執務に当たっている。息抜きと言ってときたま会いに来ることはあったが、あの数日間のようにこちらをおちょくってくるような接し方はしなかった。


(まぁ、あれだけ言ったのだ。しばらくはおとなしいはず)


 そう自分に言い聞かせつつ、それでもどこか寂しさを覚えてしまうのは仕方がない。

 白雷が自分を好いてくれているのは間違いないだろうが、それはあくまで上司としてであって、色恋の話ではない。

 その証拠に彼の態度はまったく変わらなかった。むしろ罪悪感でもあるのか、以前よりは距離を感じるほどだ。

 しかし、それならそれで、わずかな寂しさを抑え込めばいい。新人たちの指導にいっそうの熱を入れながら、威遼は日々を過ごしていた。

 そんなある日のこと。

 いつもどおりの日常の中、ふと気づけば、いつの間に来ていたのか兵部の訓練場の端に、かの尚書令の姿があった。

 それほど離れていたわけではないのに、その顔を見るのはずいぶん久しいような気がする。彼は小さな頭をきょろきょろと振りながら周囲を見渡していた。

 なにを探しているのかと声をかければ、彼はぱっと顔を輝かせて振り返り、こちらへ走り寄ってくる。


「威遼殿、お疲れ様です!」

「お疲れさまでございます。そちらはお変わりありませんか」

「はい、おかげさまで」


 白雷は朗らかに笑い、しかしその後なにかを思い出したようではっと顔を上げ、背を伸ばして威遼へ向き直った。


「そうそう、貴方を探していたんですよ。実は丞相府から呼び出しがありまして。貴方と二人で参じるようにと」

「自分と、ですか?」


 意外な言葉に目を瞬かせる威遼に白雷は頷く。

 尚書省ではなく、そのさらに上の丞相府から呼び出しとは、いったいなんの用だろうか。最近はとくに目立った功績も上げていないはずだが。

 首を捻るばかりの威遼に、白雷は少し困ったように眉を下げて、いちど周囲を確認してからちょいちょいと屈むように促すと、そっと耳打ちをする。


「勅命があるそうなんです。どういう意味での呼び出しかはまだわかりませんが、一応」


 白雷の言葉の意味を理解できず、威遼は一瞬硬直する。

 だがすぐに理解すると、一気に頭に嫌な考えが浮かんだ。

 まさか、またなにか内乱が起きたのか?

 あるいは隣国からの侵攻か?

 直属上司の白雷がこうしてわざわざ呼びに来たということは、もしそうでないにしても、とにかく急ぐ必要があるということだろう。

 威遼はすぐに部下たちへ待機の指示を送り、白雷と共に兵部を後にした。

 向かった先は尚書省ではなく、その逆の方向、王城の手前に位置する門の周囲を囲むように設置された大型の建物――国の重要な政務を行う丞相府だ。

 この国で、政の根幹を成す丞相府に立ち入ることが許されるのは、王城勤めの高官を除けば、白雷ら三省長官と兵を指揮する五虎将軍、そしてかつての王に連なる血筋をもった王侯貴族のみである。

 白雷に続いて威遼が中に入ると、そこにはすでに人が集まっていた。

 その面々を見て、威遼は思わず立ち止まる。

 そこには、五虎将軍全員が揃っていた。

 威遼を除く四人は、通常王都で暮らしているわけではない。各々が東西南北の砦に駐在し、有事の際は軍を率いて出動する立場にある。

 つまり、本来であればここにいるはずのない者たちまでが呼び集められている。

 なぜ彼らが、という疑問は、彼らの前に立っている人物の顔を見た瞬間に氷解した。


「あぁ、来たね。待ってたよ、威遼将軍長殿」


 こちらに気づいたその人物が、手を上げてひらりと振ってくる。

 既に色褪せた白灰の髪を後ろに撫でつけた老年の男。枯れ木のように細い身体に、顔には深いしわが刻まれている。

 この国で皇帝に次ぐ権力をもつとされる人物、りゅうぜんである。

 二人の丞相が置かれる前、その役割をひとりで担っていた相国。丞相府が置かれるようになってからも、その責任者の席として名誉職である宰相の座に座っている男。

 威遼はその男の前まで進み出て膝をつく。

 続いて白雷も、他の将軍たちもそれに準じて全員が跪いた。


「ああ、そんなにかしこまらなくて結構。みな急に呼び出してすまなかったね」


 言って、劉全は鷹揚おうように手を振る。本来ならば彼よりも先にこちらが挨拶をするべきなのだが、驚きのあまりほとんどの面々はそれすら出てこないほどに頭が真っ白になっていた。

 それに気づいているのか、ひとり顔を上げた白雷が代表のように声を上げる。


「これはいったいどういうことでしょうか。私はてっきり、先日の反乱に関することかとばかり思っていたのですが」

「ああ、反乱」


 白雷の言葉に劉全は眉を下げ、悲しげに俯いた。


「ああそうか、君たちは知らなかったんだ。実はね、あの反乱はもう収まってしまっているんだ」

「それはどういう」

「うん。それも踏まえてきみたちに伝えないといけないことがあってね。なにぶん急を要することだから、ほかの将軍たちにもご足労かけたわけだよ」


 劉全は皆に顔を上げるように促して、手に持っていた巻布を広げた。

 それは急ぎの件がある際に軍人たちが使用する連絡手段の一つで、自分たちの帯や服の一部を裂いてそこに報せを書いたものである。

 見慣れているはずのそれを目にした途端、威遼は自分の胸がざわつくのを感じた。

 巻物に書かれた文字は、遠目からみてもわかるほど自分の見知った筆跡だった。北部の砦に置いている、とある部下のものだ。

 しかしそれは、ただの墨の筆跡ではない。

 色は、黒かった。けれどもその色を、何度も見たことがある。

 あれは、空気にふれ、日に晒された、血の色だ。


「っ⁉」


 思わず隣にいた五虎将軍、北の砦を守っていたはずの人物へ目をやる。

 将軍というにはすこし細く、威遼よりもいくぶんも若い男だ。五人の将軍の中でも最も勇敢で恐れ知らずと称されていた彼は、いまや硬く口を引き結び、その端が切れるほど強く唇を噛んでいた。


「なにがあった」


 彼はそれに答えることができなかった。

 北の守衛を任されていた将軍は、名をりくたんといった。

 陸家という歴史の古い名家の出身で、幼いころから武官だった父に連れられて兵部で戦いのすべを学び、成長してきた男だ。

 しかし真っ青になったその顔は、最後に北の砦へ向かう際に見送ったものとは大きく変わっている。やつれ、頬がこけて、目元が落ち窪み、なにより身に纏う雰囲気がまるで違う。

 以前は小柄で穏やかながらも頼りがいのある凛々しい青年であったが、いま彼の視線は地に落ちて揺らいでいる。何かを見ているというよりは、なにも見えていないような、そんな瞳をしていた。

 その変わり果てた姿に、威遼の背筋を冷たいものが伝った。

 その可能性に行き当たった瞬間、威遼の頭の中にそれが浮かび上がる。

 陸淡は間違いなく憔悴している。いや、憔悴という言葉では生ぬるい。

 もはや、狂いかけている、といっても過言ではないように思えた。

 全身から冷や汗が吹き出てくる。威遼と同じ思いを抱いた残りの三人も、あからさまな動揺が顔に浮かんでいた。

 そんな将軍たちを見て、劉全はひとつ大きく息を吸い、安心させるような優しい声色で続けた。


「その子を責めないでやっておくれ。彼が悪いわけではないんだ。むしろ、よく生き残って帰ってきてくれたと褒めてやってほしい」


 劉全は静かに告げる。その言葉と同時に、耐えきれなくなった涙が陸淡の瞳からこぼれていくのが見えた。

 これまで見たことのなかった彼の涙が、ぽたりぽたりと石の床に染みを広げる。陸淡はその場にくずおれるようにして身を伏せると、嗚咽と共に謝罪の声を上げた。


「ああ、ああ! 申し訳ありません、閣下! すべては私の責任です!」


 薄茶色の髪を振り乱し石床に頭を打ち付けるそのさまは、痛ましいというよりも異様であった。

 普段の穏やかで冷静な彼に似合わず、取り憑かれたように泣き叫ぶ。

 その姿を、劉全は悲しげに見下ろして首を振った。


 この子はもう、長くはない。


 小さく呟かれたその言葉に威遼は目の前が塗りつぶされる思いだった。

 あの陸淡の、気が振れてしまった。それほどまでにいったい何があったのか。

 なにが起これば、戦いの最前線である北砦を守る将軍がこんなことになるというのか。

 その疑問は、他の将軍たちも同じだった。


「彼に、なにがあったというのです」


 鐘を打ったような澄んだ声が問う。

 それを発したのは西砦の守衛を任されている将、ばんれいだ。白妙の髪と眉目秀麗な容姿からは想像できないほどに、戦に出れば苛烈で鬼神の如き活躍を見せる彼は、陸淡が新人のころから教育を任されて彼をここまで育て上げた、いわば師のような存在でもある。

 同じ将軍位であっても、陸淡のことをもっともよく知っており、理解していたのは万禮だった。

 万禮は彼の異様な豹変ぶりに顔を強張らせながらも、なんとか彼の身体を起こして抱きしめている。


「あの気丈な男がこれほどまでに取り乱すなど、我には想像だにできません。いったい、あの砦になにがあったのですか」


 震える声で問い続けるその肩を、劉全は優しく叩いた。

 そして、その大きな手をそっと万禮の手に重ね、ゆっくりと口を開いた。

 その口から語られた事実は、あまりに凄惨なものだった。


「さっき、反乱は既に収まったといったね。じつを言えば、それは収まったのではなく、消えたというのが正しいんだ」

「どういう意味でしょう」

「ああ、私も聞いたときは信じられなかったよ。もともと小さな反乱と言われていてね。いつものように数日あれば、陸将軍ならば鎮圧できるだろうと思っていた。だから報せが届いたときは、てっきりそういう報告だと思い込んでいたんだ」


 しかし、その報せはたしかに陸淡からのものであったが、予想とは全く違っていた。

 劉全は沈鬱な面持ちでその全容を語る。


 ――事の始まりは、ある噂だった。


 北の国境付近に、突如として現れた謎の集団がいるというものだ。

 はじめは、単なる農民の反乱か、もしくは山賊が砦を狙ったか。その程度のものだと考えられていた。

 実際に、不毛の地が多い北砦付近では、税を苦にした農民との小競り合い程度であれば日常茶飯事だ。さすがに農民たちを本気で害するわけにはいかないから、てきとうに相手をして追い払うのが常だった。

 しかし、今回はどうにもおかしい。

 砦に近づいてくるその姿は、普段異を唱えて苦を訴えてくる農民たちとは違った。

 なぜなら、彼らは武装すらしていなかったからだ。

 いくら武器をもたない農民たちとはいえ、兵士に逆らおうとするならくわやらすきやらを手にしてやってくるものだ。

 しかしそれらはただ両手をぶら下げて、左右にゆらゆらと揺れながら歩いてくるだけだった。

 その数は見渡す限りを覆うほど膨大で、しかも砦に近づくにつれてどんどん増えていったのだという。

 およそ五千。

 到底、一地方の農民たちの規模ではない。

 なによりも奇妙なのは、彼らの姿形が全く異なっていることだった。

 まず、肌が黒かった。それも日に焼けた色ではない。土気色をさらに濃くして、闇を塗りこんだような、そんな色だった。

 次に、その瞳の色。

 全員が全員、まったく同じ瞳をしていたのだという。

 まるで、ひとつのまなこから、いくつもの眼球が生まれ出たかのような、不気味な瞳孔を湛えた眼を。

 それを見たとき、誰もが背筋に冷たいものが走った。

 明らかに、尋常な人間ではなかった。そして、彼らを率いているのは、まだ年端もいかぬ少女だったという。

 彼女は黒い髪を地に引きずるまで垂らしていた。そして、血のような真っ赤な唇に笑みを浮かべて、こう言ったそうだ。


 ――我はせんなり。天に染められぬ、よこしまなるせんなり。汝らの身魂みたま、我が糧となりて、永劫えいごうの苦に招こうぞ。


 ――この日を、待っていた。


 そう言って、彼女は子どものように無邪気に、声を上げて笑ったのだ。

 それが合図だったかのように、突然、大地が鳴動した。

 地面が割れるような音と共に、砦全体が激しく揺さぶられ、立っていられないほどの激震が襲った。

 そしてそのわずかな間に、人ならざる者たちが、砦を埋め尽くした。

 あとは阿鼻叫喚だった。

 腕を千切られ、足を折られ、喉をつぶされ、耳をそがれ、目を抉られ、口を裂かれ――人の形を保たぬまでに弄ばれていく兵士たち。

 老いも若きも区別なく、彼らは命を奪われていった。

 やがて砦全体が赤く染まる頃には、もはや抵抗するものもいなくなった。

 生き残ったのは、陸淡をはじめとするわずかな数の将兵だけ。それらを前にして、黒髪の少女はにんまりと笑む。


『おまえたちは、生きたいか?』


 その問いに、陸淡以外の者は誰も答えられなかった。

 なにが起きたのか、なぜこんなことになってしまったのか、それを理解できるだけの余裕がなかったのだ。

 しかし、陸淡は、答えてしまった。

 半ば反射的なものだったように思える。誰に告げるわけでもない、小さなつぶやきのように、彼はそれを口にしてしまった。


『わたしは、生きたい』


 その言葉を聞いた途端、少女は目を細めて、再び笑った。

 そして、その手を振り上げて――――。


「それで、気がついたときには、すでにあの有様だった。なにもかも、人の肉だけを残して、それらはすべて消えた」


 劉全は静かに語り終えると、大きく息をついた。

 万禮は話を聞きながらも、今も震える手で陸淡を抱きしめ続けている。


「まさか」


 それまで沈黙を守っていた南砦の将軍であるえいが、ふと口を開いた。


「もしや、その娘とは」

「ああ。呉将軍であればご存知かもしれないな」


 劉全は小さく首肯する。

 その言葉に、次に答えたのは呉栄ではなく白雷のほうだった。


「始祖王の時代に北へ封じられた尸解しかいせんせいでしょうね。仙術を用いて人を不死身にするという、伝説の仙人です」


 呉栄は眉間に深いシワを寄せて、しばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと顔を上げた。


「つまり、あれか。北の地に潜んでいた邪仙によって、ワシらの部下は皆殺しにされたというわけか?」

「ええ。間違いなく。いえ、むしろ、それだけならよかった、と言ったほうがいいくらいで」


 白雷の言葉にぴくりと将軍たちが反応する。

 劉全も苦虫を噛み潰したような表情で、重い口を開けた。


「やつの問いに答えてはいけなかったんだ。陸淡……あの子はもう長くない。しかしそれは人としての、尊厳ある死ではない」

「始祖王の伝承には、こうあります。『靑娥の問いに答えた者はすべて、身体を不死に変えられた。魂は喰われ、その身の四肢が腐ってもなお、靑娥の傀儡として動くものへと堕とされた。故に、決してその問いに答えるなかれ。たとえそれが、自らの生命の選択であったとしても』」


 淀みなく述べられる白雷の説明に万禮が声を上げる。


「しかし、伝承はただの伝承です。それに、なぜ今になって、封じられていたものが復活したというのですか」

「それはまだわかりません。ですが、この世界には妖が存在していることなど、万禮将軍もご存じのはず。邪仙靑娥はその上位に位置するものといっていい。妖がいる以上、過去の伝承もあり得ないとは言えないのです」

「おそらくは、真実だったのだろうな。だから我々は、あの子に死の安寧すらも与えてやることができなんだ」


 劉全は悔恨を滲ませながら、拳を強く握りしめていた。

 万禮の腕の中で陸淡は弱々しく呼吸を繰り返す。もう誰に言うわけでもない謝罪を繰り返す彼を、救う手立てが見つからない。そのことに、全員が絶望していた。

 ――否、全員ではない。

 ただひとり、白雷だけは、注意深く陸淡を観察しながらひとりなにかを考えていた。

 やがて、彼はひとつの結論に達する。


「まだ、間に合うかもしれません」

「なに?」


 万禮が弾かれたように顔を上げた。それに続き、白雷の言葉に気づいた全員が彼を見る。


「私が呼ばれたということは、主上はこの件についてもうご存じのはず。であれば、まだ間に合うと思います」

「どうすればいい! 陸淡を助けられるのならなんだってする!」


 縋る万禮を落ち着かせようと威遼はその肩を掴んだ。

 ひとつ、と前置きをして、白雷は威遼へ顔を向ける。


「威遼殿の協力が不可欠ですが、構いませんね?」


 一も二もなく、威遼を含め、全員が頷いた。

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