第12話 知れぬことの苦 1

 兵士たちの朝は早い。

 日がのぼる前には起床して、朝食をとる前には出立の準備を整えておく。それが規律の一つだ。

 しかしそんな規則を守る人間はごく僅かである。兵士といっても、規律正しい軍人として振る舞うのは、あくまで民の前に出る際の一時のみ。特に夜番で疲れ切った彼らにとって、睡眠欲を満たすことは何よりも優先されるのだ。

 故にそれを知っている上官というのは、心を鬼にして、彼らをたたき起こさねばならないのである。


「お前たち、朝だぞ」


 勢いよく幕舎の入り口をあけ放つ。目覚めたばかりだとは思えない声量に兵士たちは思わずびくっと肩を跳ねさせて、寝こけていた頭の無理な覚醒に抗おうとした。

 だが、無駄なことだと早々に悟ると、彼らは諦めのため息をつく。中には不機嫌さを隠そうともせず、わざとらしい寝返りを打つ者もいるが、それもまた意味のない行為であった。

 彼らの視線の先には一人の男が立っている。

 すらりと伸びた長身に、精練された筋肉のついた偉躯。整った顔立ちであるが、適当に束ねた焦茶髪からして、どこか野性味を感じる男。

 彼らの上官にしてこの軍の責任者、りょう将軍である。


「あー……将軍、おはようございます」

「おはよう、徐福じょふく。ほら、お前たちもさっさと目を覚ませ」


 寝ぼけ眼を擦る副官が起き上がるのを手伝ってやりながら、威遼は後手に示し部下たちにも声をかける。

 まだ夢うつつの者が多い中、幾人かの兵士は威遼の声に反応すると身を起こした。それでもほとんどの兵士が未だ夢の中である。

 そんな彼らに、威遼は呆れた息をついた。


「お前たち。俺はいいとしても、いまは尚書令殿もいるのだぞ。せめて最低限の身支度は整えておけ」

「……そうでした」


 その言葉に何名かの部下たちはガバッと起き上がり、周囲にその姿がないかを確認する。

 もちろん件の人物はいない。ほっと安堵の息をついて、彼らはなんとか背伸びをしながらもぞもぞと立ち上がると、眠気をこらえて衣服を正し始めた。

 その様子を見やってから、威遼は徐福に肩をかして彼を起き上がらせる。

 徐福はほかの部下たちに比べてすこぶる朝に弱かった。まだぐわんぐわんと揺れる頭に目を白黒させている。そんな彼を無理やり立ち上がらせて体を伸ばすのを手伝ってやると、徐福はぽきぽきと関節を鳴らしながらううんと大きく背伸びをした。


「将軍、ありがとうございました」

「毎度のことながら、ここまで弱いのは大変だな」

「はは。こうして起こしていただけるだけでも違いますから。本当に感謝しておりますよ」


 そう言って彼は笑みを浮かべる。そしてようやく目が完全に覚めたのか、しっかり自分の足で立って襟を正した。

 徐福は威遼の副官を務めてもう長い。彼が将軍になったときからの付き合いだ。

 そもそも威遼の直下に所属する兵士のほとんどは、指揮官を除けば平民出身者である。そのため彼らは軍というものの規律は知っていても、それを動かすための知識を持たない。

 徐福はそんな彼らの中では希少な、軍事についての知識を持つ存在だ。その有能さから将軍の候補として名が挙がっていたほどだったが、彼はそれを固辞して威遼の補佐役として今の地位に就いた。

 それ以来、威遼は徐福に全幅の信頼を置いている。


「さて。では、部下たちのことは任せるぞ」

「わかりました」


 互いに首肯する。

 その後、徐福はまだ敷布から起き上がれない部下たちに手を叩いて声をかけていく。それを軽く見やってから、威遼は踵を返して幕舎を出た。

 まだ太陽は山の向こうにある。空が白み始めて夜明けが近いことを知らせているものの、辺りはまだ薄暗い。

 周囲を軽く見渡してみるが、数名の兵士たちが水桶を移動させたり、馬の世話をしていたりというだけで、目的の人物は見当たらない。

 どうやら白雷はくらい嚶鳴おうめいもまだ眠っているらしい。威遼は周囲にその影がないか観察しながら、彼らが床として使っている幕舎へ向かった。

 まずは嚶鳴の幕舎だ。彼女が年頃の娘であることを考えればあまり踏み込まないほうがいい領域ではあるが、昨日の戦いで傷を負った拿柯なかも同じところで休んでいるはずなので、彼の様子だけでも見ておこうと足を向ける。

 幕舎の入り口で小さく声をかけ、入り口を捲る。中を覗き込んでみると、毛布をかぶって小さな山になった嚶鳴と、そんな彼女を起こそうと山を揺すっている拿柯の姿があった。


「おはようございます、拿柯殿。お怪我の具合はいかがですか」

「威遼、おはよう。オレ、からだつよい、へいき!」


 威遼の姿を目にした拿柯はぱっと笑顔になって、勢いよく立ち上がって駆けてきた。

 そんな様子は見た目相応の少年だ。戦いを好み仙境に身を置くものとはいえ、彼はやはり年若い子どもなのだろう。ぽんと軽く肩を叩いてやると嬉しそうにして、威遼の腕を掴んで自分の主人の所へ引っ張っていった。

 さすがにそれはどうなのだろうかと思ったが無下にするわけにもいかず、拿柯に連れられるまま、小さな毛布の山の前に向かう。


「主人。威遼、きた。主人も、はやく起きる」

「んん……?」


 数歩離れたところから見守っていると、毛布の塊が小さく動く。やがてもぞもぞと動きながら嚶鳴が顔を覗かせた。

 彼女はぼさぼさの髪のまま半眼で威遼を見上げる。その目が焦点を結ぶと同時に慌てて起き上がった。

 そのまま転がるように毛布から抜け出すと、あわあわと手櫛で髪を直しながら、威遼の元へと小走りで近づいてくる。


「お、おはようございます! すみませんこんな情けない恰好で!」

「いえ、こちらこそ不躾にも中に入ってしまって申し訳ない。まだ時間はありますから、支度はゆっくりで構いませんよ」

「すみません、ありがとうございます」


 嚶鳴はぺこりと頭を下げると、今度はそそくさと自分の荷物の中から身支度用の道具を取り出した。

 さすがにこのまま居座るわけにもいかないので幕舎を出る。背後で少し残念そうにしている拿柯に「また後ほど」と声をかけると、彼はまた嬉しそうにして何度もうなずいていた。

 二人の幕舎を離れて野営地の隅へと向かう。本来は尚書令という立場上もっとも立派な天幕であるはずだが、どうせ自分ひとりしか使わないからと、白雷はもっとも小さなものを使っていた。そういうところに拘らないのは彼らしい。

 しかし一応の立場もあるので見張りくらいはつけたほうがいいのではと進言すべきだろうか、などと考えながら、威遼はその幕舎へと近づいた。

 周囲は兵士たちの喧騒から少し離れているため静かだった。逆に言えば、中に人がいるかも怪しいくらいに静かすぎている。


(さすがにまだ眠っておられるか)


 そう思いつつ、威遼は幕舎の入り口から声をかけた。

 しかし返事はない。身じろぎする衣擦れの音もない。中で息を引き取ってはいないかと一瞬考えたが、自身を半仙だと言っていた彼がそんな簡単に死ぬはずはないと思い直す。


「失礼します」


 念のため一言断って、威遼は幕舎の中を覗き込んだ。

 そこには予想通り、白雷が横になっていた。その顔は穏やかに眠っているように見える。

 しかし彼の呼吸の音が聞こえない。まさか本当に、という思いが脳裏を過り、思わず威遼は一歩足を踏み出した。

 そのとき、突然白雷の顔が歪んだ。眉間にしわを寄せたかと思うと苦しげに身を捩らせ、低くうめき始める。

 驚いて足を止めた瞬間、白雷は目を開け、がばりと起き上がる。そして胸元を押さえたまま荒く息をして、しばらく言葉を発することもできずにじっと目を見開いていた。

 その様子に威遼のほうもどうしたらいいのかわからず、その場に立ちつくしてしまう。白雷の様子は何かに怯えているような、必死に耐えているような、そんな姿に見えた。


「大丈夫ですか」


 彼の息遣いが落ち着いた頃合いを見て、恐る恐る声をかけてみる。すると白雷はびくりと肩を震わせ、それからゆっくりと振り返った。


「あぁ、威遼殿」


 力のない声で呟き、白雷はのそりと立ち上がった。

 よくみれば、薄衣が肌に張り付くほど彼は汗をかいている。白雷は額に浮かんでいたそれを拭いながら、寝台から足を下ろして、背を丸めたまま力なく威遼に笑いかけた。


「おはようございます。見苦しいところを見せてしまいましたね」


 弱々しく笑う彼になんと言って良いのかわからない。

 何事もなかったかのように振る舞いたいのかもしれないが、とてもそんなことはできそうに見えなかった。


「……その、具合が悪いようですが、医者を呼びましょうか?」

「いえいえ、お気になさらず。ちょっと夢を見ただけですよ」


 言いながら、白雷は自分の身体を抱くように腕を回した。身体を支える腕がかすかに震えているのがわかった。

 その様子に威遼の不安が募っていく。ただ行軍の疲れがたまっているだけであればいいのだが、もしそうでないとしたらこのまま見過ごすわけにもいかない。


「無理に、とは言いませんが、話せることであれば聞かせてもらえませんか」


 そう言うと、白雷は困ったように笑みを浮かべた。


「本当に、なんでもないんですよ。いつものことです。疲れがたまると嫌な夢を見ることがあって、それだけですから」

「しかし」

「ふふ、威遼殿はお優しいですね。大丈夫ですよ、もう慣れっこなので。さ、朝ごはんを食べに行きましょう」

「ですが自分は」

「ほら、早くしないと冷めちゃいますよ。温かいうちに食べないともったいない!」


 笑顔でぐいぐいと背中を押されてしまい、それ以上何も言えなくなる。

 結局、白雷に押し切られるようにして幕舎を出ることになった。


「じゃあ、ぼくもすぐに着替えて行きますから。先に皆さんに伝えておいてくださいな」


 白雷はそう言って天幕の入り口を閉めてしまった。

 こうなっては仕方ない。威遼は溜息をつくと、後ろ髪を引かれる思いではあったが、その場を離れるしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る