第16話 蝶を夢見る

 本当の自分は、いったいどちらなのだろうか。

 しばしば『胡蝶の夢』と称されるその問いは、目覚めのたびに私を覆いつくして蝕んでいる。

 ラウの背に揺られながら尾根を往く。眼下に広がるのはどこまでも灰色の雲海で、下界を目にすることはできない。かといって頭上へ目を向けてみても、そこにあるのは満天の星空に煌々と浮かぶ望月だけ。いくら問いかけてみたところで、この空は答えを返してはくれなかった。

 この場所で目覚めると、私の身体はまるで言うことをきいてくれない。くらあぶみもない踉の背に力なく寄りかかり、あしなえたように両脚をぶらぶらと揺らす。そして私は、ただぼんやりと目の前を流れる、変わり映えのない景色を見つめるのだ。

 身に覚えのない罪科を背負わされて生まれ落ちた。追手もいないのにこうして逃げ続けている。それなのに――私は何から逃げているのかさえわからず、ただ己の境遇を恨めしく思い、私を生んだものを憎み続けている。

 いっそのこと破滅してしまえばいいのであろうが、どうやらこの世界にはそういった概念がないようで、私がどれだけ苦しもうとも一向にかまわないらしい。死ねないということは、すなわち永遠に生き続けなければならないということと同義である。生とは苦しみ以外の何ものでもないと、この場所で息づく私は思っている。

 だから私は、別の世界で目覚めるもうひとりの私のことも嫌いだった。

 限りなく自由と同じであるのに、あちらの私はじつに不自由な生活を強いられていた。

 あの世界の私は、きっとこの世界の私よりずっと幸福であるはずなのに、やはり他人に着せられた衣をまとって、濡れた袖を今日も揺らしている。どちらの私も「どうしてこんなにも理不尽なのか」と叫び、互いを羨み、妬み、嫌い、それでいて――むこうよりはなのだ、と安堵するのである。

 あちらの世界では、私は常に孤独であった。こちらの世界では、辛く苦しくとも、踉がそばにいてくれる。踉の温かさを全身に感じることができるから、寂しさを覚えることはない。

 だから私は孤独に怯えるあちらの私を嘲笑いながら、ときおり優越感に浸り、そういったおぞましい感情が湧いてくる自分自身を叱責する。愚かで無意味で無価値なことをして、いったい何を喜んでいるのか。そんなことが許されるのか。そんな権利も持っていないくせに、と。


 ――だって私はこの夢の終わりと繰り返しを知っている。


 私は知っている。この夢の果てには絶望しかないということを。この夢の終わりに、望んだ結末など訪れないということを。


 ――それでも私は、あちらよりもずっといいと思ってしまうのだ。


 この世界から逃げ出せるならばどれだけいいだろう。それが叶うならば、たとえどのような地獄であろうと喜んで身を投じるだろうに。

 この悪夢から逃れることができるなら、どのような代償でも。

 だがそれはけっして叶わず、私はまた、いつものように目覚めることになるだろう。

 そうしてこの夢を見るたび、私は自分の醜さを痛感させられて、膝を抱えて泣くのである。

 私はいつまで経っても変わることができない。

 まるで成長できていない。

 この胸の奥底に巣食ったまま消えようとしないどす黒いものを抱え続けて、いつか来る終わりを待ち続けるだけだ。

 先にあるのは希望なんて優しいものではない。自分を終わらせるために苦しみと痛みを求めるほかにない。

 そんなことしかできない自分に苛立ちを覚えながらも、私はただそれだけを求めて、この夢を繰り返し見続けることを選ぶのだろう。


 ――ああ、早く終えてしまえればいいのに。


 雲海の彼方へ視線を向けると、そこにあるはずの山々の姿はなかった。

 代わりに見えるのは、どこまでも遠いあのひとの背中と、それを飲みこんでいく燃え盛る業火と、そして――……





 二人を見送った幕営地では、嚶鳴おうめいが焚火の前で心配そうに俯いていた。


「……二人とも、大丈夫かな」


 肩を縮めながら空を見上げる主人に、従者である拿柯なかは「だいじょうぶ」と頷く。


「ふたり、なかよし。へいき」

「そうらしいけど、私は張さんのことしか知らないもの。徐福さんは軍人だけど威遼将軍よりは弱いんでしょう?」


 不安げに尋ねる主人に、拿柯は今度はふるりと首を横に振った。

 それを目にして、彼女はぱちぱちと目を瞬かせる。


「徐福さんってそんなに強いの?」

「弱くない。張、いってた。徐福、戦える」

「でも、張さんの仙術ならまだしも、尸解しかいせんが相手じゃ――」


 嚶鳴はそこまで言って言葉を止めた。しばらく考えてみたあと、ああ、と納得の声を上げる。


「つまり、剣や弓みたいな武器じゃなくて、他になにか不思議な力があるってこと?」


 彼女の言葉に拿柯は頷く。


「どんなものか、聞いてもいい?」


 問われた少年はまた小さく首を振った。


「ひみつ、あるらしい。おれ、しらない」

「えー」


 不満気な声を上げる彼女に、拿柯は強い口調で続けた。


「きかないほうがいい」

「なんで?」

「よくないこと、おきる」

「……」


 それは脅しではないようだ。彼のその言葉には、いつもよりも重みがあった。


「……わかった。それならきかないでおくよ」

「うん。それが、いい」


 ふっと拿柯が笑う。嚶鳴は同じようにほほえみを返したが、それでもやは不安を感じていた。

 死んでしまうかもしれないのだ。たった二人で靑娥たちを探し当て、その情報を握ったままここに帰ってこなければならない。それがどれだけ危ないのか、四禍のことをよく知っている嚶鳴は理解しているつもりだ。

 自分ならば途中で投げ出してしまうだろうと思うくらいに、想像するだけで身が縮まるような、恐ろしいこと。

 そんな思いに囚われているのを察したのか、ぽふ、と頭の上に温かい手が乗せられる。

 驚いて顔を上げれば、拿柯がするりと指先で嚶鳴の髪を梳いた。


「大丈夫。主人、心配、いらない」

「どうしてそう言えるの?」

「わかる」


 まっすぐな言葉とともに、拿柯が晴れ渡った青空を指さす。

 燃えるような赤い髪が風に揺れ、太陽の輝きを跳ね返して輝いていた。


そら、教えてくれる」


 言葉は自信に満ちていた。


「そっか。そうだよね」

「うん」


 拿柯はずっと昔からこうなのだ。とにかくまっすぐで、あたたかくて、太陽のような子。

 だからこそ、彼が言うのならば間違いはないのだろう。

 それに比べて、私はどうだろう。そんな考えが浮かんでくる。

 自分は巫者の一人だ。でも、けっきょくはただの人間で。

 威遼や拿柯のように戦えないし、張のように方術も扱えないし、白雷のように的確な指揮もできない。

 できることは祈りだけ。けれどそれもまた、玄武という霊獣に借り受けたものでしかない。


 ――靑娥の復活さえ、私は止められなかった。

 ――玄武の巫者であるのに。私は彼女が目覚めたと知覚することさえできなかった。


 そう考えると、とても自分が情けなく思えた。

 半人前以下なのだ。こんなことなら、巫者になどならなければよかったとすら思う。

 俯く嚶鳴の肩に、ぽんと手が触れる。拿柯のものではなくて、もっと大きくて硬い手のひらだった。

 驚いて振り返ると、そこにはいつの間に現れたのか威遼が立っていた。


「ご気分が優れませんか」

「あ、いえ、そういうわけでは」


 とっさに曖昧な言葉で濁す。

 そんなことをしても意味はないとわかっていても、どうしてもそれ以上の言葉が出てこなかった。

 どうしよう。困らせてしまっただろうか。そう思っておどおどしていると、威遼は嚶鳴を安心させるように穏やかな笑みを浮かべた。


「では、これからのことで不安を感じておられるのですか?」


 図星を突かれて、思わず身体がびくりと震えてしまう。

 やっぱりこの人は鋭いなぁと思いながら、それでも「そうです」とは言いにくく、嚶鳴はまた目をそらしながら曖昧に誤魔化してしまった。


「ええと……まあ、少しだけ」

「それはそうでしょうね。私も同じ気持ちです」

「威遼さんも?」


 嚶鳴は目を丸くして聞き返した。

 威遼は国軍を率いる将軍である。きっとこういう状況に慣れているだろうと思っていた。しかし威遼は少し目を伏せて影を落とし、それでも努めて明るい声のまま続けた。


「戦場は、常に命がけです。たとえ勝ち目がないとわかっている戦でも、我々は戦わねばなりません」

「そう、ですよね」

「出陣前には笑い合っていた同胞が、翌日には骸になっている。それが日常です。慣れることはありませんが、仕方がないことなのでしょう」


 そう言って、彼は隣にすとんと腰を下ろした。

 嚶鳴の顔を覗き込むように前かがみになりながら、焦茶色の束髪を揺らす。


「だから私は、あなたが不安な顔をしてくださることが嬉しいのです」

「え?」

「自分や徐福は、士気に大きくかかわってしまうので、部下たちの前で不安感を見せるわけにはいきません。けれど彼らも同じように、不安を感じていても互いに見せることができない精神状態になりやすいのです。なので、民と同じようにあなたが不安な表情を見せてくれることは、我々にはとてもありがたいことなんですよ」

「そ、そうなんですか?」

「ええ。私たちはいつも戦友に甘えてばかりなのです」


 威遼はくすぐったそうに頬をかいて笑った。

 不思議な言葉だった。

 彼らは国を代表する戦士であり、同時に英雄でもある。兵士たちにとって威遼ら五虎将軍は、もっとも大きな希望の象徴だ。そんな彼らが弱音を吐ける相手というのは、もしかすると想像以上に少ないのかもしれない。

 そのことに気がついたとき、嚶鳴はふいに自分の胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ――この感情は何だろう。


 うまく説明はできないけれど、目の前の人がこれまで以上にとても大切な存在であるように感じた。


 ――彼の不安を、少しでも私が和らげることができるのだろうか。


 そんな思いに駆られて、嚶鳴が思わず威遼に手を伸ばしかけたとき、背後から何かがぶつかってきた。

 衝撃に前につんのめりそうになるのを、とっさに威遼の腕が支える。

 二人して背後に目をやると、そこにいたのは白雷だった。突然の出来事に固まっていると、白雷は頬をふくらませながらぎゅうっと二人に抱きついてきた。


「お二人だけでずるいですよ。ぼくも仲間にいれてください!」

「は、白雷さん……?」

「拿柯殿も! ほらこっちに来てください!」

「ん、わかった」

「拿柯まで⁉」


 威遼の後ろからひょっこりと顔をのぞかせた拿柯もまた、白雷に手招かれてぎゅうっと身を寄せてくる。柔らかな赤髪がふわりと嚶鳴の頬を撫でた。

 三人とも温かくて、太陽のような匂いがした。

 それは彼らの生命だ。生きて、ここにいるという証明。


(ああ、そうか)


 唐突に、嚶鳴は小さな納得を得た。


 ――私はきっと、こんな当たり前のことを、誰かに教えてもらいたかったのだ。


 嚶鳴は、物心ついたころから期待を背負っていた。玄武の巫者に選ばれてからは特に、他人の視線や感情に振り回されて、誰かのために働いているのに、その誰かを信じることができなくなるような毎日だった。ぬくもりや優しさなんてものはずっと遠い、そんな日々。

 隣にいてくれた拿柯のことも、どこか一線を画した存在だと勝手に思い込んでいた。

 でもそうではないのだ。

 拿柯もまた生きている。嚶鳴わたしと同じように。


「そっか。……そっかぁ」


 呟きながら、目頭がじわっと熱くなるのを感じる。

 嬉しかった。

 自分はひとりぼっちなんかじゃなかったんだと、今になってやっと理解できたことが。

 この人たちと一緒にいれば、これからもやっていけるような気がする。


「威遼さん」

「はい」

「私、がんばります。みなさんといっしょに生きるために」

「ええ。一緒に、生きましょう」


 威遼の言葉は力強く、どこまでも優しかった。多くの人が彼に導かれ、ついていく理由がそこにあるのだとわかるほどに。

 けれどそれ以上に、嚶鳴が彼に惹かれるのはきっと別のところにあって――これでは本当に、ただの子どもみたいだと思った。恥ずかしさをごまかすように小さく笑いながら、もう一度だけ顔をあげてまっすぐに彼の目を見つめる。


「ありがとうございます、威遼さん」


 そう囁いてみた言葉が震えていたことに、どうか気づかないでほしい。

 嚶鳴は静かに目を閉じて、自分を包む三人の温かさにしばらく甘えることにした。

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