第17話 うたわれぬもの

 慣れ親しむほどに長く付き合ってきた感覚であるはずなのに、いざそのときが訪れると毎度耐えられないほどの恐怖を覚える。

 戦場というのはそういう場所だ。

 死はいつも影のように付きまとってくる。どんな強者であろうとも例外ではない。むしろ、強い人ほど死の気配には敏感になるものだ。だから化け物と称される将軍たちでさえ、その日が来ることを覚悟している。

 ただそれでも――やはり怖いものは怖かった。

 だって自分は、彼ら以上に、それをよく知っているのだから。


「みつけた」


 視線の先に軍勢を捉えた瞬間、徐福じょふくの口からは無意識に声が漏れた。

 北砦の裏手にある山毛欅ぶな林だった。陽光の遮られた斜面、暗く湿った土の上に、苔むす大岩を囲むようにしてゆらゆらと大勢の人影が群れているのが見てとれる。

 それらはみな土気色の肌と幾重にも重なった不気味な瞳をぎょろりと動かして、せわしなく周囲の様子をうかがっている。両手を力なくぶらりと下ろして左右に揺れながら緩慢に動いているさまは、まさに操り人形のようだ。そしてその中心、大岩の上で楽しげに小唄を口遊くちずさんでいる少女は、この荒廃した森林に似つかわしくない絹の衣装に身を包み、身の丈をゆうに超える長い黒髪を地に這わせて、悠然とほほえみを浮かべている。


 ――ああ、見紛うはずがない。あれはせいだ。


 できれば違っていてほしかった、というのが徐福の本音だった。

 四禍しかが蘇り、その脅威が再び国を襲っている。疑うつもりはなかったが、いざその姿を目の前にするまでは、わずかな希望であっても捨てきることはできなかった。万が一にも、それが彼女でなければ――靑娥でない何者かの間違いであれば、と。

 だが、それももはや意味はない。実際にこの目で見てしまった以上、彼女は討つべき敵である。


「どうだ」


 ちょうに問われ、徐福は大きく頷いた。


「靑娥だね、間違いない。……でも周りにいる傀儡かいらいの数は聞いていたほどじゃないな、多くて百ってところだ」

「奴も目覚めたばかりだ。五千も作る時間はなかったんだろう。幻術を使えばそのあたりはいくらでもごまかしが利く」

「ああ、そうだといいけど」


 張の言葉に苦笑しながら、徐福は剣の柄に手をかけた。

 あの様子であればまだこちらには気づいていないはずだ。奇襲を仕掛けるという手もあるが、さて、どうするか。

 言外に張へ目配せをする。しかし彼は小さく首を振った。


「尚書令にお考えがある。位置は特定できたのだから、ひとまずは帰還するぞ」

「まあ、やっぱりそうなるか」


 わかっていたことではあるが、落胆を隠せない。

 今回の目的はあくまでも敵の戦力と布陣地の把握である。ましてや相手は邪道とはいえ仙の域に達した不死の存在。深追いして返り討ちに遭うことだけは避けなければならない。

 とはいえ、このまま黙って引き下がるわけにはいかない、と思ってしまうのも確かだった。

 徐福は内心で舌打ちをする。このまま彼女の首をねることができれば、それだけでこの問題は終わるはず。しかしそう簡単に事が運ぶわけはないと知っているのも事実だった。相手が目の前にいるというのに、きびすを返して戻らなければならないというのは、どうにも口惜しい心地になる。

 無意識に鳴らしていた歯軋りに気付いた張に視線を向けられ、徐福はひとつ息をついて笑ってみせると、努めて明るい声で言った。


「大丈夫さ。もう考えなしに突っ込んだりしないよ」

「……ならばいいが」


 どこか釈然としなさそうではあったが、それでも張はそれ以上は何も言わなかった。


「それじゃ戻ろう――」


 言いかけた言葉が途中で止まる。

 一瞬遅れて、を視界にとらえた徐福が張の腕を掴んで跳び退いた。

 直後、彼らの足元から勢いよく炎の柱が立ち昇る。まさに間一髪で避けきれたものの、着地で重心がずれてしまった徐福は腰の剣を抜くこともできず、抱え込んだ張とともにその場に転がることになった。

 土埃にまみれながら慌てて顔を上げる。そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。

 くすんだ灰色の長衣に頭巾を被った男だ。徐福たちがいる地点まではおよそ十歩ほど離れていたが、それでもなお異様なまでに存在感のない姿だった。

 男は徐福たちを見下ろすように立ち尽くしていたが、影になった頭巾の中にあるそれは見えない。ただ、それが何者であるのか、徐福はすぐに理解してしまった。


「畜生!」


 思わずそう叫び、徐福は背後の北砦へ向かって張を放り投げた。

 予想だにしていなかった――否、予想したくもなかった最悪が目の前に現れたのだ。そして徐福の口から漏れた罵声に呼応するように、周囲の木々の間からも続々と人影が現れる。そのどれもが土気色の肌と多重の瞳孔をしていた。靑娥の傀儡を率いるは、徐福と張が最も出会いたくなかった、ある意味で靑娥よりも嫌な災厄だった。


「走れ、張!」

「言われずとも」


 空中でふわりと体勢を立て直し、張は北砦の城壁を駆けあがる。徐福は視線を幾度も動かして頭巾の男と傀儡たちを見た。そのさらに向こう側から、相変わらず楽しそうな歌声が聞こえている。

 どうにかして張を逃がさなければならない。

 徐福は苔で滑る地を蹴り、身を捻りながら鞘から抜き出した剣を目前の頭巾へ振り下ろした。

 しかし、その先にあったものは、人の頭部などではなかった。

 いびつに捻じ曲がった角のような、あるいは巨大な獣の顎にも似た器官が、頭巾の影からぞろりと生えて刃を受け止める。同時に灰色の衣の内側から伸びた腕が触手のようにぐにゃりと形を変えて、徐福の首めがけて襲ってきた。

 徐福は反射的に首を傾けて急所への直撃を避けたものの、代わりに肩口を切り裂かれてしまった。傷自体は浅いものだが、それでも痛みは全身を走り抜け顔が歪んでしまう。


「ぐっ」


 衝撃に奥歯を噛みながらも、徐福は地面へと降り立つ。肩口の傷から血が滲んでくるのがわかったが、それでも徐福は目前の男を見据え剣を構え直した。

 いまは張がこの場から離れる時間を稼がなければならない。幸い、相手の動きは鈍重で、張を追いかけようとする様子もないようだ。であれば、彼が安全な場所までたどり着くのにそれほど時間はかからないだろう。そのわずかな間であれ、自分が無事でいられる自信はなかったが――それでも張が危険に晒されるよりはずっとマシだ。そう覚悟を決めて剣を握る手に力を込める。

 しかし、その時だった。


「まあまあ、まあ」


 ころころと鈴を転がすような、高く澄んだ少女の声が響いた。

 それと同時に、目の前の男の姿がかき消えた。

 いや、違う。

 一瞬にして視界の端へ移動し、そのままの勢いで体当たりをしてきたのだ。

 咄嵯に身を翻そうとした徐福だったが、間に合わずに突き飛ばされてしまう。地面に倒れ込む直前にかろうじて身体をひねって受け身をとったが、その直後にぐにゃりと曲がった手が伸びてきて徐福の胸倉を掴み上げ、足先を宙に浮かせるように持ち上げて首を締め上げてきた。


「ッ⁉」


 声にならない悲鳴を上げながら、徐福は必死に男の手を外そうともがく。しかしその手は石のような硬さを持ち、恐るべき力で徐福の喉を絞めつける。呼吸もままならず意識が遠退きかけた時、不意に徐福を拘束していた力が緩み、徐福は地面へと叩きつけられるように落ちた。

 激しく咳き込み、荒くなった息を整えていると、再び頭上から少女の笑い声が降ってくる。


「あらあら。わざわざ挨拶に来てくださったの?」


 それは先ほどまで頭巾の男の向こう側――大岩の上で歌っていた靑娥のものだ。

 靑娥は長い長い黒髪をすだれのようにして、地に倒れ伏した徐福の顔を覗き込んだ。靑娥の顔はまだ年端もいかない、あどけない少女そのものに思える。その青い瞳が笑みに細められて、けれども突き刺すような敵意を含んで徐福を映していた。

 だが、なんとか呼吸を落ち着かせながら視線を上げる徐福が見ていたのは、靑娥ではなく、先ほどまでこちらの首を絞めていた頭巾の男だった。その異形じみた腕は灰色の衣の内側に戻り、今はただ服を着せられたカカシのようだ。頭巾の内側はやはり影になって見えなかったが、先ほどの不気味な器官ではなく、のっぺりとした人間の顔らしきものがある。

 徐福は思わず眉根を寄せた。


 ――あれは、人間のはずだ。


 徐福は酸欠でうまく動かない思考をなんとか繋ぎ合わせながら考えていた。

 あれはのはずだ。それがあんな姿に変化するというのは、いったいどういうことか。

 靑娥にそんな力はない。少なくとも、徐福が知っている靑娥という四禍の娘は、そこまでの力を持っている存在ではなかった。

 だから徐福は目の前に現れた男が誰であるかを理解していても、対処することができなかった。

 返事をしない徐福を見下ろしていた靑娥は、少し苛立ちを滲ませた声で言った。


「ねえ、お返事なさいな。わたくしを無視するつもり?」

「――お前は」


 問われてようやく、徐福は絞り出すようにして言葉を発した。


「靑娥、だろう」

「ええ! ええ、その通りよ。憶えていてくれて嬉しいわ。会えて嬉しいわ!」


 両手を頬に当てて喜ぶ少女の姿は、本当に無邪気なものに見えた。しかし、その奥にある狂気もまた、隠すことなく剥き出しになっている。

 靑娥は青い瞳を輝かせて小さな手を伸ばし、徐福に触れた。


「ほんとうに嬉しいのよ、大兄おにいさま


 その指先が、徐福の目尻から顎にかけてなぞるように動く。

 瞬間、ぞわりと肌が粟立った。

 まるで羽虫が肌の上を這うかのような不快感。それを振り払おうと身を捩るが、今度はその手首を掴まれて強く引っ張られた。


「ぃ――っ」


 痛みに声を上げた時にはもう遅かった。体勢が崩れた徐福の頭を男が掴み、傍らの木の幹へ頭を強かに打ち付けられて視界が白む。衝撃でぐらつく意識の中、それでもどうにか剣を取り落としてしまわないよう握りしめていたのは、もはや意地に近いものだった。靑娥はそれを眺めながら高らかに笑い声をあげ、それからふっと口元を緩めた。


ってば、ずうっと昔からそうだったわよね」


 歌うように軽やかな声で、そう囁く。その眼差しにはどこか憐れみの色すら浮かんでいて、だからこそ徐福は、それがいっそう気味の悪いものに感じた。けれども頭の片隅で、彼女の憐れみも当然のことだと思う。

 徐福はいつも、誰かのために戦っているはずだった。しかし、いつの間にか自分自身のための行為にすり替わるのだ。それはおそらく彼の本質で、故に徐福は決して英雄と呼ばれることがない。

 威遼のように王に仕える将軍としての地位を築くこともなければ、白雷や姜里のような優れた智慧を持つこともない。張のような不屈の精神をもつこともできないし、李正のように己を律し続けることもできない。拿柯のように戦いを楽しむ気持ちも持てず、嚶鳴のような非凡の才もない。万禮の武のような苛烈さも持たず、呉栄のような老練さも持ち合わせていない。

 なにもないのだ。大木の洞みたいに、ただそこにあることを認識されているだけで、そこにはなにもない。


 だから、それを終わりにしたくて――徐福はここに赴いたのだ。


 徐福が身じろぎしたのをどう受け取ったのか、靑娥は小首をかしげて彼を見下ろした。


「だいじょうぶ。心配はいらないのよ。あなたにはなにも残さないから。この世界のことは、わたくしが綺麗さっぱり掃除してあげます。あなたはもう苦しまなくていいの」

「そんなことが許されると思うのか?」


 徐福は荒くなった息を整えながら問う。すると、それまで黙っていた頭巾の男が、低く冷たい声で応じた。


「――では、おまえになにができよう」


 同じ音だった。

 同じ音が、目の前の頭巾の向こうから響いていた。

 二つの青い瞳がその視線を交差させる。ようやく見えた男の双青に宿るのは深い絶望と虚無であった。

 頭巾の下にある顔は――やはり、己と同じかたちをしていた。


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