第18話 まつろわぬもの
ふいに嫌な気配を感じて、
青空が広がっている。散らされた雲が穏やかに流れていく、美しい光景だ。それなのになぜ、こうも不気味に思えるのだろうか。
野営地の端に設けられた厩で葦毛の馬が
その馬が何度も足踏み、
威遼が背に乗ったことで葦毛は少し正気を取り戻したが、それでもまだ落ち着きがない。なにかを訴えるように何度も頭を振る馬の顔先に手を伸ばして、威遼は彼女がなにを言いたいのかを探ろうとした。
馬は、賢く聡い生き物である。時に人間の気づかない異変を察知することもあり、威遼も幾度となく彼女たちの鋭い感覚に助けられてきた。故に今回も、自分以上になにかを感じ取っているのだろうと思った。
「どこへ行きたい?」
威遼が尋ねると葦毛はぶるりと身を震わせてひとつ声を上げる。長い睫毛の向こうから青い目がこちらを見た。
その瞳に宿るものが恐怖ではなく焦燥であることを確かめて、威遼は大きくうなずいた。
「縄を」
「え――は、はいっ!」
まだ目を白黒させている世話係が投げた縄を受け取り、手早く轡に結び付けて手綱にする。その頃には騒ぎを聞きつけた
威遼はちらりと背後を振り返り、彼らに笑いかけて手を掲げる。
「すぐに戻ります!」
言い残すなり、白雷が止める声も聞かずに威遼は葦毛を走らせた。
なにかが起こっている、という直感がある。それがなんなのかわからないが、とにかく急がなければならないことだけは確かだ。日常では決して得ることのない焦燥感にも似た感覚が、脳裏でチカチカと明滅していた。
好ましくはない。けれど、これは必要なことだ。無視を決め込んではならないことを、威遼はその経験上よく知っている。
葦毛の望むままに疾駆した先、それは件の北砦から少し離れた雑木林であった。
馬は速度を落とし、人の手が入っていない鬱蒼と茂った木々の間を歩いていく。迷いなく確かな足取りで進む彼女は、やがてある場所で立ち止まった。
そこにあったのは小さな祠だった。周囲は蔦と草に覆われ、苔むして古びて手入れもされていない、今にも崩れてしまいそうな祠である。
威遼は立ち止まった馬の背から降りてその祠に近づいた。葦毛もまたそれに続くように数歩進み、威遼の隣でぶるぶると頭を振る。
彼女は何度か鼻面を押し付けるようにして祠に触れ、それから前脚を持ち上げて扉を軽く蹴った。
錆びついた蝶番の音を立ててゆっくりと祠の戸が開かれる。その向こうにあるものを見て、威遼は思わず息を呑んだ。
石像でもなければ宝珠でもない。ましてや宝剣や金塊でもない。
そこにあったは――
たった一つ。他の副葬品など一切なく、ただ一つの生首だけが祀られていたのだ。
あまりのおぞましさに鳥肌が立つ。しかし威遼はすぐに気を取り直すように小さく頭を振って、改めてそこにあったものを凝視した。
(男、か?)
布に包まれたものではあるが、顔の形を見るに恐らく男であろうと思われる。
威遼は慎重に手を伸ばして皮膚に触れないよう注意しながら、それを覆っている布を外した。
露わになった男の頭部は、想像よりも遥かに若いものであった。壮年といったところだろう。黒髪は短く切り揃えられ、整った眉目からは意志の強さがうかがえる。閉じられた瞼の奥には、きっと鮮やかな青の瞳が眠っているのだろう。
威遼はしばらくの間、言葉を失っていた。
そう、きっと――鮮やかな青の瞳があるのだろうと、わかってしまったのだ。
◆
その日も変わらず、穏やかな日だった。
閑散とした村の外れ。服についた土埃をはたいて落としながら、
ついさっきまで一緒に畑仕事を手伝って汗を流していたというのに、いつの間にか姿が見えなくなっている。どうせまたどこかへふらりと出かけてしまったのだろう。年若い娘からすれば、この村は退屈極まりないに違いない。
仕方がないなと思いながら、徐福は手に持った鍬を担ぎ直した。
見上げた先にある山には、神仙が住んでいるという。そんな噂はよくあることで、事実、時折その仙郷から流れてくる品々によって生活が豊かになることもあったそうだ。徐福はまだ目にしたことがないが、村の年長者たちは皆その山に敬意を払っているようだった。
だが、それももう何百年前の話だろうか。今ではその山の恩恵を受けることはほとんどなくなった。
そもそも蓬莱山に、本当に仙人がいるのかさえ定かではない。ただひとつ確かなことは、この辺りでは珍しいはずの黄色い髪をした子どもが、ある日ふらりと現れて居着いたということだけだ。
最初は誰もが気味悪がったが、彼は害を及ぼすようなこともなく、むしろ働き者であった。次第に受け入れられるようになったその子は
徐福もまた、そのうちの一人であった。張が現れるまで、村には若者がほとんどいなかった。だから同年代の少年と遊べたことが嬉しくて、毎日のように彼と駆け回ったものだ。あの子もまた張によく懐いて、まるで本当の兄妹のように仲が良かった。
――それなのに。
目眩と痛みに揺れる。
足元が覚束なくなり、視界の端が赤く染まる。
徐福はその場に膝をついて倒れ伏した。
耳鳴りがする。甲高い音が頭の中で反響して、身体中が軋むように痛い。
(あぁ、くそ)
毒づこうにも声が出ない。全身を襲う激痛に耐えかねて、意識を手放しかけたとき、またあの声が聞こえた。
『――おまえに、なにができようか』
声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。
徐福は霞む目をなんとか持ち上げた。目の前に、いつのまにか一人の男が立っていることに気づく。
男はこちらを見下ろしていた。表情のない顔をして、じっと徐福のことを観察している。
徐福と同じ顔をして、徐福と同じ声で、何度も問う。
なにができる。おまえに、なにができるのだ。
問われているうちに、頭の芯が痺れるようにぼうっとしてくる。その感覚は、いつか味わったことのあるものだった。
体中から失われていく温度。冷たくなっていく手足。自分のものではないかのような、重い身体。
死が、近づいてくる。
――そのとき、背後から強い力で腕を引っ張られた。
「
その叫びは、確かに耳に届いた。
急激に浮上する意識が、鮮やかな青空を映し出す。それと同時に、己が名を呼んだのは誰かを理解した。
「
なぜ、彼がここに。そう思った瞬間、先ほどの光景は夢であったのだと気づき、そして――まだ生きているのだという実感が湧き上がった。
目前の少女が長い黒髪を翻して声の主を見る。怒りに似た感情が彼女の顔を彩り、しかしそれは直後に驚きに変わった。
「お前、なぜ生きているの!」
声を荒げて大きく目を見開く
靑娥はその眼差しに一瞬怯んだ様子を見せたもののすぐに気を取り直し、愛らしい
「ふうん。なるほどね。あの女、失敗したの。ああなんて愚かなんでしょう、憐憫さえ湧いてくるようだわ!」
「なにを言っている」
威遼が低い声で問えば、彼女は鼻で笑ってから肩をすくめた。
嫌悪や侮蔑の入り混じった表情で威遼と徐福を交互に見やり、それから嘲るように笑った。
「だってそうじゃない。貴方――ええ、いまの名前は知らないけれど、
まくしたてる言葉のひとつひとつに刺と刃をまとい、悪意に満ちた言葉を羅列する。
だが、それを向けられている当の本人は顔色ひとつ変えなかった。
「くだらんな」
呟かれたその声は、呆れにも似た感情を含んでいるようだった。自分に向けられたものではないのに、威圧するような低い声音に徐福は思わず息を飲んだ。
(将軍が、本気で怒ってる)
戦場において、憤怒の感情は冷静さを欠き判断を誤る原因となり得る。将軍長である威遼がそれを知らないはずはなく、現に徐福は、彼が戦場で怒気を纏っているところをみたことがなかった。だからこそ、徐福は驚いたのだ。
こんなに恐ろしいと思ったことはなかった。
その横顔を見ているだけで身体が震える。肌が粟立つ。心が騒ぐ。それほどまでに、恐ろしい。
「ふざけるんじゃないわ!」
靑娥の金切り声で、徐福は我に返った。
「あんたたちみたいな出来損ないが、この世界にいるだけでも我慢ならないのに! 価値なんてないのに、意味なんてないのに、どうしてまだ生きていられるの! おかしいわ、絶対、ぜったいおかしいの。だってそうでしょう? 神でもないくせに、人間以下の存在のくせに、ただの汚らわしい肉塊のくせに、どうしようもなく無力なくせに!」
それは呪いの言葉のように紡がれ、彼女の怒りに呼応するように風と雷を呼び起こした。
咄嵯に身構えようとした徐福を威遼が手で制する。彼は落ち着いた表情のまま首を振った。
「いまはこれでいい。帰陣が最優先だ。徐福、動けるか」
「あ、はい。……あー、いえ、ちょっと無理っぽいです」
「わかった。では、舌を噛まないように気を付けておけ」
「え?」
威遼は徐福の腕を掴むと、その身体を軽々と担ぎ上げた。
いかに文官のような風貌であっても徐福は軍人だ。そんな男を易々持ち上げてみせるのだから、やはり並外れた
そんな状況の中、それでも威遼は迷うことなく足を踏み出した。
空気が激しく揺れ動く。それは渦を巻き、周囲の景色を歪ませるほどに激しく吹き荒れていた。だというのに、威遼は風の中をまるで平然と突き進んでいく。
風の合間に届く呪詛の叫びに耳を塞ぎたくなる衝動を堪えながら、徐福は必死に目を凝らして前を見た。
そして――ようやく気づいた。
視界の端にちらつく、赤い何か。
「あ……」
彼の焦茶色が、毛先からじわりと滲むように赤みを増していく。それはやはり生命の脈動を感じさせるようで、とても美しい光景に思えた。
しかし同時に不安を覚える。この赤がなにを意味するのかは知らないが、なにかを意味していることは知っているのだ。
ともに戦場を駆け、その背に付き従ってきた徐福には、その赤が死神の手のように思えてならなかった。やがてこれが彼のすべてを染めて、後戻りできないなにかに変えてしまうのではないか――そんな想像が脳裏にこびりついて離れない。
だが、それを口に出すことはできなかった。
その言葉はあまりに陳腐でありふれていて、それでいて残酷すぎる。
なにより、その言葉がどれだけ重たいものなのか、徐福はなによりも理解していたのだから。
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