第21話 慈雨

「なにがあったんですか!」


 日が山の向こうに隠れた頃になってようやく野営地に戻った威遼たちを出迎えたのは、血相を変えて飛び出してきた嚶鳴おうめいだった。

 それも当然のことだろう。りょうは大した説明もなく突然陣営を飛び出しているし、やっと帰ってきたと思った件のふたりの片方は満身創痍である。しかしちょうの手を借りて馬を下ろされた徐福じょふくの姿を見た途端、それまで泣きそうになっていた顔を引き締めて、彼女はすぐさま治療の準備に取りかかった。

 大きな傷は事前の応急手当で止血されている。問題なのは鈍的外傷のほうだ。とくに強い衝撃を受けている頭部は慎重に診なければならない。

 先日の気弱そうな様子とはうって変わり、嚶鳴の指示ははっきりとしていて的確だった。こういうところはさすが玄武の巫者、博識さは彼女の立派な武器だ。彼女の指示に従い、張も治療に必要な器具を用意したり、薬湯を作るために火を起こしたりと忙しく動いている。

 威遼はその様子を横目に見ながら葦毛の馬の手綱を持ち、駆け寄ってきた世話係に引き渡した。馬はまだ落ち着かないようで、足踏みをしながら辺りの様子を窺っている。やはり徐福主人の様子が気になるらしい。しかし馬は血の匂いにも敏感なため、一通りの処置が終わるまでは離しておいたほうがいいだろう。

 葦毛をなだめながら厩へ向かっていく世話係の背を見ていると、ふと袖を引かれた。

 振り返ってみると、そこにいたのはだった。水の入った桶と手巾を持った少年は炎のような赤髪を揺らし、口を開く。


「威遼、けが、ない?」

「ええ。私は問題ありません。心配をおかけしました」


 頷いて桶を受け取ると、安堵したのか拿柯は表情を和らげた。彼は袖から手を離し、次に腕を上げて威遼の髪を指す。


「落ち着く、する。髪、赤いままだ」

「ん、まだ色が戻っていませんか?」


 拿柯に指摘されて威遼は己の毛先を軽くつまみ上げた。たしかに普段より赤みが増していて、色の戻りが遅い。それほど激しい戦闘をしたわけでもないのだが、感情が昂っていたせいだろうか。まあしばらく放っておけばもとの焦茶色に戻るだろうと、ひとまずは髪についた砂埃を払っておいた。

 威遼が髪結い紐の結び目を解いて軽く頭を振っていると、離れたところから彼を呼ぶ声が響いた。拿柯とふたり、声のしたほうへ視線を向けると、焦燥を浮かべた白雷はくらいがこちらへ向かってくるところだった。


「ああ、威遼殿! ご無事でよかったです。いきなり飛び出していくから驚きましたよ」

「勝手な行動を取って申し訳ありませんでした。無視できない感覚があったものですから――」


 そこまで言って威遼は言葉を止めた。首を傾げた白雷に、威遼は周囲を少し見渡してから顔を寄せ、できるだけ周囲には聞こえないように声量を落として続ける。


「尚書令、いくつかお尋ねしたいことがございます。そして、お伝えしなければいけないことも」


 その言葉を聞いた瞬間、白雷の顔色が変わった。一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたものの、すぐに真剣な面持ちになって小さく顎を引く。それを確認してから威遼は再び口を開いた。

 葦毛の馬が暴れ始めた時に感じたもの、自分が見たもの、そしてこれから起こるであろうこと――できるだけ事細かに話していくうちに、白雷の表情はどんどん曇っていく。わずかに目を伏せて考え込み、あらかたの説明を聞き終えた後も顎に手を当てていた。


「予想外、というわけではありませんが……せいがそれに気づいている、となると、ふむ。そうであれば……」


 ひとりで問答するように呟きながら、白雷はあれこれと思案しているようだった。ぶつぶつと考えを口に出して整理をしている彼の邪魔をしないように、威遼は静かに待つ。その隣で不思議そうな顔のまま立っていた拿柯は、ふいに頬を打った雫に目を瞬かせて空を仰いだ。

 ぽつ、ぽつ、とつぼが降り始める。昼間のうちは晴れ渡っていた空がいつの間にやら暗雲に覆われており、雨脚は徐々に強まっていた。持ち場についていた兵士たちが声をあげて天幕へ向かっていくが、白雷はそんな声も雨粒も気にすることもなく思考に没頭したままで、灰青色の髪が重たく濡れそぼっても動かない。

 さすがにこのまま雨にうたせておくのは忍びなく思い白雷へ声をかけてみるが、彼は返事をしなかった。どうにも熟考に耽るあまり聞こえていないようだ。


「尚書令、お身体に障ります」


 もう一度呼びかけてみたが、やはり反応はない。やがて彼の白い絹衣まで水を吸って肌に張りつき始めてきたので、さすがに目に余ると感じた威遼は自身の外套を外して白雷の頭からすっぽりと包み込むようにかけた。上官を許可なく担いでいくことはできないし、考えごとの途中で小言をいうのも躊躇ためらわれる。なめし革の外套であればまだ耐水性があるだろうと思ってのことだった。

 しかし、外套が触れたことでようやく白雷は我に返ったようで、はっと顔をあげてあたりを見回し、状況に気づき慌てて外套を握りしめた。


「すみません、つい没入してしまいました。ありがとうございます、威遼殿」

「いえ、それよりも早く幕舎に入りましょう。火に当たって体を温めたほうがよろしいかと」

「そうですね……って、拿柯くんもびしょ濡れじゃありませんか」


 隣にいた少年の様子を見て、白雷は慌てて手を伸ばした。ずっとおとなしく空を見上げていた拿柯は、まだきょとんとしたまま首を傾げている。水を含んで頬にはり付いた赤髪を白雷の手が払うと、ぱっちりと大きな目を瞬かせた。

 彼は小さく口を開き、消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。


そら、へんだ」

「……ええ、変なことが起こっていますね」


 白雷は努めて穏やかな口調で答えると、ゆっくりと息を吐いた。

 雨音にかき消されて聞き取れないほど小さな声で、それでもはっきりと口に出す。


「でもこの雨は、瑞兆よいことですよ」



***




 天幕の中に入り、数人の兵士たちに声をかけて彼らに着替えを持ってくるように頼みながら威遼は濡れた髪を手巾で拭く。まだ赤みが引かない毛先を怪訝に見ながら着替えを受け取り、部下たちが慌ただしく天幕を出るのを待ってから、口を開いた。


「それで、どうしますか」


 その問いに、白雷は数拍考え込んでから慎重に言葉を選ぶようにして言う。


「威遼殿が見聞きしたものを前提として推測すると、最も障害になるのは『頭巾の男』かと思います。まあその人の正体はなんとなくわかっているんですが、こればかりは徐福殿に話を聞いてみないと確定できません。問題は、彼がどこまで知っているか、ということで」


 白雷は簡易的な寝台の上に腰掛けながら一度言葉を切り「ふーむ」と腕を組んだ。彼の脳裏では様々な可能性と憶測が渦巻いているのだろう。威遼は白雷がまたあれこれと口に出しながら思案している様子を見ながら、ぼうっとしたままの拿柯の頭に布をかぶせてわしゃわしゃと髪を拭いてやる。どちらにしろ判断は白雷に任せたほうがいいことは確かだった。

 しばらくしてから威遼はひとつ咳払いをする。

 白雷は相変わらずなにかを考えているようで視線が宙をさまよっていたが、威遼のしぐさに気づくと寝台の上で体勢を変えた。こちらの意図が伝わっていないようなので威遼はもう一度咳払いをし、とりあえず顔を背けつつ白雷の肩にかかったままの外套のえりを閉めた。


「お着替えなさったほうがよろしいかと」

「……ああ、なるほど!」


 威遼の言葉にようやく意図を察してくれたらしく、白雷は少し照れたように笑った。

 やはり疎いというか、聡明なわりに危機管理能力が足りていないというか、無防備すぎるというか――そんなことを思いながら、威遼は内心で首を振っておく。そもそも絹の衣などという高級品を雨に濡らして平気である時点でおかしいのだ。そういうところに無頓着なのだろうということは日頃の様子から察せるが、部下からすればそれを気にかけないでいられるわけもない。兵士たちの胃痛を減らすためにも、もう少し配慮をしていただきたいところである。

 白雷はとりあえずといったふうに外套の内側でもぞもぞと身じろぎをする。ややあって水を含んだ羽織が足元に落とされた。続けて肌にはり付いたうわえりを緩める。絹衣に染み込んだ水分が肌から離れていく感覚にほっとしたのか、白雷は安堵の息を吐いて外套を外した。

 そしてそのままの勢いで下裳の帯を緩め始めたのを見て、威遼は慌てて制止の声をあげた。


「なっ! お、お待ちください、すぐ外に出ますから!」

「? いえ、別にお気にせずとも。雨が降ってますし」

「気にします! たいていの者は気にしますので!」


 必死の形相でまくし立てる威遼の姿に、白雷は唇を尖らせながら渋々と言った様子で服を脱ぐのをやめてくれた。威遼は思わず脱力しそうになるのをなんとか堪え、胸を撫で下ろす。先の件といい、今回といい、着替えを見られることに抵抗がないのもおかしいだろう。下手をすれば重大な秘密が知られてしまうかも――いや自分はもう知っているのだが、だからといってそれを口にできるはずもないので、今は他人が巻き込まれないようになんとか制さねばならない。


(というか、ここまで大胆に振舞っているのに、本当に誰も気がついていないのか?)


 もしそうなら、ある意味で周囲の人間はかなりの猛者揃いではなかろうか。いくらなんでもこんな様子であれば、側近のひとりくらいは勘づきそうなものだが。

 いや、むしろここまで無防備であるから、まさかそんなことがあるはずはない、と無意識のうちに否定しているのかもしれない。そうでなければここまで発覚していない理由がわからない。

 いかに皇帝の腹心であれ、公に性別を偽っていることが知られれば、さすがに処罰は免れないはずだ。場合によっては『主上をたばかあざむいた』として首を刎ねられる可能性もある。つまり命の危機にも瀕しかねないのだが、白雷はまるで気に留めている様子がなかった。

 まあその、こう言ってはなんだが決して豊満とは言い難い直線的な身体つきだし、大口を開けて笑うしぐさの豪快さやら、兵士たちにも親しげに接して肩を叩く様子やらを総合的に考えれば、女とわかる要素はほとんどない。というか、この国で一般的に女性の美徳とされている慎ましさや淑やかさなど、白雷には皆無である。そういったところを鑑みれば、たしかに彼のことは男としか思えないだろうし、威遼もつい最近まで騙されていた一人なのだった。

 しかし、やはり実際に女が男のふりをしているのだから、直接見られる可能性がある以上、あまり人目につくところで着替えをするべきではないとも思う。そもそも白雷は文官である。武官であれば訓練の最中に邪魔な上衣を脱ぎ捨てることなど日常茶飯事だが、基本的に室内で事務作業に追われているような尚書省の役人は、衣類が多少乱れることはあれど大っぴらに肌を晒すことなどまずないだろう。せいぜいが羽織物を外したり、襟を少し緩めたりといった程度のはずだ。

 そんな威遼の懸念をよそに、白雷はまだ不満げな表情で首を傾げた。


「でも、威遼殿に見られたら困るようなものは何もありませんけど」

「そういう問題ではない……」


 威遼はがっくりと肩を落として項垂れた。なんとなく頭痛がしてきた気がする。

 人にちょっかいをかけて遊ぶくせに、こういうところには頓着しないのはなぜなのか。よくもまあこれまで無事に生きてこられたものだ。いや、彼が自分の身を守れるくらいに強いことは先日よくわかったけれども、それにしたって程度というものがある。


「うーん、威遼殿は意外と恥ずかしがり屋ですね?」


 しみじみと言われて、威遼は黙ったまま頭を抱えた。どう考えてもおかしいのは白雷のほうだと思うのだが、これ以上会話を続けていては疲れてしまいそうだ。一縷の望みをかけて拿柯のほうに視線を向けてみたが、当然赤髪の少年は興味なさげに足元を見ていて、威遼の視線に気づいてもいない。というか眠そうにしているし、半分ほど眠っているような状態だ。

 威遼はひとつため息をついて、白雷に背を向けたまま言った。


「お疲れのようですから、拿柯殿を寝かせてきます。その間にお着替えをなさっていてください。お召し物は」

「仕方ありませんねぇ。わかりました。終わったら徐福殿のところで落ち合いましょう」


 威遼は白雷の返答を聞いて内心で胸を撫で下ろしつつ、うつらうつらと舟をこぎはじめた拿柯にひとつ声をかけて抱き上げた。

 抱えられた少年は大した抵抗もせず、むしろぐにゃんと猫のように伸びた。思っていたより柔軟性のある彼に驚きつつ、そのまま眠ろうとするのでできるだけ無理のない姿勢になるよう注意しながら担ぎ、天幕を出て出入り口の覆いを下ろした。

 外は相変わらず雨が降り続き、雨具をつけた数名が武具や物資の確認に勤しんでいる。威遼は腕の中の少年ができるだけ濡れないように抱え直してから、天幕の簡易的な軒下を小走りに渡っていった。

 嚶鳴と張は医務に当たる兵士らとともに徐福の容態を見ているだろう。主人のもとに連れて行くべきなのか、それとも彼女たちが使っている天幕で先に寝かせたほうがよいのか。威遼は少し迷ったものの、白雷とは徐福のいる場所で待ち合わせる約束をしたこともあり、前者を選んだ。

 ぬかるみかけている地面に足を取られないよう注意しながら進んでいく途上、ふと、威遼はあることに気がついた。


(仙人に、眠りは必要なのだろうか)


 一般的に、仙人は不老不死である。ただ張や白雷の説明では、彼らもあくまで『死ににくい』というだけだ。老いないために不死なのであって、なんらかの形で肉体そのものが滅せられてしまえば必然的に死ぬことになる。

 では、脳はどうなのだろうか。眠りとは体だけではなく、脳――すなわち精神の休息だ。体を休めなければ疲れや痛みが取れず、動きに支障が出るように、仙人であっても頭を休ませなければ思考や判断力が鈍ってしまうのではないだろうか。

 もしそうであるなら、仙人の体は疲労を感じなくとも、精神的な疲労や負担は蓄積していくということになるのではなかろうか。


(拿柯殿はこうして眠ろうとしているようだし、少なくとも睡眠を欲しているのは間違いないはずだが)


 彼は朝も威遼の上で丸くなって眠っていた。嚶鳴の話では、拿柯はまだ正式な仙人ではないそうだが、それでも通常の人間と大きく違うことは明白である。人らしからぬこの少年が眠ろうとするのは、仙人もまた人の延長にあるということなのか、それともまだ彼が完全に仙道を修められていないということなのか、はたして。


 ――どちらにしろ、尚書令や張に聞けばわかることか。


 目当ての天幕にたどり着き、入り口の覆いを開く。

 内部では火が焚かれており、雨のそぼ降る外に比べて温かく感じた。濡れていたせいか、予想より体が冷えていたようだ。つい最近まで暑さに眉を顰めていたというのに、いまはその温度が心地良く思う。

 少し体を揺らして肩に乗った水粒をいくらか払い、夏の終わりを告げるそれにわずかに視線を向けてから、威遼は天幕の中へ足を踏み入れた。

 北は寒く乾いた土地だ。これが慈雨じうであるならば、きっと長雨になるだろう。

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遠雷の都 高田あき子 @tikonatu

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