第20話 生きとし生けるならば

 冷たい木目の床に、膝を抱えて座っている。

 背を壁につけて蹲るように、あるいは生命の海におよぐ胎児のように、私はただ座っている。

 目前に佇む無貌の亡霊を、視界にいれないために。


 恐怖は、生命の叫びなのだと思う。


 それらが与える無知に対する警告は、ときに死の衝動を呼ぶほどに人間を脅かす。しかしそれは、人間が人間として生きるために必要なものでもあるはずだ。恐怖なくして人が続くことはない。それはきっと、人が人で在るかぎり変わることのない事実なのだろう。

 だから、私は目前の地獄から目を逸らす。

 この世界が現実であることを確かめるために。自分がまだ生きていることを確認するために。そして――まだ私にやれることがあるのだと、信じるために。

 ゆっくりと息をつく。耳を塞ぐ。口を閉じる。それでも聞こえてくる、悲鳴のようなさけび。私に縋りつき、救いを乞うてわめく無数のえん。……ああ、まただ。

 どうしてこんなにも聞こえるのか。なぜいつもこうなのか。もううんざりするくらい繰り返している。なのにいつまでたっても慣れることができない。慣れなければ、と思ってもうまくいかない。どうすれば克服できるかなんてわからない。ただこうしてやりすごすだけだ。嵐が過ぎ去るのを待つように。時の流れに身をゆだねて、ひたすら耐えている。

 だから、だから、こちらを見ないでほしい。私には、ただひとりを助けるだけで精いっぱいなのだから。

 それ以外のことは、何もできないのだ。他の誰かに手を差し伸べる余裕などどこにもない。ましてや、助けを求める声に応えることなんて……わかっていますよ。あなたたちにはそれができないと。そんなことはできないと、知ってますとも。

 だからせめて、黙っていてください。

 どうかお願いです。私の邪魔だけはしないで。

 だって仕方がないじゃないですか。それしか知らないんです。私は聞こえるだけで。見えるだけで。わかるだけで。それだけなんですよ。他には何もできないし、しようと思わない。できることならやってます。でも、できないんです。

 だから、放っておいてください。…………ごめんなさい。

 心の中で、何度も繰り返す。

 本当に申し訳ありません。許してください。お詫びします。謝ります。何度でも謝罪します。だから、どうか……いいえ、違う。これは言い訳だ。……そうですね。私は怖いんだと思います。

 私はいつまでも、弱いままだ。



***



 気を失っていた、というのが正しいのだろう。

 肩を揺さぶられて、きょう、と名を呼ばれる。その声に導かれるように意識を取り戻して目を開くと、薄暗い部屋の中にいた。目の前にいるのは誰だったろうか。顔がぼやけてよく見えない。ただ、自分よりずっと大きな手だということはわかった。それがとても温かく感じられたから、安心した。


「大丈夫か、姜里」


 問われても、ぼんやりしたまま答えられなかった。まだ頭がぼうっとしている。自分は何をしていたんだろうか。ここはどこなんだろう。いまは朝なのか、昼なのか、それとも夜なのか――感覚が曖昧になっている。

 ゆるりと首を振った。少しだけ考える時間が必要だった。それからもう一度目を閉じて、今度はきちんと意識して思考を動かす。

 しかし記憶を呼び覚ます前に誰かの手が伸びてきて額に触れた。姜里は反射的に身体を強張らせたが、相手は気にせず「まだ少し熱いな」と呟く。すぐに離れていく指先を追うように視線を動かすと、そこにあったのはよく見知った顔。


「……ああ、こう様。あなたでしたか」


 ほっとした途端に力が抜けて、そのまま倒れそうになってしまった。慌てて伸ばされた高埜の腕を掴んでなんとか踏み止まったが、目眩なのか視界が歪んで気持ちが悪い。姜里は眉を寄せ、無意識に口元を押さえていた。

 ようやく意識がはっきりしてきたものの、体中が軋むような痛みと強烈な倦怠感が襲いかかってくる。頭の奥はずきずきと痛むし、喉も渇いているようだ。乾いた唇に指先で触れてみると、知らないうちに嚙み切ってしまったらしく、鉄の味がした。

 身体の内側からじわじわ染み出てくるような不快感が絶え間なく襲ってきていっそう気分が悪くなる。風邪を引いたときに似ているが、それよりもずっとひどい。身体の奥底にある何かが暴れていて、それを無理やり押さえつけているような――とにかく不快なことこの上なかった。できれば何も考えたくないが、そういうわけにもいかないらしい。

 姜里は、はあ、と息を吐きだした。


「陸将軍の容態はいかがです?」

「まあ、無事だとは言い難いがな、そこまで心配するものでもない。ちゃんと生きてるぞ」


 そう言って高埜はにかりと笑う。やや曖昧な物言いだが、それは姜里に無用な心労を与えないためだろう。その優しさに感謝しながらも、やはりそう簡単に事態が好転しないのだと、事の深刻さを改めて思い知る。

 こうしている間にも、陸淡は死へと近づいているのだ。刻一刻と終わりの時は迫っている。暦を示すものがないこの部屋では、威遼らが王都を発ってどれくらいの時間が経っているのかわからない。焦燥感で押し潰されそうになる。

 それでも姜里は気丈な態度を取り繕い、無理矢理に口角をあげてみせた。

 普段と変わらない態度で接してくれてはいるが、高埜の心痛も如何ばかりだろう。ただでさえ仲間想いで責任感の強い人だ。僚友が死の淵に瀕している状況、そのうえそれを繋ぎとめている己の腹心が目の前で苦しんでいるというのに、彼はただそれを見守るほかないのだ。その心境は察するに余りある。

 せめて、少しでも負担を減らすことができればいいと思った。

 だからあえて笑ってみせるのだ。姜里が笑顔を見せると、なぜか周囲はひどく安堵したような顔になる。

 今もそうだ。

 そうすればほんの少しだけ、目の前の人も安心してくれる。

 それでいい。自分がどんな顔をしているかなんて、自分には見えない。だからこれでいい。これがいい。鏡に映せば目も当てられないような醜い顔でも、見えなければ気にならない。ああでも上手く笑えただろうか。高埜の反応を見る限り、きっとできたはずだと思うけれど。

 そう思ったら、すこし気が楽になった。


「事務はどうですか。また山のように溜まっていなければいいのですが」

「はは、そっちはどうしようもないなあ。お前がいない間はどこもかしこも大変だ。さすがの俺でも手が回らん」

「あなたはいつものことでしょう」

「違いねえな!」


 言葉を交わしながら高埜の手を借りて寝台から降りる。姜里の肩から黒檀の髪がするりと流れて落ちた。普段は神経質なくらいにきっちりと結い上げているため、こうして下ろしたままにしているのは些かの違和感があり、なんだか落ち着かない。とはいえ床に臥せることが多くなる現状だ、起き上がるたびに結び直してはきりがない。仕方なくそのままにしておいて、痛む節々をゆっくり息を吐きながら伸ばした。

 背伸びをするのも何時間ぶりだろうか。筋肉の強張りを時間をかけてほぐしながら、頭の中では思考を整えていく。これからやるべきことを頭の中で順序だてて組み立てると、次第に気分も落ち着いてきた。


「さて、私は一度身を清めてから陸将軍のところへ参ります。高埜様はどうなさいますか」

「ああ、俺はちょっと寄っていくところがあるから、先に行っているといい」

「どちらまで?」

「まあ、内緒だ。お前が心配するようなもんじゃないから、そこは安心していいぞ」

「……へえ」


 そう言うと、高埜は姜里の背中をぐいぐいと押して部屋から出した。隠し事をされるのは面白くないが、高埜には高埜の考えがあってのことだろう。深くは追及せずじとりと睨むだけにしておいた。下手な詮索で彼を煩わせたいわけではない。

 盛大なため息をつきながらも高埜と別れて廊下を進む。

 まだ残暑の時季だというのに肌寒く感じるのは体が発熱しているせいだろうか。簡素な造り兵舎、その回廊をいつもよりは重い足取りで進んでいく。ときおりぺたぺたと裸足で板張りを歩く音が聞こえたりするけれど、視線を向けてもそこには誰もいない。見慣れてしまった風景だ。見えない筈の闇は、姜里にとってはもう日常の一部になっている。


 ふと視界の端に捉えた光景に、足を止めた。

 視線を向けるとそこにいたのは小柄な影。姜里よりもずっと年若い少年兵が、壁際で膝を抱えて座り込んでいた。その隣には同じ服装の友人らしき者もいる。どちらも姜里のほうを一顧だにせず、まるでここに存在しないかのように振る舞っている。

 彼らもまた眠れないのだ。

 姜里は彼らに近づき、目の前に立つ。

 反応はない。虚ろな瞳をぼんやりと宙に向けているだけだった。名を呼んでやりたいが、姜里は彼らの名を知らない。たとえ呼べたとしても、それ以上のなにができるというわけでもなかった。

 だからひとつ息をついて、彼らの姿を掻くように一閃、腕を振った。

 周囲の空気が乱され空間ごと歪むようにが生じる。陽炎のように揺らいだそれは、次の瞬間ぱっと霧散した。残されたのは二つの人影が失われた、普段と同じ回廊の壁。

 何もなかったかのような静寂と、二人のいた痕跡を僅かに残す冷気。

 姜里は少しだけ襟を正して、再び歩き出した。

 自分にできることはこれくらいだ。天にげるでもなく、地に縛るでもなく、ただに侵されないよう隠すことがせいぜいで。


(死んでしまえばそんなものだ)


 だから生きているうちにすべてを終わらせなければいけない。

 すべての未練も、悔恨も、迷いも、何もかも。

 すべてが過ぎ去ったあとでは、手遅れなのだ。

 姜里は胸元に手を置いて、服の下で熱を帯びた黒曜を確かめていた。

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