第13章 新世界より

 1520年5月27日、エルナン・コルテスは夜闇に乗じてメキシコ湾にほど近い中米センポアラにある敵の本拠地を奇襲した。残念ながら完全な奇襲にはならず、敵から激しい反撃を受けることになった。それでも彼は敵の首領を追い詰めてこれを捕らえることに成功、どうにか敵の抵抗を鎮めることができた。だがコルテス軍にはいくらかの死者が出ており、その中には敵の大砲や銃にやられた者がいた(01)。


 もちろんアステカなどのアメリカ原住民が、有名なコンキスタドールであるコルテスを相手に火薬兵器を使って抵抗したわけではない。コルテスが相手にしていたのは、同じスペインのコンキスタドールであるパンフィロ・デ・ナルバエス。コルテスと不仲であったキューバのスペイン総督が、彼によるアステカ征服事業を邪魔しようと送り込んできたのがナルバエスだった(02)。だがコルテスはこのセンポアラの戦いで彼を倒し、その部下を吸収してさらに自らの戦力を増やした。

 仲間内で殺し合いを演じていたのはスペイン人だけではない。アメリカ原住民同士も互いに相争っていた。例えばアステカ侵攻に際し、コルテスは彼らと敵対していた部族であるトラスカラと同盟を結び、その兵とともに戦っている(03)。原住民たちにしてみれば隣の部族も海の向こうから来た者たちも、余所者という点に違いはなかった。

 旧大陸の西欧文明が新大陸のアメリカ原住民と接触した時に何が起きたかを語る際によく引き合いに出されるのが、ピサロとインカ帝国が最初に武器を交えた1532年のカハマルカの戦いだ(04)。スペイン軍が一方的に勝利してインカ皇帝アタワルパを捕らえたこの戦いは、確かに両大陸文明の格差を示す分かりやすい事例だ。だが実際にはこの時、インカは南北に分かれて争った残虐な内戦の末期にあり、ピサロはその分裂を利用したとも言われている(05)。上に紹介したコルテスの話からも分かるように、現実は「西欧対新大陸」と単純化できるようなものではなかった。


 もちろんコンキスタドールとアメリカ原住民の間にはこれ以上ないほど明白な軍事技術の格差があった。そもそもインカ帝国は西欧人がやってくる直前の15世紀半ばにようやく青銅製の武器を作り始めたばかりだったし(06)、アステカに至っては棍棒の両側に磨製石器の刃を並べたようなマクアフティルという名の兵器を使っていた(07)。火薬革命どころか、それ以前の鉄器・騎兵革命段階にすら達していなかったわけで、西欧の持つ軍事技術との差は5000年近くに及んでいたと言える。

 そのせいか、実は初期のコンキスタドールが使った兵器のうち、最も効果的だったのは鉄製の剣だったとの指摘もある。アステカのマクアフティルも、刃先に青銅を使ったインカの斧も、十分な長さと堅牢さを持つ鉄の剣を相手にした時にはおよそ役に立たなかったようで、多くの記録で剣を使ったスペイン人による一方的な殺戮が語られている(08)。もちろん、新大陸に存在していなかった騎馬の存在も大きかった。

 特に重要とされる戦いでは剣と騎兵の活躍を語った記述が目立つ。カハマルカの戦いについてピサロの秘書が記した記録によれば、銃はトランペットと一緒に攻撃の合図に使われただけで、実際に殺戮を成し遂げたのは騎兵の突撃と、歩兵が振るった剣であった(09)。コルテスがアステカ相手に収めた最も圧倒的な勝利と言える1520年7月のオトゥンバの戦いでも、原住民の大軍を蹴散らしたのは騎兵による突撃であり、歩兵の剣であった(10)。どうやら西欧勢にとっても、まだ使い始めたばかりの目新しい軍事技術である火薬兵器より、2000年の歴史を持つ枯れた技術を使用した武器の方が効果的だったようだ。

 もちろん火薬が全く役に立たなかったわけではない。例えばコルテスは1519年、メキシコ沿岸のタバスコに上陸しようとした時、矢を射かけてくる原住民を相手にまず大砲を撃ち、それから突撃して上陸に成功している(11)。一方でこの時期の西欧人の中には火器の扱いに慣れていない者もいたようで、1540年代にペルーで行われた戦いでは大砲があまりに拙い配置だったためにほとんど弾道が高すぎたか目標を外したと書かれている(12)。場面ごとに活躍度は違っていたが、トータルで見ると火薬の効果それほどでもなかった、という状況だったのだろう。

 16世紀初頭の時点ではどの国も大砲の数は限られていたし、またアメリカ大陸では道路や河川交通が発達していたわけでもないため、特に内陸部への火器輸送には多大な困難が伴った。加えてスペインが侵攻した地域の大半が熱帯もしくは亜熱帯で、湿気が多いために火薬が使い物にならなくなるケースもあったようだ(13)。旧大陸で火器が使われていたのはその大半が温帯や乾燥帯であり、中南米での使用が火器にとって不利な条件下で行われた面もあるのだろう。

 さらに軍事技術の優位だけで勝てない場面もあったのを忘れてはならない。コルテスは一度はアステカの首都テノチティトランから追い出されているのだが、その時の原住民相手の戦闘では、大砲や銃、クロスボウを放ち、鉄の剣を使った突撃まで組み合わせて戦ったにもかかわらず、敵に攻撃を諦めさせることができなかった(14)。技術面で優位にある軍であっても他の不利な条件のために敗北する事例は、古今東西を問わず枚挙に暇がないのはよく知られている。

 ある研究者は、文明化された兵士たちが原始的な戦士に勝つことができるのは、敵と同じ戦術を採用した時だけだと主張している。より機動的な部隊を編成し、動きの鈍い大砲を捨て、隊列を組むのではなく散兵戦術を取り、待ち伏せや襲撃、居住地への奇襲に頼る。そして地元民を案内役や補助的な兵力として使うといった方法だ(15)。実際、17世紀半ばにブラジルで起きたポルトガル軍とオランダ軍の植民地戦争では、参加したオランダ人が敵の地元兵について「かなりの速度と敏捷さで森を徘徊し、沼地を渡り、丘を登ったり下ったりすることができる」と記す一方、オランダ軍は「祖国と同じように密集した隊列で並び、地形に合わない鈍重で締まりのない動き」をしていたと指摘している(16)。

 コンキスタドールたちが圧倒的少数でアメリカ原住民を相手にできた理由の一つに軍事技術があるのはおそらく間違いない。だが、それだけが原因だと考えると間違える。実際には彼らの新大陸制覇はかなりグダグダな面もあった。


 むしろ新大陸に火器の影響力が本格的に浸透していくのは、それを持ち込んだ西欧人だけでなく、原住民たちが使い始めてからと見た方がいいかもしれない。実は16世紀後半にメソアメリカで行われたチチメカ戦争の頃から、既に火器で武装した原住民がスペイン軍を相手に戦う動きが始まっていた(17)。また1558年には南米チリのマプーチェ人がキアポの戦いで銃と大砲を保有していたという目撃者の記録がある(18)。同時代の歴史家によれば、彼らは城壁から2門の大砲と7-8丁のアルケブスを撃ってきたが、効果はなかったという(19)。

 ただし原住民たちは、別に海の外からの侵略者と戦う目的のためだけに火器を使い始めたわけではなかったようだ。トラスカラとアステカが争っていたように、アメリカ原住民にとっては他の原住民の方がよほど伝統的に根深い敵であるケースも多かった。彼らはその敵を出し抜くために、あるいは敵に先を越されないために、西欧人が持ち込んだ最新の軍事技術に注目した。

 例えばモホーク族など主に5つの部族で構成されていたイロコイ連邦。国家というより相互不可侵を約束した部族の連合体という性質を持った勢力だったが(20)、西欧人が植民を始めた場所に近い現在のニューヨーク州北西部に勢力を張っていた利点を生かし、銃や火薬、弾丸を手に入れるようになった。当初はフランスから、17世紀初頭にフランスと敵対関係に入ると今度はオランダから銃を入手した彼らは、1640年には2000人の戦士を銃で武装させ、親フランス派の他の部族を攻撃するようになった(21)。

 もちろん親フランス派、というか反イロコイ派の原住民部族も火器で武装し、対抗した。彼らの西方にいた部族はフランスの武器を、南方の部族はヴァージニア植民地の英国の武器を使って、1670年代にはイロコイ連邦の拡大をせき止めた。オランダの北米からの撤退後もイロコイは英国から支援を受けて戦いを続けたが、ようやく18世紀に入ってフランスと彼らに同盟した原住民部族の攻撃にいくつもの村を破壊され、フランスとの講和条約に合意した(22)。

 イロコイ族に限らず、北米の原住民たちが銃を手に入れる主な手段は毛皮貿易だった。西欧側にとっても毛皮の入手は重要で、植民地当局の中には銃が原住民に渡るのを防ごうとする試みもあったがうまく行かないことが多かった。英植民地が原住民に銃を売るのを禁止するような法令を作った際には、原住民の襲撃を恐れた植民者たちが反乱を起こしたほどだ。友好的な原住民たちは取引相手だけでなく、敵対的な原住民や他の植民地からの攻撃を防ぐ強力なバリアにもなった。彼らの協力を得るために西欧側が銃などを原住民のリーダーたちに贈呈したり、鉄砲鍛冶を送り込んで銃の修繕を手助けした例も珍しくない(23)。

 西欧諸勢力間の対立も、銃が原住民の手に行きわたるのを助けた。スペインは原住民たちに武器を与えないことを原則にしていたが、北米では彼らと敵対するフランス、英国などが原住民にどんどん武器を売っていたために、対抗上自分たちに友好的な原住民には武器を贈呈せざるを得なかった。それに敵対的な原住民は結局他国、あるいは他の原住民たちから銃を手に入れていた(24)。また原住民は時に西欧側の交易拠点を襲い、そこから物資を奪っていくといった行動も見せたという。スペインが武器を含む交易を効果的に広められたのは北米太平洋岸のみで、ここは19世紀になって進出してきたロシアくらいしか他の武器提供勢力はなかった。

 18世紀には銃の存在は北米の奥地にも広まっていき、グレートプレーンズの好戦的な部族たちも銃を手に戦うようになっていった。それまでは水牛皮の盾を使って弓矢の攻撃を防ぐことができたため、戦いでもほとんど死者が出なかったが、銃の登場で戦闘の様相も変わっていった(25)。さらに西の山岳部に住む原住民たちも19世紀の初頭には銃を手に入れるようになった。西欧による植民地支配よりも先にユーラシアから持ち込まれた病原菌がアメリカ大陸に広まったことはダイアモンドなどが説明しているが、銃もまた先行して広まったユーラシア起源の物の1つと言える(26)。

 彼らは銃を持たない原住民を相手にするときは銃傷がもたらす心理的なインパクトを利用して敵を逃亡させ、どちらも銃を持っている場合は信頼性の高い弓矢に頼り、西欧人を相手にする際には先に撃たせたうえで再装填中に弓矢で攻撃した(27)。そうやって新大陸では原住民同士、西欧勢力同士も常に争い合い、むしろ原住民は西欧側に、西欧側は原住民に同盟者を探し、時に裏切りをしながら自分たちの利益を増やすことに奔走していた、というのが実態だ。自分たちの部族以外は基本信用せず、自力救済のため武装するという発想は、国民の銃武装を権利として認める現代米国の銃文化にまでつながっているという説もある(28)。

 原住民、西欧人のみならず、アメリカ大陸に連れてこられたアフリカの黒人も含め入り乱れて戦った最も極端な例の一つが、1648年と49年にブラジルで行われたグァララペスの戦いだろう。ブラジルとオランダの植民地戦争という位置づけだが、ブラジル側で戦った部隊の中にはポルトガル兵の他にインディアン、解放黒人、ムラートの傭兵たちなどが含まれていたし(29)、オランダ側にも主力の他に200人のインディアン、2個中隊の黒人部隊がいた(30)。西欧対原住民という構図が単純すぎることが分かる。

 だが争いの実態がそうだったとしたら、なぜ最終的に西欧植民者が原住民に対して圧倒的な優位に立つことになったのだろうか。一つヒントになりそうなのが、銃の使用ではなく製造分野における両者の格差だ。西欧勢は銃を売りさばいていたことから分かる通り、普通に自分たちで銃を製造していた。だが原住民側にはその能力がなかったようで、そのため例えば17世紀のイロコイ連邦と英植民地やその同盟部族の間で行われた戦争では、ほんの数ヶ月で補給を断たれ火薬不足に陥ったイロコイ側があっという間に追い詰められている(31)。

 もちろん彼らも対応策は考えた。例えば銃の修繕ができるよう西欧の鉄砲鍛冶を派遣してもらうだけでなく、自分たちの間で鉄砲鍛冶の育成に取り組んだ部族も一握りだが存在した。上に述べたイロコイ連邦は2人の原住民と1人の英軍捕虜に鉄砲鍛冶の仕事をさせていたそうで、英軍がとあるイロコイ連邦の拠点を奇襲した時にはそこにある鉄砲鍛冶の工場2つと工具、そして弾丸の材料となる大量の鉛を破壊したという(32)。時には敵対する部族の鉄砲鍛冶に修復を頼んでいた例もある(33)。弾丸の製造になると一握りにとどまらず多くの部族でも行われていたし、中には自前で火薬を作ったリパン・アパッチ族のような者たちもいた(34)。

 しかしそうした取り組みをしても、結局ゼロから銃を製造できる西欧勢との格差は埋まらなかった。17世紀後半に英ハドソン湾会社はクリー族に1万100丁のフリントロックを売っていたが、18世紀後半のアメリカ独立戦争時にも英国はインディアン銃4万4000丁、ライフル銃1700丁、ピストル1600丁を原住民に供給する役割を果たしていた(35)。19世紀の半ばに書かれた手紙の中に、ようやく「銃を自力で製造した最初のインディアン」(36)に関する言及が出てくるが、それまで彼らが自前でできたことは、せいぜい故障したフリントロックの機構を修繕するくらいだったのだろう。西欧勢からの補給が断たれてしまえば原住民の部族側に勝利の可能性はなく、そうした事象が何度も起きていくうちに原住民側はどんどん追い詰められていった。

 火器に接触した原住民たちが、積極的にその利用を進める一方で本格的な製造に踏み込まなかったのは、鉄砲伝来からほとんど間を置かずに鉄砲を自作した日本人にとっては、不可解に見える現象だ。考えられる理由の1つは、彼らの社会における金属加工技術の不足だ。修繕ならともかく原料から自前で作ろうとするには、それを支える幅広い技術や産業の裾野が必要。だが彼らにはそうしたものはなく、従って銃も購入する以外に手がなかったのかもしれない。実際、アメリカ原住民は銃だけでなくトマホークやナイフといった他の金属製品も西欧勢から手に入れていたそうで(37)、銃をゼロから作る能力はなかった可能性がある。

 もう1つはコストだ。自前で火器を製造するためには多大な投資が必要になるし、満足のいく製品が出来上がるまでに時間を要する。一方、他部族との抗争で優位に立つためにはできるだけコストをかけずに大量の武器を手早く揃えることが必要。そうした需要は西欧側も把握しており、彼らはアメリカ原住民向けに製造コストや輸送コストを下げた安価な銃を作って売りさばいていた(38)。あるいはこの2つの理由どちらも原因になっていたのかもしれない。


 火薬技術は単純に原住民に対する西欧人の勝利をもたらしたのではない。実際には原住民も西欧人も、自分とその同盟者が生き残るために火器を使ったバトルロイヤルを延々と繰り広げていたのが実態だ。同じ現象は他の旧大陸以外の地域、例えば人類が南極以外で最も新しく足を踏み入れた土地の1つであるニュージーランドでも起きていた。やはりいくつもの部族に分かれていたマオリたちは、西欧人と接触した後にフラックスという織物を売って銃を購入するようになり、それを原住民同士の戦争に使った。

 銃が使用された争いは早いものだと18世紀末から始まったが、本格的なものとしては19世紀前半に繰り広げられたマスケット戦争が有名だ(39)。数十年にわたって続いたこのマオリ各部族間の抗争は、それに伴う飢餓の影響なども含めて8万人もの人命を奪ったとの推計もある(40)。西欧人がニュージーランドの植民地化に動き始めたのはマスケット戦争が終わった後であり、それ以前から銃がマオリ社会を大きく変貌させていたことが分かる。

 そう、銃は新大陸を大きく変えてしまった。それは戦争だけでなく昔ながらの狩猟法を原住民が失っていくきっかけにもなったし、彼らが欧州との交易に依存する度合いも高めた(41)。そして最後には原住民の文化がほぼ消え去る結果をもたらした(42)。かつてはそれぞれ独自の文化を持っていた新大陸は、今では移植された西欧の文化に飲み込まれた地域となっている(43)。火薬革命は新大陸を根底から塗り替えてしまったのだ。

 他にも文化が消えるところまでは行かなかったが、社会の在り方を大きく変えられた地域がある。人類発祥の地、サブサハラ・アフリカだ。



01 Bernal Díaz del Castillo, The True History of the Conquest of New Spain, Vol. II (1910), pp207-208; Francis Augustus MacNutt, Letters of Cortes, Volume One (1908), pp282-283

02 Ed. Rebecca M. Seaman, Conflict in the Early Americas (2013), pp400

03 MacNutt (1908), pp207-208

04 ジャレド・ダイアモンド, 銃・病原菌・鉄 (2012), 第3章

05 William R. Thompson, The Military Superiority Thesis and the Ascendancy of Western Eurasia in the World System (1999), pp161-162

06 Ed. Helaine Selin, Encyclopaedia of the History of Science, Technology, and Medicine in Non-Western Cultures (2008), pp1661

07 Ross Hassig, Aztec Warfare: Imperial Expansion and Political Control (1988), pp83-84

08 Matthew Restall, Seven Myths of the Spanish Conquest (2021), pp143; Thompson (1999), pp163。ただし、少し時間が経過すると火薬兵器がアメリカ征服に効果があったという言及が登場するようになり、例えば17世紀初頭にペルー先住民が記した歴史書には攻撃に際してアルケブスも使われ、原住民を恐怖に陥れたと記している; Felipe Guaman Poma de Ayala, El primer nueva corónica y buen gobierno (1615), pp387-388

09 Sir Clements Robert Markham, Reports on the Discovery of Peru (1872), pp55

10 Díaz del Castillo (1910), pp251-252

11 MacNutt (1908), pp148

12 Clements R. Markham, The War of Chupas (1918), pp278

13 Restall (2021), pp143

14 MacNutt (1908), pp288-289; Díaz del Castillo (1910), pp232

15 Turchin, Ultra Society (2016), pp121-122。西欧人が原住民の戦法を導入した結果、ライフル(第12章)の利用がアメリカで広まったとの説もある; Priya Satia, Empire of Guns: The Violent Making of the Industrial Revolution (2018), pp281-282

16 Charles Ralph Boxer, The Dutch in Brazil, 1624-1654 (1973), pp215

17 Thomas Frank Schilz and Donald E. Worcester, The Spread of Firearms among the Indian Tribes on the Northern Frontier of New Spain (1987), pp1

18 José Toribio Medina, Colección de documentos inéditos para la historia de Chile, Tomo XXVII (1901), pp24

19 Juan Mendoza Pinto and Angelo Castro González, Weichafe: El ideal del «guerrero bárbaro» frente a las armas de fuego (2021), pp54

20 David J. Silverman, Guns, empires and Indians (2016): https://aeon.co/essays/how-did-the-introduction-of-guns-change-native-america(2022年10月20日確認)

21 Worcester and Schilz, The Spread of Firearms among the Indians on the Anglo-French Frontiers (1984), pp104

22 Worcester and Schilz (1984), pp105

23 Worcester and Schilz (1984), pp106-107

24 Schilz and Worcester (1987), pp4-5

25 Worcester and Schilz (1984), pp110

26 病原菌や銃以外では、ウマも欧州人との直接接触前に原住民経由で合衆国北西部まで伝わったとの研究がある; William Timothy Treal Taylor et al., Early dispersal of domestic horses into the Great Plains and northern Rockies (2023)。またmusket、powder、shot、knife、file、damned rascal、son of a bithといった英単語なども同様に先行して広まった; Satia (2018), pp271

27 Satia (2018), pp276

28 https://www.thedailybeast.com/native-americans-invented-our-gun-cultureand-yes-we-stole-that-too(2022年10月22日確認)

29 Margaret Ellen Brown, Analysis of the Development of the Tradition of Political Intervention by the Military Classes of Colonial Brazil 1500-1817 (1969), pp64-65

30 Anonymous, Relacion de la victoria qve los Portvgveses de Pernambvco alcançaron de los de la compañia del Brasil en los Garerapes a 19 de Febrero de 1649 (1649)

31 Silverman (2016)

32 Julie A. Fisher and David J. Silverman, Ninigret, Sachem of the Niantics and Narragansetts (2014)

33 David J. Silverman, Thundersticks: Firearms and the Violent Transformation of Native America (2016)

34 Schilz and Worcester (1987), pp5

35 Satia (2018), pp271, 273

36 1848年に書かれた手紙の中に、ノース・カロライナに住むサロラという人物が最初に銃を完全に製造したインディアンだとの記述がある; Charles Lanman, Letters from the Alleghany Mountains (1849), pp111

37 Worcester and Schilz (1984), pp106

38 Chris McNab, Native American Warriors: 1500 CE - 1890 CE (2016), pp79

39 Ron D. Crosby, The Musket Wars: A History of Inter-Iwi Conflict, 1806-45 (1999)

40 S. Percy Smith, Maori Wars of the Nineteenth Century (1910), pp18-19。もう少し少ない推計だと、18世紀末に10万人ほどと見られるマオリ人口のうち、この戦争で疫病などを含めて2万人から4万人が死亡し、さらに3万人が立ち退きを強いられたとの説もある; Timothy C. Winegard, Indigenous Peoples of the British Dominions and the First World War (2012), pp25

41 Worcester and Schilz (1984), pp113-114

42 もちろん原住民の文化を消し去ったのは銃だけではなく、コロンブス交換から100-150年で多くて80-95%の人口損失をもたらした旧大陸発祥の疫病の方が影響は大きかったとの見方も多い; Linda Newson, Pathogens, Places and Peoples: Geographical Variations in the Impact of Disease in Early Spanish America and the Philippines (2001), pp167

43 歴史を統計的に調べる論文では、時に北米やオセアニアを西欧と同じカテゴリーに入れる例がある; Douglas A. Hibbs, Jr. and Ola Olsson, Geography, Biogeography, and Why Some Countries are Rich and Others are Poor (2004)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る