第18章 始まりの終わり

 1796年4月19日、フランス革命政府のイタリア方面軍司令官として、連合軍の一角を占めるピエモンテ軍を相手に戦っていたナポレオン・ボナパルトは、部下たちに命令を発した。コルサーリャ川沿いに防衛線を敷くピエモンテ軍の右翼をセリュリエに、左翼をオージュローに攻撃させる。一方、ピエモンテ軍が守備隊を置いているチェヴァ要塞については、単に1個大隊で包囲するにとどめた(01)。

 この決断は部下のジュベール将軍をおそらく落胆させた。彼はフランス軍がチェヴァを本格的に攻囲するだろうと予想しており、そうすればしばらく行軍せずに休めると期待していたのだ(02)。彼の予想は決して的外れとは言えなかった。なぜならボナパルトは前年から何度も立案したイタリア遠征計画の中で、くり返しチェヴァ攻囲に言及していたからだ(03)。にもかかわらず彼は直前にあっさり計画を放棄。フランス軍主力はチェヴァ要塞を通り過ぎ、ピエモンテの野戦軍主力に襲い掛かる方を優先した。4月20日にはチェヴァ前面に配置していた曲射砲を引き抜いて別の戦線に送り込んですらいる(04)。もはや要塞になど用はない、と言わんばかりの行動だった。

 厳密に言えばチェヴァはルネサンス式の要塞ではない。それはチェヴァ村から北方のペダジェーラまでの稜線上に連なる一連の堡塁群で構成されていた防御施設だった(05)。それでも守備隊を置いた強力な防御施設を後方に置き去りにするような作戦は、ほんの数年前まではあり得なかった。例えば1793年10月に北フランスで行われたワッティニーの戦い。コーブルク公率いる連合軍がモブージュを2万6000人で包囲した際、他の部隊はこの包囲部隊をカバーするように防衛線を敷くのが精一杯で、そこからさらにフランス野戦軍を攻撃するだけの余裕はなかった。これに対しフランス軍のジュールダンは4万5000人を率い、連合軍の防衛線を攻撃して勝利を収め、最終的にモブージュの解囲に成功している(06)。

 連合軍はモブージュ要塞を落とすまで攻囲軍を動かすことができず、他の部隊がパリへと向けて前進する余力もなかった。要塞はそれだけの兵力を足止めできる力を持っていたわけで、要塞がフランスを守ったと言われている(第10章)のもそれが理由だ。だがこの状況はその翌年になって変わった。1794年、フルーリュスの戦いで勝利したフランスのジュールダン将軍は、連合軍が占領しているヴァランシエンヌやランドルシーといった要塞の包囲をシェレールの部隊に任せ、自らは主力を率いてライン河へと前進した。シェレールは孤立した要塞を一つずつ落とし、ジュールダンの後方にある懸念材料を排除していった(07)。

 彼らが要塞を「通り過ぎる」ことができた最大の理由は、フランス軍が前年の総動員でかき集めた兵隊の数にある(第12章)。当時としては図抜けた数の戦力を集めたフランス軍は、一方で要塞を包囲しながら他方で野戦を戦えるだけの兵力を戦場に送り込むことが可能になった(08)。火薬革命が要塞を生み出し、その要塞が多くの兵を動員する社会を生み出したのだが、効率よく兵を動員するシステムが進歩した結果として、ついにはルネサンス式要塞を無効化できるところまで社会が変貌したのが、まさにこの時期だった。

 ナポレオンはこのフランス革命の、そして火薬革命の遺産とも言うべき大量の兵士を使い、欧州を席巻した。その際には彼もまたジュールダンのように要塞には一部の分遣隊のみを充て、彼自身は主力を率いて敵の野戦軍を叩きにいった。1806-1807年のポーランド戦役はそのわかりやすい例の一つ。フランスへの連絡線の側面に位置するシュレジエン地方にある多数のプロイセン軍要塞に対し、彼は弟ジェロームが率いる1個軍団2万9000人を送り出すだけにとどめ(09)、主力はワルシャワまで一気に進んでそこにいるロシア=プロイセン軍と戦った。

 だがナポレオンによる征服は欧州内でナショナリズムを燃え上がらせるきっかけをもたらし、今度は彼の敵たちがフランスのような大量動員に踏み切り始めた。連合軍がナポレオンを相手に結集した1813年、プロイセンは27万2000人、ロシアは29万6000人、オーストリアは22万1000人の兵を供給し、他の部隊まで含めた連合軍の総兵力は実に86万人に達したという(10)。当然、彼らも数多くの要塞を通り過ぎてナポレオンの権力の中心であるパリを目指した。火薬革命の遺産はあっという間に欧州全域に広がった。


 だがこうした変化を通して要塞が無用の長物、過去の遺物になったわけではない。確かにルネサンス式要塞は大量の敵を足止めできなくなってしまったが、それでも実際に要塞を攻撃してきた敵に多大な損害を与えるだけの力はあった(11)。火器に対して主に土を利用した防御施設はそれだけ効果的だったわけで、塹壕でも何でもいいから大軍を擁していても無視できないだけの防御施設を建造してしまえば、その施設は引き続き効果を発揮した。

 そうした防御施設の一例が、1810年に英国のウェリントンがリスボン北方に築き上げたトレス・ヴェドラス防衛線だろう。険しい地形を利用したこの3つの野戦築城のうち、最も長い防衛線は海岸からタホ河まで29マイル、次のものも22マイルの長さに達した。すべてを合わせると53マイルもの長大な野戦築城が行われたことになる(12)。他にも南北戦争の末期に構築されたピータースバーグの塹壕線は全長35マイルの長さに達し(13)、南米のパラグアイ戦争では全長13.5キロに及ぶ塹壕線が登場している(14)。

 野戦築城を増やしたのは別に西欧勢だけではない。19世紀中頃に行なわれたニュージーランド戦争ではパーと呼ばれるマオリ族の防御施設が火薬兵器の攻撃に抵抗できるだけの能力を示したが、英軍の工兵士官がその構造を記した図の中には塹壕の文字も書かれている(15)。19世紀には火薬革命がほぼ全世界に行きわたり、世界の各地で有効な手段がすぐ採用されていった様子が分かる。そして塹壕の究極形はもちろん、20世紀初頭の第一次大戦における西部戦線だ(16)。スイス国境から海岸線まで伸びる塹壕線はナポレオンが行ったような要塞の迂回策を無効とし、双方の火力を食い止める役割を果たした。

 大幅に発展したのは野戦築城だけではない。要塞そのものもまた姿を変えた。ルネサンス式要塞は町を取り囲む城壁に稜堡を追加することで火器への対応能力を増したのが特徴だった。だがフランス革命期に兵力が増大すると、町そのものを囲うだけのルネサンス式要塞では内部に兵力を十分に配置できなくなり、また19世紀に火器の性能が向上し有効射程が伸びると防御力にも問題が生じた。このためナポレオン戦争後になると町から離れた地形的に有利な位置に建造した防御施設で町を取り囲む方法が広まった。この防御施設は長さ数マイルにも及び、ルネサンス式要塞よりも多くの守備隊を抱えて広い範囲を守れるようになった(17)。

 こうした要塞は「多角形要塞」と呼ばれ、19世紀に欧州各地に広まった(18)。クリミア戦争時に行なわれたセバストポリ要塞の攻囲は、町から離れた位置に防御施設を建造する必要性を強く感じさせるものだったし、南北戦争でもそうした施設が南軍の包囲された都市を守るために使われた。1864年のシュレスヴィヒ戦争ではデンマーク軍のデュッペル堡塁が2ヶ月にわたってプロイセン軍の攻撃を持ちこたえたが、この防御施設も町から離れた位置に建造された10個の堡塁で構成されていた(19)。日露戦争時の旅順要塞も、港湾の北方にある山地に構築された一連の防衛拠点という意味でこのカテゴリーに入る(20)。

 パーカーが軍事革命における重要な存在としたtrace italienneの役割が18世紀にほぼ終わっていたのは間違いない。その意味でルネサンス式要塞はまさに火薬革命の移行期ならではの存在だったんだろう。だが分厚い土の壁で火器に対抗するという機能までが無効化されたわけではない。むしろそうした機能が町の城壁にとどまらず、多角形要塞や塹壕という形でより広い範囲に展開できるようになったのが19世紀以降の状況だった。火薬革命は終わったのではなく、定着したのである。


 同じことは他の変化についても言える。実は19世紀は久しぶりに火薬兵器技術そのものが急速な進歩を見せた時期だった。例えばほぼ前装式ばかりだった銃の分野で、18世紀後半から19世紀前半にかけて実験的に広まったのが後装式の銃の開発(21)。特に19世紀半ばからプロイセン軍が実戦で使い始めたドライゼ銃は、1864年のシュレスヴィヒ戦争や1866年の普墺戦争などでその威力の高さを証明した(22)。銃口から弾丸を装填する前装式に比べて銃尾から弾丸を込められる後装式の銃は、伏せたままでも容易に装填ができるうえに装填時間が短いために単位時間あたりに多くの弾丸を撃ち出すことができた。

 後装式はまたライフルの使用にも向いており、それが射程距離と命中精度の向上をもたらした。ただし19世紀は前装式でも比較的簡単にライフルが使えるようになった時代でもある。特に1849年に開発されたミニエー弾は、弾丸の底部のくぼみにカップ状の金属が付随しているのが特徴。装填時には口径より小さいため前装式の銃でもスムーズに装填できるが、発射時には火薬の圧力によってカップが押し込まれてくぼみを広げ、結果として弾丸が銃身内のライフリングに密着するようになっている(23)。こうした前装式ライフル銃は南北戦争で広く使われ、多数の死傷者を出す要因になったとの主張もある(24)。

 後装式の大砲は古い時代にもあったが、より近代的なものが実験的に作られ始めたのはこちらも19世紀前半だった(25)。中でもよく知られているのは英軍が1855年に採用したアームストロング砲で、ねじを使って砲尾を閉鎖する仕組みを採用したこの大砲は合計して3000門も製造された。ただし鍛鉄を使っていた点に懸念が持たれたため、アームストロング砲自体は1863年には製造が停止されている(26)。とはいえ全体としてみれば19世紀後半は後装式が前装式に取って代わる時代だった。代表的な後装式の大砲はねじ山の一部を削除した隔螺式という仕組みを採用しており、これは19世紀中ごろにフランスで考案された(27)。前装式の大砲は砲身が長くなると装填が難しくなることも、後装式へのシフトが進む要因となった。

 素材も変化した。青銅と鋳鉄が中心だった大砲に鋼鉄の使用が広まったのも19世紀だ。クルップが1851年のロンドン博覧会に出展した鋼鉄製の6ポンド砲はかなり話題になった(28)。炭素の含有率が4-5%ほどに達する鋳鉄は、融点が低いために昔からよく鋳造に使われてきたが、衝撃に対して脆いという問題があったのはこれまでも指摘した通り。だが炭素の含有率が2%以下になると、鉄は強靭になるとともに可塑性を持つ鋼鉄になる。この鋼鉄を鋳造して大砲を作ったのがクルップであり、19世紀の後半になると列強はこぞって鋼鉄製の大砲を製造するようになった(29)。

 もちろんこうした変化は一本調子で進んだわけではない。例えばプロイセンがドライゼ銃の導入を開始したのは1839年だが、それが全歩兵に行きわたるには20年かかった。後装式のドライゼ銃はコストがかかり、またミニエー弾の発明後は前装式の銃と比べてもむしろ射程距離で劣るなど、デメリットもあったからだ(30)。それでもこれまで紹介してきた過去の火薬兵器の導入に比べれば、ずっと速いペースでその変化が進んでいったのは間違いない。

 火器の発展はさらに戦争を激化させた。加えてアヘン戦争では水深の浅い所で蒸気船が活躍し(31)、クリミア戦争時には補給や輸送のために鉄道が使われるなど(32)、火器以外の新しい技術も戦争に使われるようになった。しかし軍事革命という観点で見ると、19世紀は何より国境によって世界の大半が切り分けられたのが大きな特徴だろう。軍事革命を経て国境内のリソースを効率的に活用できる国家(財政=軍事国家)が生き残った結果、列強はとにかく国境という形で自分のリソースを囲い込むべく奔走するようになった。

 既に18世紀後半からインドなどでは英国が内陸部まで支配を広げつつあったが(33)、19世紀に入るとアジアの他地域も(34)、そして20世紀初頭にかけてのごく短い期間に暗黒大陸と呼ばれていたアフリカに至るまで(第14章)、世界中が欧州列強による分割の対象となった。騎兵の時代には国境の曖昧な地域や帰属のはっきりしない人々が存在するのは当たり前だったが、火薬革命がその移行期を終えて定着期に入ると、もはやそんな状態は許されなくなってしまった。


 そしてついに、火薬革命を引き起こすきっかけとなった黒色火薬までが新しい技術に取って代わられる時が来た。無煙火薬の発明だ。19世紀中頃にシェーンバインなどがニトロセルロースを使った綿火薬を発明したが(35)、最初の実用的な無煙火薬とされているのは1886年に生まれたB火薬だ(36)。さらに代表的な無煙火薬とされるコルダイトは1889年に特許を取っており(37)、結果として19世紀末には黒色火薬から無煙火薬への移行が各国で急速に進んだ。

 アンドラーデは黒色火薬が使われた最後の戦争の1つとして日清戦争を取り上げている。この戦争以降、米西戦争(1898年)や第二次ボーア戦争(1899-1902年)では無煙火薬が一般的に使われるようになった(38)。清でも状況は同じで、義和団の乱(1900年)になると連合軍は清軍が無煙火薬で武装していることに気づいた(39)。日本でも日清戦争時に使われた村田銃は黒色火薬を使っていたが(40)、日露戦争で使われた三十年式歩兵銃(アリサカ・ライフル)は無煙火薬を使うようになった(41)。

 黒色火薬は払い下げの旧式銃を持つ猟師などがしばらく使っていたが、それもやがて姿を消していった。そして今では、かつて北宋の開封府での使用例(第4章)と同様、花火のような祭りの賑わいをもたらすアイテムへと戻った。火薬がもたらした革命は、その主役すらも置き去りにした場所へとたどり着いた。2つの革命が重なって生まれた時代に。



01 Napoléon I, Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier (1858), pp162-163

02 Edmond Chevrier, Le général Joubert: d'après sa correspondence (1884), pp33

03 Napoléon I (1858), pp66-68, 69-70, 73-74, 77, 95, 103

04 Napoléon I (1858), pp167

05 Leonce Krebs, Campagnes dans les Alpes pendant la Révolution: 1794-1796 (1895), pp407-408

06 Victor Dupuis, La campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennes, Tome II (1909)

07 Lazare Nicolas Marguerite Carnot, Exploits des Français (1796)

08 Martin van Creveld, Supplying War: Logistics from Wallenstein to Patton (2004), pp42。逆に言うなら兵力が足りなければナポレオンですらマントヴァ要塞を無視できなかった; Carl von Clausewitz, Hinterlassene Werke über Krieg und Kriegführung, Vierter Band (1833), pp301

09 Albert Du Casse, Opérations du neuvième corps de la grande armée en Silésie, Tome Premier (1851), pp171

10 F. N. Maude, The Leipzig campaign, 1813 (1908), pp152-156

11 例えば1812年のバダホス攻囲で城壁の裂け目から突入しようとした英軍は、多大な損害を出しながらもその場所からの突入には失敗している; The Duke of Wellington, Supplementary Despatches, Correspondence, and Memoranda of Field Marshal Arthur Duke of Wellington, Volume the Seventh (1860), pp311

12 Charles Oman, A History of the Peninsular War, Vol. III (1908), pp421-422

13 Alexander Hamilton Stephens, A Compendium of the History of the United States (1874), pp463

14 George Thompson, The War in Paraguay (1869), pp221

15 Ed. A Committee of the Corps of Royal Engineers, Aide Memoire to The Military Sciences, Vol. II (1860), pp587-588

16 John Hamilton, Trench Fighting of World War I (1959)

17 Text Book of Fortification and Military Engineering, Part II (1893), pp143-144

18 Jane Phimester, A National Planning Overview for 19th Century Forts and Associated Fortifications, Volume 1 (2018), pp20

19 J.E. Kaufmann and H.W. Kaufmann, The Forts and Fortifications of Europe 1815-1945 (2014), pp15-16

20 Gustav Joseph Fiebeger, Permanent Fortification (1900), pp40

21 例えばアメリカ独立戦争時に使われたファーガソン・ライフルや、19世紀初頭に一時米軍に採用されたホール・ライフルなど; David Westwood, Rifles: An Illustrated History of Their Impact (2005), pp43-47

22 Stephen Manning, Bayonet to Barrage: Weaponry on the Victorian Battlefield (2020), pp66-67

23 Ed. William Harrison Ainsworth, New Monthly Magazine, Vol. 122 (1861), pp222

24 James M. McPherson, Battle Cry of Freedom: The Civil War Era (2003), pp475

25 Reports by the Juries, Vol, I (1852), pp476-477

26 Alexander Lyman Holley, A treatise on ordnance and armor (1865), pp2, 8, 23-24

27 K. R. Crawford and N. W. Mitiukov, Cavalli, Wahrendorff and the Making of Krupp (2013), pp9

28 Friedrich C. G. Müller, Krupp's steel works (1898), pp6

29 William Henry Jaques, The Establishment of Steel Gun Factories in the United States (1884)

30 Dierk Waiter, A Military Revolution? Prussian Military Reforms before the Wars of German Unification (2001), pp16-18

31 Andrade (2016), pp255-256

32 Yakup Bektas, The Crimean War as a Technological Enterprise (2017), pp235-238

33 英東インド会社は1765年にベンガル州などで州財務長官(ディワーニー)としての権利を取得しており、この年からインドにおける事実上の英植民地統治が始まったとされている。Walter K. Firminger, The Grant of the Diwani of Bengal, Bihar and Orissa, 1765 (1914), pp11-27

34 Ed. Brian P. Farrell and Donna Brunero, Empire in Asia: A New Global History: The Long Nineteenth Century (2018)

35 Benjamin Horatio Paul, Industrial chemistry (1878), pp227

36 Edward Chauncey Worden, Nitrocellulose Industry, Volume Two (1911), pp962

37 Wayne D. Cocroft, Dangerous Energy (2014), pp130

38 Andrade (2016), pp295

39 Robert R. Leonhard, The China Relief Expedition: Joint Coalition Warfare in China Summer 1900, pp32

40 Gabriele Esposito, Armies of the First Sino-Japanese War 1894–95 (2022), pp49

41 Rotem Kowner, Historical Dictionary of the Russo-Japanese War (2017), pp451

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