第17章 最後の楽園

 1626年、ヌルハチは死んだ。公式な記録には書かれていないが(01)、多くの研究者は数ヶ月前の寧遠の敗戦で負った怪我が原因だと推測している(02)。彼が打ち立てた女真族の国家は、かつて火薬を最初に兵器として使った帝国である北宋を滅ぼし、華北を支配した同じ女真族の国家である「金」からその国号を引き継いでいた(現在ではヌルハチの国は後金と呼ばれている)。だが皮肉なことに、その彼の命を奪ったのは、おそらく最新の火薬兵器だった。

 もちろんヌルハチも火器の力は知っていた。1619年のサルフの戦いで明・朝鮮連合軍を騎兵の力で撃ち破り、さらにモンゴルとも同盟を結んだ彼らの主力兵科が伝統的な騎兵であったのは間違いないが、一方で彼は火薬兵器の入手にも力を入れていた(03)。遼東半島を占領した際に明の火器を奪ったほか、硫黄の生産に取り組んだ者に褒賞を与えるなどの対応をしたのがその証拠だ(04)。だが火器を使う際に、その兵器に慣れていない女真族ではなく漢人に頼らなければならないのが彼らの弱点だった。当初は支配下に入った漢人に対して融和的だったヌルハチも、彼らの反発が強まると弾圧政策に転じざるを得なくなり、結果として火器の導入もストップした(05)。

 それでもヌルハチは遼東半島を奪うことができた。当初は明側にも不備があったのがその一因だと指摘する研究者がいる。明軍は城の防衛に際し砲兵を城壁の外、壕のすぐ背後に配置していたため、強襲前に後金軍が放った矢によって多くの砲兵が戦闘不能になってしまった(06)。また後金軍も襲撃の際には木製の盾を使って防御側の最初の一撃を防ぐ努力をしていたそうで、あとは再装填に時間のかかる当時の火器の弱点を突くべくできるだけ素早く梯子をかけて城壁を登っていたという。

 だが遼東半島の都市を次々と落とされた明軍は、より効果的な防衛策を採用する。彼らはマカオのポルトガル人から西洋の大砲「紅夷砲」を手に入れ、さらに大砲の運用にあたる専門家も呼び寄せて北東部の国境にある一連の城塞の防衛を固めた(07)。また城壁には銃眼を穿ち、火器はその背後から撃つようにして自軍の損害も抑制。西欧の新しい大砲は明の大砲よりもさらに破壊力が大きかったようで、それぞれの砲弾が100人の兵を殺したと言われるほどだった(08)。新式装備で武装した寧遠に対する後金軍の攻撃は大きな損害を出して失敗。このヌルハチにとって生涯最初の敗北は、同時に生涯最後の戦いになった。


 ヌルハチの後継者がここからどう盛り返したかを語る前に、まず16世紀以降の明で何が起きていたかを確認しよう。16世紀の西欧との接触を通じ、明には新たな兵器が生まれた。フランキ砲や鳥銃についてはこれまでも触れてきたが、他にも西欧のファルコン(第10章)から名を取ったと見られる発熕(09)などがこの時期に登場している。また大将軍砲に付いている箍の部分をなくして軽量化し、なおかつ照星照門を加えて既存の兵器をより実用性の高いものに変えた威遠砲のような兵器も誕生した(10)。

 火器の素材についてもこの期間中に変化が生じている。それまでの明ではほとんどが青銅製で一部鋳鉄製の大砲が作られていたが、西欧との接触後となる16世紀半ばには青銅と鋳鉄の複合砲が作られている(11)。砲身の中央部を鉄で、その外側を青銅で鋳造したもので、鉄と青銅の融点が違うことを利用し、後から固化する青銅が収縮して中心部の鋳鉄を強化するのが特徴だった。同様に内側に鍛鉄、外側に鋳鉄を使った大砲もある(12)。こういった技術は西欧でも発達しなかったもので、当時の中国における金属加工技術の高さをうかがわせる。

 それでも火器の分野で明は決して最先端にいたわけではない。彼ら自身もそのように認識していたようで、例えば16世紀末から17世紀初頭に成立した書物では、文禄・慶長の役で苦戦した日本製の銃に対抗するために望ましい兵器として、オスマン帝国製の銃や西欧製の銃に関する記述を詳細に載せている(13)。一方、例えば日本側の捕虜を雇い入れて技術や戦術導入を図ったのはあくまで個別の武官たちであり、明政府が全体としてそうした取り組みを進めた様子はない点も見落としてはならない(14)。この時期の明は寧遠でヌルハチを撃退した袁崇煥が後に処刑されるなど(15)、外敵に対して協力するどころかむしろ内紛に明け暮れていた印象がある。

 明末清初の混乱期は、中国だけのものではなくユーラシアの広範囲で見られたという説がある。ホブズボームの唱えた「17世紀の危機」というもので、確かにこの時期には英国の革命、フランスでのフロンドの乱、オスマン帝国でのジェラーリの乱など様々な動乱がユーラシア各地で起きていた(16)。その背景には急激な人口増とそれに伴う政治社会的な不安定性の増大があると指摘したのはゴールドストーンとターチン(17)。実際ある推計によると、明の人口は1400年頃の7500万人を底に急速に増え、1600年頃には倍の1億5000万人に達したが、そこで頭打ちとなり1650年頃には1億3000万人まで落ち込んでいる(18)。

 農業社会での人口増は食糧価格の高騰と大衆の生活困窮化をもたらす。一方で大衆が困窮する分だけエリートの取り分が増え、それが一時的にエリートの繁栄と一種の「黄金時代」をもたらす。明で言えば治世50年近くに及び、経済や文化の最盛期を迎えた万暦帝の時代がそれに当たる。だが困窮化した大衆がやがて人口減に見舞われると、それが社会の経済基盤を掘り崩し、エリートの生活も支えきれなくなる。エリート過剰に見舞われた社会ではエリート内の紛争が始まり、それが革命や内乱につながる、というのがターチンの唱える「永年サイクル」だ(19)。明末の混乱はこういった人口動態に振り回された結果とも言える。

 人口でも経済力でも、さらには軍事技術の分野でも、ヌルハチが死んだ時点で明が女真族に劣る部分は一つもなかった。にもかかわらず最終的に後者が勝利したのは明が内部分裂していたからであり、そしてヌルハチの後継者が積極的に新技術を取り入れたからだ。


 とはいえヌルハチの息子ホンタイジもすぐに自分たちの弱点に気づいたわけではない。1627年、彼が率いた錦州への攻撃もまた紅夷砲を配備した明軍によって撃退されている(20)。後金がようやくこの新兵器の存在に気づき、自らその製造に踏み切る決断をしたのは、1629-1630年に内モンゴル経由で北京への攻撃を試みて失敗した時だ(21)。ホンタイジは1630年に帰順した漢人らに対してこの大砲の製造を命令し、翌1631年の正月には「紅衣大将軍砲」を完成させている(22)。紅夷砲ではなく紅衣砲に表記が変わっているのは、蛮族への蔑称にあたる夷の文字を嫌ったためと言われている。

 その効果は同年に行なわれた大凌河の戦いで早くも現れた。過去にはスピードに任せた強襲をやっていた後金軍が、この防御拠点に対しては45の宿営地を持つ杭や壕で作った全長50里の陣地で周りを囲み、時間をかけて落とす作戦に出た。後金軍の陣地には大砲が配置され、明側の小さな砦や塔をその火力で破壊した。後金側による長期戦を予想していなかった明軍には食糧が不足しており、守備隊は飢餓に苦しめられた。救援に来た明軍が敗北した時点で守備隊は降伏した(23)。

 この戦いの勝因が紅衣砲のみにあるというのは暴論だろう。性急に強襲を繰り返していた後金軍が腰を据えた包囲戦術を採用し、それを支える補給を確保した点こそが何より重要だし、その包囲を維持するための野戦築城技術も見逃してはならない。一方で彼らがこの戦場に持ち込んだ計40門の紅衣砲・大将軍砲(24)によって明軍守備隊が大きな損害を受け、それが攻囲を容易にしたのもおそらく確かだ。以後、後金の戦い方はむしろこうした火力を活用した包囲戦術が中心になっていく。

 またこの頃から火器を使いこなすために漢人の組織化が本格的に始まる。それまで後金の主力を形成していたのはいわゆる「八旗」で、ヌルハチが女真族を組織化するために採用した軍事制度だった。だが火器の使用が増えてきた結果、騎兵が中心の八旗とは別に1634年には漢人を組織したウジェン・チョーハ(重兵)という組織が作られた(25)。さらに八旗も民族別に再編されるようになり、八旗蒙古が生まれたほかウジェン・チョーハは八旗漢軍へと編成替えがなされた(26)。

 ただし、この時期の彼らの戦い方を見る限り、新たに作った火器専門部隊を他の兵科とうまく組み合わせて効果的に使おうとしていた様子はない。例えば1633年に行なわれた軍事訓練に関する記録を見ると、騎兵は騎兵で、大砲は大砲で別々に訓練を行っていた(27)。この時期に西欧では既にパイクと銃兵を一体的に運用する戦術が発展しており、ユーラシア中央部に近いところではラーガーと騎兵の組み合わせが広まって1世紀以上が経過していた。だが清の場合、そうした戦術の発展はこの時点では見られなかった。

 にもかかわらずホンタイジによる紅衣砲の製造からほんの十数年後には、清へと国号を変更した後金が北京を占領している。もちろん火器を採用した効果もあっただろうが、李自成の乱による明滅亡に代表されるように明側の自滅といった印象が強い。イスラムの火薬帝国同様、中国の火薬帝国である清の場合も、火器のみがその勢力増大をもたらしたわけではないと考えた方がいいだろう。

 むしろ清の場合は中国領内への侵攻を始めてからが火器発展の本番と言ってもいいかもしれない。他のユーラシア火薬帝国が衰亡の兆しを見せる17世紀後半から18世紀にかけ、逆に清は全盛期を迎える。オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガール帝国などに比べて1世紀ほど後に興隆した分だけ、衰亡も後回しになった格好だ。新兵器である火器についても、導入時期が遅かったためか、その成功体験に縛られるようになるにはまだ早すぎたのだろう。

 長城以北の騎兵に向いた平原地帯と異なり、中国の中心部には険しい地形も多く、そうした地域で火器の需要が増えたのも、清の火器発展が続いた一因。清は八旗漢軍だけでなく、清に帰順した兵を集めて緑営という部隊も編制し、火器を使える部隊として彼らも戦争に投入した。例えば17世紀後半に起きた三藩の乱の鎮圧作戦に参加した緑営の軍人の記録を見ると、大砲や銃が数多く使われていたことが分かる(28)。北京を支配したと言っても中国各地には鄭成功のようにまだ抵抗を続ける勢力もあり(第10章)、軍事技術の進化を促す環境には事欠かなかった。

 技術の発展に貢献したのは西欧の技術者だ。中国では南懐仁と呼ばれたイエズス会の宣教師フェルディナント・フェルビーストは康熙帝の下で新たな火器の開発に取り組み、中でも1680年代に作られた神威将軍砲、武成永固大将軍砲、神功将軍砲の3つは重要な成果だとされている(29)。神威砲は重量200キロ、2輪の砲車に載せられた小型砲で、山中で戦うことが多かった三藩の乱で大活躍した。武成永固砲は4輪の車両に載った2-3.5トンの大型砲で、10キロの砲丸を撃ち出した。中間サイズの神功砲は3輪の車両に載せられ、1.5キロの砲丸を撃ち出していた。

 その他にフェルビーストが作った大砲としては、軽量の砲身を木材で補強した木砲、紅衣砲の改良版として製造された比較的大きな神威無敵大将軍砲、臼砲の一種である威遠将軍砲などがあった(30)。ただしフェルビーストが改良した大砲でも、同時期の西欧の大砲と比べればまだ軽量化が十分とは言い難い。例えば1676年製造の刻印がある現存の神威無敵大将軍砲は、重量が1トンで2.7キロ(約6ポンド)の砲弾を撃ち出すようになっていたが、同時期にフランスで製造された8ポンド砲は重量が895キロと、より軽量でありながら重い砲丸を発射できた(31)。清が火薬技術の進展に力を注いでいたのは確かだが、最先端に追いついていたわけではなかった。

 加えて清がユーラシアの中核に位置していたという地理的な要因も火薬技術の発展に影響を及ぼした。中国内が戦場になっていた三藩の乱あたりまではステップ地帯から遠い人口密集地が戦場となっていたが、そうした地域を平定し、さらに外へと勢力を伸ばし始めた時、帝国となった彼らの前に立ちはだかったのは規模の小さな辺境勢力(32)、残された「騎兵の楽園」に暮らす遊牧民だった。


 といってもその遊牧民たちはかつてのモンゴル帝国のように騎兵技術のみに依存した帝国を築いていたわけではない。ユーラシアの中核にあたるステップ地帯にも既に火薬革命の影響が及び始めていたのだ。その典型がジュンガル帝国。ロシアの火器に関心を持つようになった彼らは、17世紀後半のガルダン・ハーンの時代になると硝石や硫黄といった火薬材料、さらに火器の材料である金属を自前で手に入れられるようになった(33)。

 ガルダン・ハーンは勢力を伸ばす清へ対抗するためにロシアやトルキスタンの諸部族から金属加工や火薬製造のノウハウを取り入れ、中央アジアで軍事革命を始めた。結果、例えば彼らと清軍が現在の内モンゴルで衝突した1690年のウラーン・ブトンの戦い(34)で、ジュンガル軍は膝をついたラクダの背後から銃を撃つという戦法を取った(35)。1715年に哈密を攻撃した際にもジュンガル軍は銃を装備しており、迎え撃つ清側も銃を使って対抗したことが双方の戦闘参加者の証言に残されている(36)。

 さらにジュンガルは兵力の増加を支えるためにタリム盆地やシルダリア河畔の都市を支配下に置いて労働力の徴収や課税を強化。ガルダンの後継者であるツェワンラブダンは捕虜になったスウェーデン人やロシア人、満州人、中国人などを登用して大砲鋳造などに協力させたし、その子供であるガルダンツェリンは一段と経済力を高めるために灌漑農業のノウハウを持つタリム盆地の人々を送り込んでイリ河とイルティシュ河での農業開発を進めようとした。結果、この時代にジュンガルが保有していた銃兵は8万人から10万人に達したという(37)。

 火薬革命を経たジュンガルがどのような戦い方をしていたかは、18世紀にチベットに攻め込んだ時の彼らの戦いぶりから分かる。彼らは真っ先に近くの山地に登り、有利な場所から接近してくる敵を撃ち下ろすという戦いを繰り返した。待ち伏せや逃げるふりをした敵の誘導、弓矢の一斉射撃といった伝統的な遊牧民の戦い方とは異なるが、有利な射界と装填の時間を稼ぐことが可能な陣地を確保できるこの手法は、火器で武装した彼らにとって有効な手法であった(38)。同じく清との戦争においても、山上や対岸の高い岸辺にジュンガルが布陣したという記録がある(39)

 当時のジュンガルはモンゴル時代と同じように接近戦の際には槍を使っていたようだが(第5章)、騎兵革命を象徴する武器とも言える複合弓を使ったという記録はほとんどない。また彼らは遅くとも18世紀初頭にはジャムラとかジャンバラックと呼ばれるマスケットを所有していたが、これはおそらくラクダに載せる兵器ザンブーラックのことだと思われる。通常の銃よりは大きいが大砲よりは軽量なこの兵器は、第16章でも述べたように機動力を必要とするステップ地帯の戦争では大いに役立った(40)。それ以外に彼らは銃や口径17-20センチほどの大砲も使っていた(41)。

 ジュンガル軍との交戦は康熙帝の軍事戦略に大きな影響を及ぼしたと言われている。ウラーン・ブトンの戦い自体は引き分けであったが、最前線で戦っていた清軍の火器部隊はかなり苦戦。司令官が鳥槍(銃)で撃たれて戦死するなど(42)、康熙帝にとっては自軍の問題が浮き彫りになった戦いだった。清軍が大きな損害を受け、騎兵が追い払われたのは、ジュンガル軍の一斉射撃が原因だと判断した彼が、兵に対して行軍中などに銃や矢を放つ訓練を課したという記録もある(43)。どうやら康熙帝は、騎兵突撃一辺倒では射撃の的になるし、また大型の火器は機動力の必要な戦いには向かないと思い知ったようだ(44)。

 そこで彼が設立したのが火器営だ(45)。八旗満州に置かれたこの部隊には鳥槍と子母砲が配備された(46)。ウラーン・ブトンでは大砲が重すぎたと反省した(47)清が採用した子母砲は、駄馬の背中に載せられるほど軽量(50-60キロ)の大砲で、フランキ砲のように後装式なので砲撃にかかる時間も短い。砲丸のサイズが小さいため補給上の問題も少なかった。また鳥槍は軽量の銃で、こちらも取り回しの容易さが特徴。これらはおそらく遊牧民を相手にするような機動戦を想定した武器であり、つまり火器営は清が遊牧民に対抗するため、彼らの戦い方を参考にして作られた部隊だった(48)。

 ジュンガルがサファヴィー朝やムガール帝国で使われたザンブーラックを採用したのと同様、清も機動力と火力の両立を図ろうとしたことが分かる。もちろん清はその使い方にも工夫し、カラコールのように馬上から順番に射撃を浴びせる訓練や(49)、歩砲騎の各兵科が連携して行動する訓練なども行った(50)。ホンタイジが紅衣砲を導入した直後には見当たらなかった火器利用戦術の発達が、この時期に進んできたと考えられる。結果、18世紀半ばの乾隆帝の時代、清はジュンガルの内紛を利用して攻め込み、これを滅ぼすことに成功した(51)。

 かくして清は騎兵の故地であるステップ地帯にまでその覇権を及ぼすに至った。だが彼らが磨き上げた軍事技術はステップ地帯に合わせたものであり、火薬革命の最先端にいる敵と戦うためのものではなかった。実際、ステップ地帯の勢力による火器の導入は中途半端なもので、例えばジュンガルに隣接するカザフにも火器はロシアや清、イランなどを経由して伝わったが、それらはあくまで弓騎兵を補助する役目しか与えられなかった。それどころか彼らは18-19世紀にかけ、ジュンガル経由で手に入れた女真族の弓矢を広く使うようになったほどだ(52)。

 康熙帝による改革も西欧で進んでいたほどの変貌を兵器や戦術にもたらしたわけではなかった。清の火器は他のユーラシア火薬帝国同様、あまり規格化が進んでいなかった(53)。西欧で軍事革命が社会に大きなインパクトを及ぼす経路となったルネサンス式要塞も、中国では明末に一部で採用しようとする試みはあったものの、結局は広がりを見せることなく終わった(54)。そしてヌルハチ時代に採用された八旗というシステムは大きな改革の対象になることもなく生き残り、結果18世紀に入ると次第に機能が低下し、19世紀にはほぼ使い物にならなくなってしまった。

 19世紀半ばのアヘン戦争の頃になると、清はすっかり火薬革命の後進国となっていた。彼らの大砲は英国製に比べて性能が低く、歩兵のうち火器で武装していたのは30-40%にとどまり、しかもその大半は火縄銃だった(55)。19世紀末に中国を旅した米国人は、いまだに火縄銃が使われていることに驚きを示している(56)。タイミングこそずれていたが、清もまた他のユーラシア中心部の大帝国同様、火薬革命の嵐の中で没落していったのである。


 ユーラシアの西端で始まった火薬革命は、その影響を受けやすい地域から広がっていき、場所によっては社会をひっくり返すほどのインパクトをもたらした。しかし環境的に、また歴史的に受け入れにくい地域もあり、そこでは軍事的にも社会的にも火薬革命の浸透度は低かった。特に鉄器・騎兵革命の時代に最先端にいたユーラシア中核では、古い軍事技術がしぶとく生き延びた。もちろんこれらの地域でも火器を上手く取り入れた勢力が帝国を築き上げたのは事実だし、だから火薬革命の影響が及んだのも間違いないが、他の地域ほど徹底した「火薬化」は進んでいない。騎兵にとって残された最後の楽園で戦う必要に迫られた清にとって、火薬はあくまで騎兵が持つ機動力と両立させながら使うものだった。

 だが1700年以降になると、西欧的な火薬兵器複合体が世界的に優位に立つようになったとの説がある(57)。そして火薬革命が移行期を終え定着期に入る頃には、戦場における騎兵の役割はどんどん消えてなくなっていった(58)。古い騎兵時代の折衷品とも言うべき軍備を整えていたユーラシア中核の諸国は、より徹底した火薬化を進めた諸国の前にやがて劣勢へと追い込まれていった。



01 清太祖高皇帝実録巻10

02 Peter Lorge, War, Politics and Society in Early Modern China, 900–1795 (2006), pp143

03 1621年には砲や三眼銃の準備を、翌1622年には大砲や砲(鳥槍?)の細かい配属についての命令を出している; 藤岡勝二訳, 満文老档太祖の巻 (1939), pp321, 371

04 藤岡訳 (1939), pp600-601

05 https://talkiyanhoninjai.net/archives/6755(2022年10月30日確認)

06 Nicola di Cosmo, Did Guns Matter? Firearms and the Qing Formation (2004), pp137-138。明砲兵の配置については満州実録の採録図参照; Frederic E. Wakeman, The Great Enterprise: The Manchu Reconstruction of Imperial Order in Seventeenth-Century China, Volume I (1985), pp68

07 di Cosmo (2004), pp144-145

08 Andrade (2016), pp199

09 郑诚, 发熕考 (2013), pp508

10 武備志巻122

11 鄭 (2012), pp49

12 Andrade (2016), pp201-202

13 神器譜巻2

14 久芳崇, 東アジアの兵器革命 (2010)

15 明史巻259

16 E. J. Hobsbawm, The General Crisis of the European Economy in the 17th Century (1954); Jack A. Goldstone, Revolution and Rebellion in the Early Modern World (2016), pp1

17 Turchin and Sergey A. Nefedov, Secular Cycles (2009)

18 Colin McEvedy and Richard Jones, Atlas of World Population History (1978), pp166-167

19 Turchin and Nefedov (2009), Table 1.1; Turchin, Ages of Discord (2016)

20 di Cosmo (2004), pp143

21 https://talkiyanhoninjai.net/archives/7015(2022年10月30日確認)

22 清実録の記事によれば、これは後金が自力で完成させた最初の大砲になるという; 清太宗文皇帝実録巻8; 新藤篤史, 明初から清初にかけての佟氏一族 (2015), pp13-14

23 di Cosmo (2004), pp147-148

24 楠木賢道, 天聰五年大凌河攻城戰からみたアイシン國政權の構造 (2000), pp5

25 di Cosmo (2004), pp149

26 James Reardon-Anderson, Reluctant Pioneers: China's Expansion Northward, 1644-1937 (2005), pp29

27 https://talkiyanhoninjai.net/archives/7015 ; 清太宗文皇帝実録巻8

28 di Cosmo, European Technology and Manchu Power: Reflections on the "Military Revolution" in Seventeenth Century China (2000)

29 Denis De Lucca, Jesuits and Fortifications (2012), pp181

30 周維強, 神威四域,武成永固 (2012), pp165-172

31 Summerfield, French Ordnance (2012), pp29

32 Scheidel (2019), pp341-342

33 内藤虎次郎, 読史叢録 (1929), pp225; 欽定皇輿西域図志巻43

34 Chris McNab, Famous Battles of the Early Modern Period (2017), pp45

35 聖祖仁皇帝親征平定朔漠方略巻8。この年の戦争ではジュンガルが鳥鎗を含めた多数の火器を使っていたという記録もある; 聖祖仁皇帝親征平定朔漠方略巻6

36 澁谷浩一, 康煕五十四(1715)年のジュンガルのハミ襲撃事件と清朝 (1997), pp63-64

37 R Spencer Haines, The 'Military Revolution' Arrives on the Steppes of Central Eurasia: The Unique Case of the Zunghar (2017), pp180-185。なお1715年の哈密攻撃に参加したジュンガル側の兵は、ジュンガルの戦力について彼らの称する7万-8万人を大きく下回る3万人にとどまると証言している; 澁谷 (1997), pp67

38 Hosung Shim, The Zunghar Conquest of Central Tibet and its Influence on Tibetan Military Institutions in the 18th Century (220), pp83-92

39 聖祖仁皇帝親征平定朔漠方略巻6; 巻8

40 Shim (220), pp97-101

41 欽定皇輿西域図志巻41

42 八旗通志巻138

43 Joachim Bouvet, Portrait historique de l'empereur de la Chine présenté au roy (1697), pp191-192

44 https://talkiyanhoninjai.net/archives/325(2022年10月31日確認)

45 聖武記巻3

46 大清會典則例巻180

47 聖祖仁皇帝親征平定朔漠方略巻18

48 https://talkiyanhoninjai.net/archives/7858(2022年10月31日確認)。なお子母砲や鳥槍を含めた清代の火器については以下参照; 皇朝礼器図式巻16

49 清聖祖仁皇帝実録巻156

50 聖祖仁皇帝親征平定朔漠方略巻17

51 実際には軍事力だけでなく経済力の差が戦争の勝敗に大きく影響しており、ジュンガルにとっては食糧リソースの欠乏が大きな敗因だったとの説もある; Peter C. Perdue, Military Mobilization in Seventeenth and Eighteenth-Century China, Russia, and Mongolia (1996), pp781

52 Daniyar Zhanatovich Baidaralin, Brief Review of the History of Nomadic Horseback Archers in Kazakhstan from Bronze Age to 19th Century (2018), pp21-23

53 https://talkiyanhoninjai.net/archives/7015(2022年10月31日確認)

54 Zheng Cheng, The Introduction of European Fortification in the Late Ming Period (2017), pp59-63

55 Andrade (2016), pp241-242

56 Lei Duan, Between Social Control and Popular Power: The Circulation of Private Guns and Control Policies during the mid to late Qing, 1781-1911 (2017), pp35

57 Chase (2003), pp203。ただし例えばチベットで17世紀からマッチロック銃の図像が登場し始めるなど、実際には1700年より前から銃はユーラシアの中核でも普及し始めていた; Shim (220), pp102

58 例えば1854年のバラクラヴァの戦いでは、英騎兵の突撃が多大な損害を出した; Somerset John Gough Calthorpe, Letters from Head-quarters: Or, The Realities of the War in the Crimea (1858), pp128-132

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