第16章 成功の罠

 奴らより俺たちの方がいい乗り手だ。奴らより俺たちの方が勇敢だ。奴らの銃と弾丸、そして山に向かって撃てば山をきれいさっぱり消し去っちまうだろうあの大砲さえなけりゃあ……(01)。


 軍事奴隷にして歴史上でも有名な騎兵の一種であるマムルークたちは、彼らを撃ち破ったオスマン帝国の兵士についてこう語っていたという。このような見方は16世紀初頭のユーラシア中心部では珍しくもなかっただろう。火薬革命は大陸の西端でやっと始まったばかりであり、ステップから近い地域に住んでいたものにとって、2000年以上続いている騎兵の時代が終わりつつある実感など縁遠いものだった。だが変化は騎兵の故地とも言えるこの地域にも及んできた。

 マムルークがオスマンの火器を相手に大敗を喫したのは1516年のマルジュ・ダービクの戦いだった。オスマン軍はフス派のラーガー(第7章)と同じように荷車で防備を固め、その背後から射撃を浴びせた。同時代の歴史家の中には、オスマン軍の「全ての大砲は、その平原が血塗れの屠殺場のようになるまで、50人、60人あるいは100人を殺した」「死んだコーカサス人[マムルークたち]は1000人にも達し、そのほとんどは大砲やアルケブスに殺された」(02)と記している者もいる。マムルーク側のスルタンも死亡し、その後継者は慌てて火器の装備強化を図ったが(03)、その努力も虚しくエジプトまで攻め込まれた彼らは翌1517年のアル=リダニヤの戦いで滅亡している。

 彼らより先にオスマン軍の火器の洗礼を受けたのがサファヴィー朝だった。初代君主イスマーイール1世は、シーア派の信徒である遊牧民クズルバシュの宗教的情熱を活用し、騎兵集団である彼らの戦闘力を活用してペルシア一帯に支配を広げた(04)。1514年、オスマン軍が西方から侵攻してきたのを受けてイスマーイールは2万人の軍勢を集め、これをチャルディラーンで迎え撃った。

 オスマン軍は大砲を載せた馬車を鎖でつないでバリケードを築き、その背後に銃で武装した1万2000人のイェニチェリを配置したという。一方、騎兵の力で国を興したイスマーイールは、この陣形に対して真正面から突撃を仕掛け、一部のクズルバシュ騎兵は防御陣までたどり着いて300人のイェニチェリを切り倒した。だが多くはオスマン側の重砲、軽砲(ザルブザン)、銃から撃ち出される弾丸の嵐に晒され、サファヴィー軍の中央は混乱状態に陥った。イスマーイールは戦場から逃げ出し(05)、オスマン軍はこの戦いに勝利した。

 ユーラシア帝国ベルトでの16世紀前半における火器の勝利を象徴する戦いは他にもある。ムガール帝国の初代皇帝バーブルが北インドのローディー朝を相手に1526年に行なったパーニーパットの戦いだ。戦場に到着したバーブルはまず全員に荷車を集めさせ、これを「オスマン風に」つなぎ合わせた。ただし鎖ではなくロープを使い、そのうえで背後にマッチロック兵を配備した(06)。この荷車城塞がバーブル軍の中央で守りを固めた。

 インド軍が攻め寄せてきた時、バーブルは両翼の弓騎兵に対し敵が接近したらその背後に回り込むよう指示を出した。戦象を押し立てて進んできたインド軍は、正面からはフィランギ(フランキ砲)やザルブザンに撃ちすくめられ、左右からは弓騎兵が雨のように降らせた矢の攻撃を受けた。インド軍は敗走し、戦死者は戦場で数えただけで1万5000人から1万6000人に及び、後に届いた情報によればその数は4万人から5万人に達したとバーブルは記している(07)。

 翌1527年、彼はさらにインド内の敵対勢力をハーヌワーの戦いで撃ち破った。この戦いでも彼は荷車にマッチロック兵と砲兵をカバーさせており、敵に最後の一撃を与える際にはその銃兵たちを荷車城塞から前進させている(08)。一見すると西欧でそうであったように、ユーラシアの中心部でも16世紀になって火器が戦争の主役の座を奪った、ように見える。


 もちろん話はそう単純ではない。バーブルの死後、シェール・ハーンの率いるスール朝が独立し、ムガールの2代目皇帝であるフマーユーンと対立した。シェール・ハーンはベンガル軍をスラージガールで倒し、さらに1539年にはチャウサでフマーユーンの軍勢も叩いて彼に亡命を強いた。これらの戦いにおいて、ベンガル軍やムガール軍の火薬兵器はシェール・ハーンが率いる騎兵部隊を相手に勝つことができなかった。そのため16世紀の南アジアではなお騎兵こそが支配的な兵科であったと主張する向きもいる(09)。

 ムガール絡みの戦いだけではない。1520年、イスラム教のビジャプール王国(アルブケルケにゴアを奪われた国)とヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国とがデカーン高原のライチュールで衝突した時、大砲を揃えていた前者は騎兵に頼った後者に敗れた。野戦においてビジャプール軍は火器をすべてまとめて発射してしまい、再装填に時間を取られている間に騎兵の攻撃を受けたのが敗因だ。またライチュールの要塞戦でも動かしにくい大砲を城壁の上に配置していたため、死角に入った敵兵を撃退できなかったという(10)。

 この時期の火器使用の代表例であるかの如く紹介されるオスマン帝国でも、火器が勝利のカギと簡単に結論づけられるわけではない。チャルディラーンの戦いではそもそもオスマン軍の兵力がサファヴィー軍の倍と圧倒的に有利であったし、実際にはサファヴィー側の史料に記されているほど多くの銃兵をオスマン軍が備えていたわけではない(11)。マルジュ・ダービクではマムルーク側指揮官が戦闘中に心臓麻痺で死亡したことや、マムルーク側に寝返った兵が出てきたことが勝敗に大きく影響した。さらにアル=リダニヤでは、敵が火器を揃えて待ち構えていると聞いたオスマン軍が数の優位を生かしてマムルークを包囲したのが効いた(12)。

 確かにユーラシア中央部の他国に比べれば、この時点でオスマン帝国は火器に頼る度合いが高かった。それでも16世紀初頭のオスマン常備軍を見るとおよそ3分の1は騎兵で構成されており、同世紀半ばにはその比率が4割を超えていた時期もある。それに封建的制度によって集められる地方の騎兵部隊は16世紀には5万から8万騎にも達していたそうで、まだこの時点でのオスマン軍は騎兵こそが主力だったと考える方が辻褄が合う(13)。実際、16世紀半ばにオスマン帝国を訪れたオーストリアの外交官は、スィパーヒーたちが伝統的な武器である複合弓にこだわり、銃の使用を拒否したとの話を伝えている(14)。銃兵であるイェニチェリがオスマン軍の中核と言えるだけの数を揃えるようになったのは17世紀以降だ。

 一方、敗れた側については逆のことが言える。騎兵頼りであったかのように描かれるサファヴィー朝は、実はチャルディラーンの戦い以前の15世紀末から既に火器の装備を始めていた。1504年にはイスマーイール自身が町を「岩、砲丸、そしてマスケットの弾」で攻撃し、1506年には「マスケットと臼砲」で要塞を攻囲している(15)。チャルディラーンの戦いでこそ彼らは火器を使わなかったが、その敗北から2年後には2000丁のマスケット銃と40門の大砲を製造し、そして1528年にはジャムの戦いで荷車とザルブザン、あるいは銃兵をオスマン風に布陣させ、ウズベク族を撃ち破った(16)。

 そのウズベク族の国、ブハラ・ハン国でも16世紀後半には火薬兵器の導入が進んだ。1558年末にこの地を訪れた英国人ジェンキンソンは、国王の前で自分たちの銃を撃ってみせ、一方で彼らの銃の訓練を見せられたと記している(17)。同世紀末のアブドゥラ・ハンの時代にはオスマン帝国の専門家が彼らの軍事教育を行っているし、16世紀末から17世紀初頭にロシアの大使はウズベク族が銃と大砲の両方を使って戦争に入ると記している(18)。17世紀にも彼らはロシアから火薬を輸入していた(19)。

 確かに火器の有効性を強調し、弓騎兵がもはや無用の長物になったという極端な主張を、限られた数の事例から導き出すのは無理がある(20)。個々の戦いには様々な要素が絡むわけで、そこに単一の原因を求めるのは避けるべきだ。だが一方でこの時期に火器の使用はユーラシア中心部でも着実に広まっており、その重要性をあまり否定しすぎるのもまずい。騎兵で勝利したと言われているシェール・ハーンも実際はムガール軍と同じように火器を装備していたし、火器を本格的に導入したバーブルはインドの戦争の様相を完全に変えてしまったという指摘もある(21)。ユーラシアの中核にもやはり火薬革命の影響は及んでいた。重要なのはそれがどの程度であったかだ。


 結論から言うと、騎兵革命の中心地であったユーラシアの帝国ベルトは、西欧勢やその影響を受けやすい地域に比べ、火薬技術の浸透度が明らかに遅れた。それは上に紹介したいくつかの国家、後に研究者から「イスラムの火薬帝国」(22)と呼ばれるようになった国々での火器の普及度合いを見れば分かる。

 例えばサファヴィー朝。彼らは確かに、チャルディラーンの敗北後に火器を増やした。ヴェネツィアの報告によれば、1517年には8000人の銃兵が存在しており、また1521年には1万2000丁、その翌年には1万5000丁から2万丁の銃を彼らが保有していたとされる(23)。ただし1516年時点で彼らが製造した銃が2000丁だったというオスマン側の報告と比べるとこの数字は過大だとの指摘もある(24)。彼らが本当に銃兵を自らの軍事システムに取り入れたのはサファヴィー朝の全盛期と言われるアッバース1世の時代(16世紀末から17世紀初頭)だが、その時点で銃兵の数は1万人から1万5000人の規模にとどまった(25)。彼らよりずっと小さな国大越が15世紀後半に保有していた銃の数に比べてもずっと規模が小さい(第8章)。

 サファヴィー朝の大砲はさらに地味な存在だった。確かに彼らは1585年のタブリーズ攻囲の際に城壁を破壊できるだけの巨大な大砲を持っていたし、また先進的な西欧製の大砲も仕入れていた(26)。アッバース1世の時代になると1万2000人の砲兵と500門の大砲で構成される砲兵部隊を設立しており、ある遠征では軍の2割を火器兵が占めていた例もあった(27)。だが彼らは大砲の使い方には未熟だったそうで、しばしば外国兵にその運用を頼っていたとの記録がある(28)。

 ペルシアの険しい地形と航行可能な河川の不在のため、オスマン帝国やムガール帝国と比べても大砲を運ぶのが難しく、野戦での大砲使用は極めて限定的だった。加えて火薬の材料や鉄、銅といった大砲製造用の金属鉱山が不便な場所にあったのも、サファヴィー朝の大砲活用を難しくした(29)。攻城戦にはよく使われたが、その際にも現地で大砲を鋳造する事例がしばしばあったそうで(30)、西欧で進んだ口径の規格化といった流れには遠く至らなかった。

 彼らよりは火器の浸透度合いが高かったのがムガール帝国だ。バーブルが記しているように彼らは「オスマン風」の戦い方をしたが、火器もオスマンから導入したものが多かったように見える。彼らのマッチロックはドイツからオスマン経由で伝わったシア式で(31)、ポルトガルが持ち込んだスナップ式がインド沿岸部に広がったのに対し(第15章)、ムガールの支配した内陸部ではシア式が普及した。バーブル以降、この火器はかなりムガール軍内でも重要視されるものとなり、その兵科に対しては中央政府が資金負担をして整えるようになった。

 これは中央による統制の意味もあった。地方の領主はこの銃兵を自分の軍勢に組み込むことを認められていたが、例えばアクバル帝の下では領主たちが動員する騎兵の8分の1までしか保有できなかった。それが影響したのかは不明だが、バーブル時代の1200人からフマーユーンの5000人、シェール・ハーンの2万5000人へと急拡大していたマッチロック銃兵の数は、16世紀後半には伸び悩み、世紀末には3万5000人、17世紀半ばになっても砲兵などを含めた数は4万人ほどと頭打ちになった(32)。

 中央による統制は運用の硬直化をもたらし、フリントロックの採用遅れにつながったとの説もある。17世紀にはフリントロックの情報は西欧から伝わっていたが、ムガール帝国やその後継国家が本格的にフリントロックを採用したのはようやく18世紀半ばになってからだ。弓騎兵や槍兵に頼る度合いの高かったムガール帝国では、マッチロックに対するフリントロックの優位性にそれほどのメリットを感じなかった面もあるのだろう(33)。ただ、中央の統制はムガールの後期になるとかなり緩んでいたようで、やがてマッチロックは反政府的な勢力の手に渡り、むしろ中央権力の崩壊をもたらす原因になった(34)。

 17世紀になるとマッチロックは新たに征服した地域の反乱を鎮圧するのによく使われるようになった。もちろん前装式の銃を馬上から撃つのは困難であり、彼らは射撃時には下馬していたようだが、地方反乱の場合は散らばって戦うゲリラを相手にするため、機動力のある乗馬銃兵の存在は役に立ったようだ。しかし戦場での対峙となると、馬上から高い頻度で矢を射ることができる弓騎兵の方がまだ有効性が高かった(35)。ムガールの銃はサファヴィー朝よりは広く使われたが、西欧ほど社会を根底から変えるものではなかった。

 ムガールの大砲も、やはり西欧とは色々と異なる点があった。それらはアクバル帝の時代には大きく4つのカテゴリー、つまり軽砲(ザルブザン)、重砲、攻城砲、そして後装式の小型砲(フィランギ)に分かれていた。それぞれのカテゴリー内には様々なサイズや形状の大砲があり、また撃ち出す弾丸も岩石、鉄、銅、鉛など多くのバリエーションが存在した。野戦での使用を想定したザルブザンや重砲は欧州と同様に軽量化が進んで機動性が高まった一方、攻城砲は巨大化していくといった具合に、戦場の需要に合わせた変化も起きていたが、高炉の存在しなかった当時のインドで巨大化した大砲を鋳造するのはかなり大変であり、使用にも危険が伴った(36)。

 名前を見れば分かる通り、ザルブザンやフィランギはオスマンから伝わった可能性が高い。中でもザルブザンはインドで最も多く使われていた大砲のようで、フマーユーンは2.5キロほどの砲弾を撃ち出すこの大砲を数百門保有していた。またオスマンの技術者はデカーン高原に大砲の鋳造技術も伝えた(37)。さらにムガール帝国ではバンと呼ばれるロケット兵器も使用されており、これらは軽量だったため兵が携帯することもできたし(38)、ラクダや馬車に多くを積み込むことも可能だった(39)。

 とはいえ西欧で進んだ規格化のような動きは生まれておらず、火薬兵器の能力を最大限に発揮するほどの変化はもたらされなかったと見られる。これはパーカーが軍事革命論の中で重視している要塞についても同じ。火器が伝来した後にデカーン高原の要塞で進んだ変化は、ルネサンス式要塞のように低く分厚く死角のない城壁を持つのではなく、丘の上にさらに基台を築いてその上に大型旋回砲を設置する方向へと進んだ。典型例はビジャプールの要塞で、高さ24メートルの基台の上に長さ9メートルを超える大型砲を設置して360度あらゆる方向を砲撃できるようにしている(40)。平坦な高原の上にいくつもの高い丘があり、そこが軍事拠点として使われることが多かったデカーン地方に合わせた進化と言えるが、大型砲の旋回や発射にかかる時間を考えると軍事的有効性より視覚的な威圧感を重視した造りにも見える。

 ユーラシア中央部ならではの地域的特性に適応した軍事技術の活用法がよりはっきり示されているのは、ムガール帝国だけでなくサファヴィー朝でも使われていたザンブーラックと呼ばれる小型の対人旋回砲だ。これらはラクダなど家畜の背中に搭載されており、主にラクダを座らせた状態で、時には移動中にも射撃された(41)。サファヴィー朝では16世紀前半から使われていたと見られるこの兵器は、ムガール帝国でも17世紀中ごろには存在しており、険しい地形でも利用できる機動力の高い軽砲兵として重宝された(42)。この種の兵器は欧州では採用されず、騎兵が能力を発揮しやすいユーラシア中央部ならではの兵器だった(43)。


 サファヴィー朝やムガール帝国に比べ、実際に欧州に隣接していたオスマン帝国は、より西欧に近い軍事技術を採用していた。彼らは15世紀にハンガリーの戦場でフス派のラーガー戦術を知り(44)、また当初はキリスト教徒に任せていた火器の運用を、15世紀の終盤になるとムスリム兵へとシフトした(45)。16世紀以降はこの章で紹介したようにいくつかの戦いで火器の威力を発揮している。彼らが持つ砲兵や銃兵の数も増え、どちらも17世紀末にかけてその数はピークを迎えた。

 彼らはマッチロックを17世紀に入ってかなり経ってからも使っていたが、一方で16世紀末頃から少しずつフリントロック(スペイン製のミケレットロック)の使用も増えていた。ただどちらにしても彼らが使っていた銃には2種類あったようで、1つは塹壕銃とも呼ばれる口径20-40ミリの大型銃と、もう1つはトュフェンクあるいはトュフェクと呼ばれる口径11-19ミリの比較的小さな銃だ(46)。16世紀半ばにはイェニチェリの大半はマッチロックで武装するようになっており、また遅くとも16世紀末までには西欧と同様に交代射撃を採用している(47)。パイクではなくラーガーを使用している点を除けば(48)、銃の使用法で西欧とオスマン帝国に大きな差があったようには見えない。

 一方、大砲の使い方という点で言えば彼らはある段階から西欧の変化に置き去りにされていたように見える。彼らは西欧の後を追って16世紀後半から17世紀初頭にかけて大型のボンバルドを製造し、また攻城砲として臼砲も作った。西欧でいうキャノンに相当する大型砲、カルヴァリンに当たる中型砲(ダルブゼンもここに含まれる)、そしてプランギを含むさらに小型の大砲も色々と作っている(49)。これらの大砲の口径は全体として見ると西欧勢よりは少し小さめであり、結果として彼らの城塞に配備された大砲も中型や小型の大砲が多かった(50)。

 だが問題はサイズではない。西欧では16世紀から既に始まっていた口径の規格化の流れが、オスマン帝国では見られなかったのだ。例えばシャイカと呼ばれる大型砲は大中小の3つのカテゴリーに分かれ、かつそれぞれに3-7種類の口径があった。結果、砲丸のサイズは軽いものだと2.5キロ、重いものは68キロまで存在しており、同じシャイカという名称でかなりのバリエーションが存在していたのが分かる。ダルブゼン(ペルシアやインドではザルブザンと呼ばれた小型砲)の砲丸も154グラムから2.5キロまで様々な種類があった(51)。多種類の砲丸を製造しなければならない分だけ彼らの軍備は効率性が低かった。

 技術面でも西欧の火器は帝国ベルトよりも先進的だった。そのためオスマン帝国ではウルバンの頃から常に西欧の技術者を呼び寄せて火器の製造に取り組んでおり、例えば16世紀半ばにはドイツ人やフランス人、スペイン人など多くの外国人専門家が雇われていた(52)。サファヴィー朝では武器そのものに加えて専門家も西欧から呼び寄せていた(53)。製造コスト面での優位もあり(第10章)、武器そのものを西欧から手に入れる動きも広く見られた。インドではマイソールのティプー・スルタンが滅亡した際に英軍が手に入れた10万丁近いフリントロックのうち、半数は欧州から輸入したものだった(54)。

 火器だけではない。軍事技術が社会にもたらした変化も西欧勢とは異なった。西欧勢が軍事のために社会の様々な階層を次々と動員していったのに対し、オスマン帝国では火器を使っていたイェニチェリが17世紀に入る頃には職人、商店主、商人、農民などより安定した収入を得られる職へと変貌していった(55)。16世紀末には既にイェニチェリの半数しか実働戦力にならなくなっていたが、この数値は17世紀末には30%に、1710年には17%にまで低下した。彼らだけでなく封建的なティマール制に基づく動員も17世紀末には困難になっていた(56)。時間が経過するにつれ、オスマン帝国の中央政府は社会階層を動員できなくなり、その分を地方の有力者に頼るようになっていたのだ。

 つまり、効率的な軍事力の必要性から財政=軍事国家が作られるという軍事革命が想定した歴史の流れは、これらの火薬帝国には当てはまらなかった。なぜか。一つの説として「彼らはあまりにも成功しすぎた」(57)というものがある。中国で火薬技術の進展が平和によってしばしば停止させられたのと同じく(第3章)、彼ら火薬帝国は巨大化し、帝国内を含めた広い範囲に平和をもたらしたがために、技術革新が止まってしまったという考えだ。その影響は軍事技術だけでなく社会全体の改革にも及んだ。成功した巨大な国は、社会全体を効率的に動員しなくても周辺国に比べて十分大きな戦力を維持できるため、効率化のインセンティブが働かなくなる。

 別の見方として、ポール・ケネディが唱えた「手を広げすぎた帝国」(58)という概念も当てはまるかもしれない。広範囲にわたる軍事関与とそれを支える国家資源とのバランスが崩れ、帝国が疲弊しやがては衰退していくという説だ。ケネディはカール5世のハプスブルク帝国やナポレオン帝国のような欧州内の事例を取り上げているが、広大な領土に軍を展開したイスラムの火薬帝国にも適用できる可能性はある。

 そう、こうしたメカニズムはこの章で取り上げた国々だけに当てはまるわけではない。西欧勢の中でも先行して巨大な植民地帝国を築き上げたイベリア半島の国は、やがて欧州北西部のより効率的な体制を作り上げた国々に追い抜かれた。例えばスペインでは八十年戦争中の17世紀初頭、12年の休戦期間を機に軍上層部で専門知識や技術に関する関心が薄れてしまい、それが後の敗北につながったと批判されている(59)。大きな成功やそれに伴う持続的平和を手に入れた結果、その状態に甘んじて改革を止めてしまう「成功の罠」に嵌ったのは、西欧勢もまた同じだったと考えられる。


 ユーラシア中心部は「帝国ベルト」と呼ばれるように、昔から大きな帝国を生み出すゆりかごとなっていた(第1章)。そこで生まれた火薬帝国が16世紀のうちに一気に強大化を成し遂げたのも、そうした歴史的な傾向を反映したものだろう。だが彼らは17世紀に入ると西欧の国々のような効率的体制を築き上げる前に発展が止まり、18世紀に入る前後には没落を始めた(60)。時間をかけて衰退した国(オスマン帝国)やすぐに滅亡した国(サファヴィー朝)といった違いはあるが、いずれも歩調を合わせて下り坂に入ったのは同じだ。

 しかしユーラシアの中心部で1つだけ、歩調のずれた火薬帝国があった。清朝だ。彼らのみが最後の火薬帝国として、騎兵革命の残滓を最後まで引きずったユーラシア中核の生き残りとして、火薬革命の暴風の中に残っていた。



01 Chase (2003), pp105

02 David Ayalon, Gunpowder and Firearms in the Mamluk Kingdom (1978), pp18

03 オスマン軍と同様、マムルークも銃や身を守る木製の盾、騎乗して銃を撃つためのラクダなどを用意した; Ibn Iyās, An account of the Ottoman conquest of Egypt in the year A.H. 922 (1921), pp54, 88

04 Chase (2003), pp115

05 Eskandar Beg Monshi, History of Shah Abbas The Great Vol. 1 (1930), pp67-70

06 Zahiru'd-din Muhammad Babur Padshah Ghazi, The Babur-nama in English, Vol. II (1922), pp469

07 Babur (1922), pp472-474

08 Babur (1922), pp564, 570-571

09 Kaushik Roy, Military Transition in Early Modern Asia, 1400-1750 (2014), pp65

10 Richard M. Eaton and Philip B. Wagoner, Warfare on the Deccan Plateau, 1450-1600: A Military Revolution in Early Modern India? (2014), pp17-20

11 チャルディラーンにいた1万人ちょっとのイェニチェリのうち実際に銃を装備していたのは3分の1ほどで、大砲の数も100-150門程度だった; Ágoston, Firearms and Military Adaptation: The Ottomans and the European Military Revolution, 1450–1800 (2014), pp109-110

12 Monshi (1930), pp42-43, 112-113

13 Ágoston, Ottoman military organization up to 1800 (2021), pp3-4

14 Nathan Lanan, The Ottoman Gunpowder Empire and the Composite Bow (2010), pp40-42

15 Chase (2003), pp117

16 Ágoston, Firangi, Zarbzan, and Rum Dasturi: The Ottomans and the Diffusion of Firearms in Asia (2019), pp93

17 Ed. Lance Jenott, Anthony Jenkinson's Explorations on the Land Route to China, 1558-1560 (2001), pp472

18 Zamonov Akbar Turginovich, Introduction And Use Of Firearms In Bukhara Khanate (2017), pp319-320

19 B. Juraev, Foreign Trade Relations of the Khanate of Bukhara (2020), pp547

20 Bart Hacker, Mounted Archery and Firearms Late Medieval Muslim Military Technology Reconsidered (2015), pp54

21 Andrew de la Garza, Mughals at War: Babur, Akbar and the Indian Military Revolution, 1500 – 1605 (2010), pp74

22 William H. McNeill, The Age of Gunpowder Empires, 1450-1800 (1993)

23 Ed. Ehsan Yarshater, Encyclopaedia Iranica, Volume IX (1999), pp619

24 Ágoston (2019), pp92

25 Ágoston (2019), pp94

26 Ed. Yarshater (1999), pp620

27 Ágoston (2019), pp95

28 Rudi Matthee, Unwalled Cities and Restless Nomads: Firearms and Artillery in Safavid Iran (1996), pp394-395

29 Matthee (1996), pp395-396

30 Ed. Yarshater (1999), pp622

31 Jos Gommans, Mughal Warfare: Indian Frontiers and Highroads to Empire 1500–1700 (2002), pp155

32 Iqtidar Alam Khan, Mughal Empire: An Instrument of Centralization (1998), pp345, 348-349

33 Brenda J. Buchanan, Gunpowder, Explosives and the State: A Technological History (2016)

34 Timothy May, May on Khan, 'Gunpowder and Firearms: Warfare in Medieval India' (2006): https://networks.h-net.org/node/12840/reviews/13288/may-khan-gunpowder-and-firearms-warfare-medieval-india(2022年10月29日確認)

35 Khan (1998), pp352-353

36 de la Garza (2010), pp119-123

37 Ágoston (2019), pp100-104

38 Roy (2015), pp72

39 de la Garza (2010), pp80

40 Eaton and Wagoner (2014), pp29-33

41 Ed. Yarshater (1999), pp620-621

42 Kubilayhan Ernan, Afshar Nader Shah: Military Leadership, Strategy and the Armed Forces During his Reign (2018), pp94

43 de la Garza (2010), pp124

44 Ágoston (2005), pp18-19

45 Ágoston (2014), pp94

46 Ágoston (2005), pp89-91

47 Ágoston (2021), pp4

48 チェイスはユーラシアの地域によってパイクとラーガーの使用が分かれた件について、人口密度の差に由来すると説明している; Chase (2003), pp78など

49 Ágoston (2005), pp64-88

50 Ágoston (2014), pp102

51 Ágoston (2005), pp75, 85

52 S. Ayduz, Artillery Trade of the Ottoman Empire (2006), pp11-12

53 Ed. Yarshater (1999), pp620

54 Satia (2018), pp294

55 Ágoston (2014), pp119

56 Ágoston, Military Transformation in the Ottoman Empire and Russia, 1500-1800 (2011), pp303-309

57 de la Garza (2010), pp292

58 Paul Kennedy, The Rise and Fall of the Great Powers (2010)

59 González de León (2009), pp141-142

60 Stewart Kerra and Ian Germania, Ottoman Decline: Military Adaptation in the Ottoman Empire, 1683-1699 (2018)

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