第15章 海と河の遊牧民

 1582年、ルソン島北部のカガヤンに勢力を張るタイ・フサ(太夫?)の倭寇一党を駆逐すべく、カリオン提督率いるスペイン艦隊が遠征を行った。彼らはカガヤン近くで倭寇船1隻と遭遇し、艦隊内のガレー船1隻がこれと交戦。当初はスペイン船の砲撃でメインマストが吹き飛ばされた倭寇側が不利に見えたが、倭寇は鉤縄を使ってスペイン船を捉え、60人の火縄銃兵による援護の下、200人の兵が乗り込んできた。だがスペイン側もこれに抵抗し、倭寇船は撤退しようとした。その時、スペイン側のもう1隻が倭寇船に砲撃を浴びせ、これを圧倒。18人にまで兵力を減らした倭寇船はついに降伏した(01)。

 ルソン島北部を荒らしていた倭寇と、フィリピン全域の支配を目指すスペイン軍との交戦は、この時期のユーラシア周辺部における混沌とした情勢を象徴する出来事だ。この時期の後期倭寇の中には日本人だけでなく中国人も大勢いたと思われるし、実際彼らは中国の小型船であるサンパンを利用していた(02)。一方のスペイン軍には、メソアメリカ生まれのスペイン人2世や、アステカ征服以来の同盟者であるアメリカのトラスカラ族(第13章)、さらにはフィリピンの原住民なども兵に含まれていたとの説もある(03)。

 上記の記述にもある通り、この戦いに参加した勢力はどちらも火器を使っていたのが特徴だ。同年に書かれた別の報告書内では、日本兵が「世界のこの地域で最も好戦的」な人々であり、砲兵と数多くのアルケブスやパイクを持ち、鉄製の鎧で身を守っていたと書かれている(04)。16世紀後半のこの時期になると、ユーラシア周辺の海域でも火器を使うのが当たり前になっていた様子がうかがえる。なおこの争い、最終的にはスペインが倭寇を撃退した点も象徴的(05)。混乱の中から最終的な勝者として浮かび上がってきたのは、火薬革命の影響を最も強く受け入れているところだった。


 海は昔から人・物・情報が行きかうルートだった。ただし常に主役だったわけではない。ユーラシアの東西を結ぶ道にしても、時には陸のシルクロードが大きな役割を果たし、時にはインド洋の海の道が重要になった(06)。特に帝国形成という観点で見れば、馬匹の家畜化以降むしろ環境的に騎兵の生育に向いたステップ地帯に近いユーラシア中心部こそが「帝国ベルト」(第1章)となり、旧世界の中でも複雑な社会を集中的に生み出してきた(07)。逆にユーラシアでも周縁部にあたる地域、つまり海沿いやシベリアといった地域は、社会を変えるような変革が最も遅く到来する辺境だった。

 リーバーマンはステップ地帯の遊牧民の影響に直接晒されているユーラシア中心部を「暴露ゾーン」、そこから遠く、遊牧民のインパクトから守られている地域を「保護下の周辺地域」と名付けた(08)。もちろん保護されている地域にも国家形成の流れはやってきたのだが、それは鉄器・騎兵革命が起きて1000年以上もの時間が経過した紀元第1千年紀後半になってから。ルーシ、アンコール朝、そして日本の律令国家といった「憲章国家」(09)が登場するまで、これらの地域の多くは、遊牧民はもとより中心部の帝国による支配からも縁遠いままでいられた。彼らは距離によって守られていたのだ。

 ところが16世紀の大航海時代になって事態は急変する。火薬と船舶を合わせた砲艦革命を成し遂げた西欧勢が、世界中の海を通じてその軍事技術をユーラシアの辺境にももたらすようになった。ステップ地帯ではなく海からやってくる遊牧民(第11章)が、これらの地域をいきなり襲撃したわけで、歴史の最先端から離れた場所でのんびりしていたはずの彼らは、唐突に最前線に送り込まれ、暴風に直面させられた。

 もちろん多くは対処しきれずに嵐に飲み込まれた。ポルトガルのアルブケルケによるインド洋各地の征服事業はその典型例だろう。彼は1510年にゴアを、1511年にマラッカを、1515年にホルムズを征服し、僅かな期間でインド洋にポルトガル海洋帝国の礎を築き上げた(10)。もちろんいずれの戦いも火器と艦船それぞれが使われた点でいかにも海の遊牧民らしい戦いであったが、中でも典型的なのがマラッカ征服だろう。

 当時マレー半島にはイスラム教のマラッカ王国があり、中継貿易拠点であるマラッカを中心に繁栄していた。この地に最初にポルトガル船が現れたのは1509年のことだったが、彼らが西インド洋でイスラム勢力と敵対していることを知ったマラッカ王は彼らを騙して捕らえようとした。上陸していた代理人などは捕虜となったが、残りは策略に気づいて逃げ出した(11)。

 インドのゴアで情報を知らされたアルブケルケだったが、当初はマラッカ攻略にあまり乗り気ではなかった。ポルトガル王からマラッカとの交易を命じられていた部下の指揮官がそちらに向かおうとするのを止め、先に紅海方面での作戦を済ませた後で強力な艦隊でマラッカに侵攻すべきだと主張。さらには勝手に出航した部下を捕らえて処刑したほどだ。だが1511年2月にゴアを出航した時には既にモンスーンの影響で紅海へ向かうことができず、彼は改めてマラッカへの遠征を決断した(12)。

 マラッカに到着した彼はしばらく捕虜の返還などを巡って交渉を行ったが、相手が時間稼ぎをしているだけと判断し、7月25日には攻撃を始めた。防衛に当たったイスラム軍は20頭の戦象と多くの砲兵(おそらくは小型砲)で武装しており、大型マッチロックなどでポルトガル軍を迎え撃った。一方で上陸したポルトガル軍も通りを見通せる位置に大砲を配置するなど、双方が火器を使って戦っていた様子がアルブケルケの記録から分かる(13)。この1回目の攻撃はマラッカ軍が粘り、日中の暑さで疲労したポルトガル軍がいったんは後退を強いられる形で終わった。

 だが改めて準備をし直したアルブケルケは8月8日に2度目の攻撃を実施。両軍が銃や大砲で撃ち合う中、ポルトガル軍は再び町に上陸した。さらに小型船に載せた大砲で陸上にいる敵を砲撃して追い払うと、土を詰めた樽や木材を使ってバリケードを築き、多くの火器も配置して拠点とした(14)。堅牢な足がかりを作られたマラッカ側は浮足立ち、多くの同盟者が逃げ出し、あるいはアルブケルケに保護を求めてきた。そうやって防衛側の戦力が十分に減ったと判断したアルブケルケはマラッカの略奪を兵に命じ、かくしてマラッカはポルトガルの手に落ちた。

 アルブケルケはマラッカ遠征に際し18隻の艦船と1400人の兵員を引き連れてゴアを出発したが(15)、これを迎え撃つマラッカには同盟国も含め2万人以上の戦力がいたという(16)。これだけの戦力差があってもポルトガル側が勝利できたのは、もちろん様々な事情が働いた結果ではあるが、その中には彼らが火薬革命の最先端にいたという事実もおそらく含まれる。海上交通の要衝を占めていたとはいえ、帝国形成や軍事技術面ではユーラシア内でも後続組だった東南アジアの小国家との格差がこうした結果をもたらしたのだろう。


 注目点は、上の描写にもあるようにマラッカ側も多くの火器を使って抵抗したことだ。町の陥落後にポルトガルが手に入れた火器は実に3000門に達したそうで、うち2000門の青銅製火器の中にはカリカット王が送ってきた1門の大型砲もあった。残りは鉄製でポルトガルのベルソ(日本ではフランキ砲と呼ばれている後装式の小型砲)のような形状をしていたという。さらに捕虜となっていたポルトガルの代理人は、攻略前にマラッカには8000門の大砲があるとも伝えており(17)、数字自体は誇張されているとしてもそれなりの数の火器を彼らが持っていたのは確かだ。

 実はこの地域に最初に火器をもたらしたのはポルトガルではなかった。彼らの前にインド洋交易を牛耳っていたイスラム勢力が、西欧で発達した火器をマムルーク朝経由などでこの地域に運び込んでいたのだ。第6章でも述べた通り、彼らは15世紀半ばには既にインドに火薬兵器を伝えている。さらに東方のジャワ島にも1459年頃には後装式の火器が到来していたという説(18)や、現存するジャワ島出土のフランキ砲についてマジャパヒト王国の滅亡直前にあたる1470-1478年に製造されたとの指摘(19)もある。ポルトガルがインド洋に進出してくる前に、既に火器はこの地域に広まっていた。

 インド洋沿岸だけではなく、中国にまで伝わっていた可能性もある。オスマン帝国が15世紀後半にガレー船に搭載していた後装式の旋回砲はプランギという名で(20)、また後にインドを征服するムガール帝国ではファランギという呼び名で(21)知られており、これが中国でフランキ砲と呼ばれるようになった。一般的には16世紀前半のポルトガルとの接触でこうした西欧風の火器が中国でも知られるようになったとされているが、アンドラーデはもっと早くから伝来していたと推測している(22)。実際、中国の記録の中には、15世紀末から16世紀初頭にシュリーヴィジャヤ王国からフランキ砲が伝来したという記録もある(23)。

 とはいえこれらイスラム勢力が運んだ火器がインド洋沿岸に根付いていたかというと、それは怪しい。マラッカがこれらの武器を手に入れたのは比較的最近で、住民にとってまだ火器は珍しい存在だった。実際にマラッカ側の記録には、ポルトガル軍に大砲を撃たれた住民たちが、その音と攻撃力に驚愕したという話が残されている(24)。およそ100年後にマレー地域の住民の特徴について書かれた文章の中でも、彼らの戦術が西欧のものに比べて未熟だと指摘されており、マラッカが火器の使用にいまだ慣れていなかった様子がうかがえる(25)。

 ユーラシアの辺境だったインド洋沿岸部を変えるほどのインパクトを及ぼしたのは、やはり西欧勢がもたらした火器だった。特にゴアではボヘミアで製造されていたタイプのマッチロックが早くから製造されており(26)、後にポルトガルはここに「1万丁の銃の家」と呼ばれる武器工場を築いた(27)。ここで製造されたインド=ポルトガル式と呼ばれるマッチロックは、インドの内陸部で使われていたシア式とは異なるスナップ式の点火機構を持ち(第10章)、それらは海路を経てセイロンやジャワ、そして日本へ伝わっていった。1543年、種子島にポルトガル人がもたらした鉄砲も、おそらくはその一種だ(28)。

 火薬兵器自体はそれ以前から日本に到来していたが(第8章)、それについて残されている史料は少なく、あまり普及していた様子はない(29)。ところが種子島にインド=ポルトガル式の銃が伝わるとこちらは急速に広まり、10年も経たないうちに銃が細川晴元の下に献上され(30)、さらには京都で行われた戦闘において銃による戦死者も発生している(31)。戦国時代だったのも理由の一端だが、西欧式の銃の方が使い勝手がよかったとも考えられる。

 16世紀における後期倭寇の活発化も、ポルトガルの火器が背景にあった可能性がある。そもそも種子島にポルトガル人を乗せてきたのは倭寇の王直の船であり(32)、1548年に倭寇の拠点から性能のいい銃が発見されたと記している史料もある(33)。彼らと対峙した明の戚継光は、インド=ポルトガル式の銃を意味する「鳥銃」を高く評価しており、弓矢では遠く及ばないと記している(34)。彼は自軍にも鳥銃を取り入れていたが、海洋勢力よりも内陸の遊牧民との戦闘が中心だった中国北部では昔からの中国製火器の使用が続いた(35)。

 16世紀はこうした西欧由来の武器で武装した海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ベトナム・台湾・日本、ポルトガル・オランダ・スペイン、東南アジア海域部)が、それまで中国製の火薬兵器を使って優位に立っていた大陸アジア(アッサム・北ベトナムを含む東南アジア北部・明清中国・朝鮮)へ挑戦していった時代だ(36)。その極端な事例が16世紀末の文禄・慶長の役だろう。この戦争で朝鮮の支援にやって来た明軍は、日本軍の鉄砲に苦戦したと言われている(37)。

 日本にインド=ポルトガル式の火器が伝来してから半世紀ほどしか経過していなかったが、この時点で出征した大名たちの中には既に14-15%の兵に鉄砲を装備させていた例もあり(38)、日本で西欧式の鉄砲がかなり急速に普及していたことが分かる。またこの戦役で朝鮮側に降った武将は、前方に鳥銃部隊を配備してまずは彼らに射撃をさせ、接近したところで白兵戦に移るという戦い方を朝鮮軍に伝えている(39)。日本ではそれだけ鉄砲の利用が定着していたわけで、これも西欧の火器がもたらした変化の1つだろう(40)。

 兵器だけでなく、ポルトガル人が関与して火薬革命が進んだのが東南アジアの大陸部だ。タイのアユタヤ朝は16世紀初頭、ポルトガル人のアドバイザーの助けを得て軍事改革を推進。ポルトガルに訓練された部隊と多くの火器を揃えて北方のチェンマイ相手に勝利を得た(41)。同世紀半ば頃には300人のポルトガル人がアユタヤに住むようになり、ビルマのタウングー朝との戦争ではポルトガル人傭兵60人が雇われて防衛に当たった(42)。そのタウングー朝も攻城戦に大砲を使うようになっており、軍には火器を扱う100人のポルトガル人が含まれていた。加えて180人のポルトガル傭兵が戦争に参加しており、彼らは多くの死者を出すなど本格的に戦闘に加わった(43)。ユーラシア周辺部に様々な形で火薬革命が広がった様子が分かる。

 さらに17世紀に入るとポルトガルに取って代わり、ユーラシア周辺部に海洋帝国を築き上げる地元勢力も生まれてきた。アラビア半島南部を拠点にペルシア湾からアフリカ東岸まで海岸沿いに勢力を広げたオマーン帝国がその例。彼らは18世紀初頭には74門艦1隻、60門艦2隻、53門艦1隻、32門から12門までの艦船18隻などで構成される艦隊を保有し、インド洋西部に覇を唱える交易帝国となっていた(44)。


 火薬革命によって変貌を遂げたユーラシア辺境は、実は沿岸部だけではない。1582年、ロシアの貴族であるストロガノフ家に雇われたコサックたちが、ウラル山脈の反対側に勢力を持つシビル・ハン国へ向けて出発した。840人のこの小規模な部隊は、有名なコサックの隊長イェルマークに率いられ、アルケブス(火縄銃)と軽砲をボートに載せるとチュソヴァヤ川を遡ってウラルの山中へ進んだ。彼らはギリギリまで川を進み、その後陸路で物資やボートを運ぶと、今度は山地の反対を流れるトゥラ川をボートで下り、この地域に展開しているタタール人(シビル・ハン国に対するロシア側の呼称)を攻撃した。

 コサックの侵入に対し、シビル・ハン国の軍勢はイルティシュ川(オビ川の支流)とトボル川の合流点にほど近いチュヴァシュに柵を築き、一部の部隊はババサンと呼ばれる場所まで前進してきた。コサックと彼らはまずこの地で衝突。ジュヴァイニーの描いたモンゴル軍(第5章)同様、タタール軍は馬上から弓矢や槍で攻撃を仕掛け、コサックはアルケブスと軽砲で反撃した。この戦いはコサックの勝利に終わり、タタール軍はチュヴァシュの陣地まで後退する。そこまで追撃してきたコサックは敵の数が多いのを見て一瞬ためらいを見せたが、すぐにこの陣地を攻撃し、シビル・ハン国の軍勢を大いに打ち破った(45)。

 イェルマークの軍勢が火力でシビル・ハン国を上回ったのは、まさにこの時期にロシアで軍事革命が始まっていたからだ。16世紀前半のモスクワ大公国は主に騎兵を中心としたシビル・ハン国と似たような軍勢を持っており(46)、それは他の周辺諸国も共通していた。しかし同世紀後半から始まったリヴォニア戦争でデンマークやスウェーデンといった火器を持つ軍と接触した頃から、モスクワでの軍事革命が始まった。彼らは火器を導入してストレルツィと呼ばれる銃兵部隊を編成。さらに封建的であった軍組織の集権化を推進するべく、騎兵戦力についてもモスクワの中央政府が統合するようになった(47)。

 イェルマークの軍勢によるこの勝利は、ロシアによるシベリア征服の端緒となった。彼は1586年、滅ぼしたシビル・ハン国の故地に要塞を建設し、そこが後に西シベリアの中心都市トボリスクとなる。ここが拠点になった最大の理由は、河川交通上の利便性だ。18世紀の書物によると、モスクワの物資はまずこのトボリスクへ運ばれ、そこからイルティシュ川、オビ川、ケチ川を経てマコフスコイから陸路でエニセイ川まで到達する。さらにアンガラ川を経てバイカル湖畔のイルクーツクに行くことができたという(48)。

 ロシアの狙いはシベリアで取れる毛皮だった。だが原住民と火器の取引を通じて毛皮を手に入れようとした西欧のアメリカ植民者たちと異なり、ロシアはシベリアを征服したうえで税として毛皮を収めさせる方法を選んだ。1620年に西シベリアを支配したロシアは、さらに川沿いのルートを東進。エニセイ川の支流であるニジニャヤ・ツングースカ川を遡り、レナ川上流を発見した。そのままレナ川流域を探索した彼らは、1632年には中流域にヤクーツクの町を建設している(49)。

 新大陸よりも容易に征服が進んだのは、何よりシベリアの人口が希薄だったためだ。17世紀のシベリアには、ロシアの報告を信用するなら22万7000人しか住んでおらず、しかもそれらは数百の部族に分かれていた。またアメリカ大陸同様、彼らはロシアとの接触に伴い疫病にも襲われた。ツングース族やヤクート族は天然痘によって人口の8割を失ったと言われている。そして火器の存在。シベリア原住民を撃ち破るには30人とか50人といった規模の銃兵で事足りた。さらにシベリアの征服、毛皮の獲得の後には農業目的によるロシア人の移住も進み、19世紀初頭には17世紀に比べ人口は10倍以上に膨らんだ(50)。

 イェルマークがそうであったように、ロシア人やコサックはボートに武器を積み込んで移動し、河川が流れていないところのみ陸路を移動した。ポルトガル人など西欧勢が海路を使った海の遊牧民だとすれば、ロシア人は河の遊牧民と言えるだろう。彼らは短期間でシベリアを横断し、17世紀には既に中国の北方まで姿を見せてルネサンス式要塞を建造するに至った(第10章)。同じ17世紀にロマノフ朝が成立したロシアでは、もう一段の軍事革命が1630年代、及び1650-60年代に進展しており、ピョートル大帝の登場以前から中央集権化とより幅広い動員を伴う政府の効率化が進んでいた様子がうかがえる(51)。彼らの進出により、火薬革命はユーラシアの北の辺境も大きく変えたのだ。


 だが火薬技術を持つ西欧側がいつもそう簡単に勝ったわけではない。例えばアルブケルケは1507年に落としたホルムズを翌年には一度放棄している(52)。コルテスがスペイン人同士で争ったように(第13章)、部下の反乱というポルトガル人同士の内紛によって彼はホルムズ放棄を強いられた。ゴアでも一度この町を落とした後に内陸のビジャプールからイスラム王国軍が接近してきた際、戦力不足で撤退を強いられている(53)。またマゼランは1521年、フィリピンの原住民を相手にした戦力差の大きい戦いで、火器を持たない敵を相手に戦死した(54)。

 17世紀になっても西欧勢はそう簡単に内陸には入り込めなかった。1686-90年に行なわれた英東インド会社とムガール帝国との戦争では、英国から軍が送られたものの東インド会社による攻撃はすべて失敗に終わり、ベンガル州の英軍は乗船してマドラス(チェンナイ)へと撤収することを強いられた。結局、東インド会社は皇帝アウラングゼーブへの謝罪と1万7000ポンドの罰金支払いを条件に、ようやく交易ライセンスの更新を認められた(55)。

 シベリア原住民相手には容易に勝利を収めたロシアも、しかしそこから南へ進もうとすると足止めを食らった。彼らは北方へと勢力を伸ばしてきた清帝国とアムール川沿いで接触し、何度か軍事的に衝突している。最終的に両国は1689年のネルチンスク条約で国境を画定。ロシアはアムール川のはるか北方へと追いやられ、この河川を利用することがしばらくできなくなる(56)。

 そう、16世紀以降ユーラシアの辺境を席巻した欧州勢だったが、彼らはユーラシアの中核には手を出せなかった。西欧勢は周辺の島嶼部や大陸の沿岸部に拠点を築くことはできたが、内陸まで深く踏み込もうとはしなかった。火縄銃を手に入れた日本も、大陸に侵攻はしたが結局引き揚げる羽目になった。ロシアもシベリアの森林地帯以北に封じ込まれていた。かつての騎兵革命の中心地であったユーラシアの中核地域(帝国ベルト)には、新たに火薬技術で武装し、海や河の遊牧民を撃退できるだけの強さを持った帝国が、いくつも生まれていたのだ。



01 Ed. Emma Helen Blair and James Alexander Robertson, The Philippine Islands, 1493-1803, Volume V (1903), pp192-193

02 Blair and Robertson (1903), pp194

03 Guillermo Calleja Leal, Filipinas 1582 La victoria sobre los piratas japoneses de Cagayán (2022), pp2-3

04 Blair and Robertson (1903), pp27

05 スペインはこの後、陸戦で倭寇に3回突撃されながらこれを撃退し、敵に600人の損害を与えたと指摘している文献もある; José Eugenio Borao, La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII (2005), pp2。ただし当時のスペイン側の報告書を見ると、敵の攻撃を撃退したという話は載っているが詳細についての記述はない; Emilio Sola, Relaciones entre España y Japón :1580-1614 (1978), pp53-54

06 William R. Thompson, Synthezing Secular, Demographic-Structural, Climate and Leadership Long Cycles: Moving Toward Explaining Domestic and World Politics in the Last Millennium (2010), pp36

07 Turchin et al., War, Space, and the Evolution of Old World Complex Societies (2013), Fig. 1

08 Lieberman (2009), pp85

09 Lieberman (2009), pp53

10 主要な交易地との間に強力な港湾拠点を連ねて交易路の安全を確保し、利益を独占しようとするシステムはヴェネツィア・モデルとも呼ばれ、ポルトガルが作り上げたインド洋の海洋帝国の他に、オランダや英国もそのモデルを採用した; William R. Thompson, The Military Superiority Thesis and the Ascendancy of Western Eurasia in the World System (1999), pp154-157

11 Afonso de Albuquerque, The Commentaries of the Great Afonso Dalboquerque, Vol II (1877), pp73-74

12 Henry Morse Stephens, Albuquerque (1892), pp94-95

13 Albuquerque, The Commentaries of the Great Afonso Dalboquerque, Vol III (1880), pp99, 103, 106

14 Albuquerque (1880), pp121-124

15 Stephens (1892), pp99

16 Albuquerque (1880), pp99

17 Albuquerque (1880), pp127-128

18 John Crawfurd, A Descriptive Dictionary of the Indian Islands & Adjacent Countries (1856), pp22-23

19 Averoes (2020), pp95-96

20 Chase (2003), pp93

21 Cathal J. Nolan, The Age of Wars of Religions, 1000-1650, Volume 1 (2006), pp302

22 Andrade (2016), pp141

23 もちろんシュリーヴィジャヤ王国は既に滅亡しており、ここでは王国のあったジャワ島から伝来したという意味だと思われる; 万暦野獲編巻17。なお中国にはフランキ砲と似た形状のジャワ銃と呼ばれる兵器があったとの記録も存在する; 殊域周咨録巻9; 小山類稿巻9

24 John Leyden, Malay Annals (1821), pp325

25 Godinho de Erédia, Description of Malaca and Meridional India and Cathay (1930), pp31

26 1513年にはボヘミアと同じような銃が製造されていたとアルブケルケが報告している; Daehnhardt (1977), pp6

27 Nicolas Morelle, Architecture militaire du Deccan (2020), pp322

28 鉄砲記

29 中島楽章, 銃筒から仏郎機銃へ : 十四~十六世紀の東アジア海域と火器 (2011), pp8-15

30 天野忠幸, 大阪湾の港湾都市と三好政権 (2004), pp89

31 言継卿記15

32 三宅亨, 倭寇と王直 (2012), pp186-187

33 村井章介, 鉄砲伝来と倭寇勢力 (2016), pp91

34 練兵実記巻1, 巻4

35 Andrade (2016), pp179-180

36 Sun, An Age of Gunpowder in Eastern Asia (2006), pp3

37 久芳崇, 十六世紀末、日本式鉄砲の明朝への伝播 (2002), pp34

38 続群書類従巻653末高麗国出陣武者分備定。別の大名の場合も13.4%が鉄砲を持っていたとの記録がある; 立花家文書高麗御陣御備人数覚

39 宣祖実録巻49, 巻72

40 日本で軍事革命が起きたかどうかについては色々な見解が存在する。一方では鉄砲伝来以前から日本では政府などの変化が始まっていたという主張がある; Stephen Morillo, Guns and Government: A Comparative Study of Europe and Japan (1995)。逆に織田信長が軍事革命を行ったという説もある; 藤田達生, 戦国日本の軍事革命 (2022)。日本で生じていたのは「未完の軍事革命」だったという、双方の中間的な見方も存在する; 西股総生, 戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢 (2012)

41 Joaquim de Campos, Early Portuguese Accounts of Thailand (1983), pp14

42 de Campos (1983), pp29-30

43 Pamaree Surakiat, Thai-Burmese Warfare during the Sixteenth Century and the Growth of the First Toungoo Empire (2005), pp86。この戦争では合わせて180人のポルトガル人が戦死したと伝えられている。

44 Abdul Aziz El-Ashban, The Formation of the Omani Trading Empire under the Ya'aribah Dynasty (1979), pp368

45 イェルマークのこの活躍について記したストロガノフの年代記については、ターチンが英訳している; Turchin, War and Peace and War (2006), pp18-20

46 Sigismund von Herberstein, Rerum Moscoviticarum Commentarii (1851), pp96-97

47 Marshall Poe, The Military Revolution, Administrative Development, and Cultural Change in Early Modern Russia (1998)。この時代にモスクワ大公国は既に1万2000人のストレルツィを配備していた; Giles Fletcher, Russia at the Close of the Sixteenth Century (1856), pp72

48 John Phillips, A general history of inland navigation, foreign and domestic (1792), pp33

49 John F. Richards, The World Hunt: An Environmental History of the Commodification of Animals (2014), pp63-64

50 Richards (2014), pp75-77

51 Poe, The Consequences of the Military Revolution in Muscovy: A Comparative Perspective (1996), pp607-609; 複雑な社会がまだ発展していなかったモスクワ大公国での軍事革命は、政府によってかなり一方的に上から進められたようだ。軍事革命は西欧と同様に複雑な行政・財政組織を生み出し、社会のあらゆる分野が国家によって階層化された。ロシアは伝統的に行政エリートに支配されていると言われているが、背景にはこうした上からの軍事革命の歴史があったのかもしれない; https://peterturchin.com/cliodynamica/who-are-the-elites/(2023年6月10日確認)

52 Stephens (1892), pp57

53 Stephens (1892), pp79

54 Antonio Pigafetta, Magellan's Voyage Around the World, Volume I (1906), pp177

55 Paul Ernest Roberts, A Historical Geography of India (1916), pp44-46

56 Gerard Fridrikh Miller, The Conquest of Siberia (1842), pp35-36

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