第14章 不信のサイクル

 1788年、西アフリカの王族の一人であり、1700騎の騎兵を指揮して部族の交易を邪魔している他部族との戦いに従軍していたアブドゥル・ラーマン・イブラヒマ・ソリは、敵の待ち伏せに遭って捕虜となった(01)。彼はフランスの奴隷商人に売り飛ばされ、それから実に40年近くにわたってミシシッピ州の農場で奴隷として暮らすことになった(02)。彼がアフリカでも有力者の一族であることは奴隷になった16年か18年後には判明していたが、一方で農場経営への寄与が大きかったため所有者は彼を解放するのに難色を示した。ソリはアフリカの一族に手紙を書き、彼らがアメリカ政府に訴えた結果、ようやく奴隷の身分から解放されたという。

 19世紀まで続いた悪名高い大西洋奴隷貿易によって、アフリカからアメリカ大陸へと売られていった奴隷の数は1250万人にも達すると推計されている(03)。アフリカにとっての火器の位置づけは、この奴隷貿易と密接に関係している。ソリがそうであったように、敵対部族との戦争で捕虜になった者が西欧の奴隷商人に売られる事例は数多く、さらには最初から奴隷集めを目的に他部族を誘拐するケースもあった。そうした戦いに使用されたのが銃であり、銃の増加が奴隷の増加をもたらし、それがさらに銃の増加を招くというサイクルが18世紀前半に成立していたという研究もある(04)。

 一方でアフリカはアメリカに比べると植民地化の進展は遅く、列強による分割が進んだのはようやく19世紀末から20世紀初頭にかけての時期だ(05)。つまり奴隷貿易の時代にはサブサハラ・アフリカの大半は植民地化されておらず、内陸部の多くはアフリカ人が支配していた。確かに奴隷を船に乗せて大西洋を渡ったのは西欧人たちだったが、アフリカの西海岸まで奴隷を連れてきて奴隷船に売り払った者たちの中には、ソリを売り飛ばしたライバル部族の者のように、多くのアフリカ人が含まれていた。部族間の激しい争いが火器の普及を促したのはアメリカもアフリカも同じだが、それが奴隷貿易と密接に結びついてしまったのがアフリカの悲劇であった。


 だがまずはアフリカにおける古い火器の話をしよう。サブサハラ・アフリカに火薬兵器を伝えたのは西欧勢だけではなく、北アフリカのイスラム勢力も含まれていた。16世紀前半、キリスト教国家であるエチオピアと、今のソマリア北部やエチオピア北東部にあったアダル・スルタン国の間で行われた戦争についての記録を見ると、1531年のアントゥキヤ戦いでイスラム勢力側が大砲を使っている(06)。イスラム側では既に1515年にはアラビアに火器が伝わっていたのに対し、エチオピアはようやく1530年になってアラブ人の背教者の手で大砲を扱うようになったとの話もある(07)。

 もっと直接的なのが、モロッコのサアド朝による16世紀末のソンガイ王国征服だろう。サアド朝はアルケブスのみならず、英国から手に入れた大砲をスペイン人に操作させ、その破壊力でソンガイを撃ち破った(08)。またアフリカ中央部にあったカネム=ボルム帝国でも、16世紀の後半にオスマン帝国から火器を手に入れ、王のボディガードを務める奴隷たちをそれで武装させた(09)。旧世界の周辺部に火器を伝えるうえで、イスラム勢力が一定の役割を果たしていたのが分かる。

 とはいえ、主役はやはり西欧勢だった。古くは15世紀末の時点で、サヘル地域に勢力を持っていたマリ帝国がポルトガルに火器の供給を求めたが、ポルトガルはこれを断ったという話がある(10)。現在のナイジェリア南部に勢力を持っていたベニン王国が1515年から1516年にかけて戦争を行った際には、火器を持ったポルトガルの傭兵がそれに参加した(11)。エチオピアとアダル・スルタン国の戦争でも終盤にはポルトガルがエチオピアを支援して介入し、アダル・スルタン国の指揮官をマッチロック銃で撃ち殺している(12)。16世紀後半、キリスト教国になったコンゴが他部族の襲撃を受けた時には、西欧勢が火器を持った兵を増援に送ってこれを押し返している(13)。

 ただしポルトガルくらいしかアフリカに手を伸ばしていなかった16世紀の時点では、それほど大量の火器がアフリカの諸勢力に供給された様子はない。非キリスト教国に対しては銃を売らないというのがポルトガルの表向きの説明だったが、実際にはキリスト教に改宗した国に対してもあまり積極的に売ってはいなかったようだ。ポルトガル自身、15世紀から17世紀にかけてオランダやドイツの鉄砲鍛冶に火器の供給を依存していたのが理由だったという説がある(14)。

 流れが変わったのはアメリカ大陸同様、ライバルとなる他の西欧勢力がアフリカに手を伸ばしてきた時から。西アフリカの黄金海岸や奴隷海岸と呼ばれた地域では、特に各国が銃の交易でしのぎを削った。まず黄金海岸に参入してきたのはオランダ。1593年から1607年にかけて200隻以上のおそらく銃を積んだオランダ船がこの地を訪れた。17世紀に入ると英、スウェーデン、デンマーク、ブランデンブルクなどもこの地に交易拠点を置き、地元勢力との取引に精を出した。17世紀前半には原住民部族の抗争に銃兵が貸し出される動きも見られるようになる(15)。

 アメリカと同様、アフリカでも西欧勢力は友好的な部族に銃の贈呈も行っていた。17世紀半ばになると、銃は沿岸部の部族だけでなく内陸の森林諸国にも広まった。1660年代からはさらに交易が加速。1隻の船が持ち込む銃の数は数十丁から数百丁へ、さらに1670年代には千丁を超えるまで膨れ上がった。1680年代に入ると黄金海岸に隣接する奴隷海岸にも銃が流れ込み、後に奴隷貿易国家として名を馳せるダホメー王国もこの頃から火器を手に入れるようになった。1690年代には点火機構の進化に伴い、販売される銃がマッチロックからフリントロックへと移り変わっている(16)。

 欧州からの距離が遠い南部アフリカで銃が広まり始めるのは、オランダが植民を始めた17世紀半ば以降であった。ただし当初の拡散はゆっくりとしたペースであり、本格的になったのは英国がケープ植民地を奪った19世紀に入ってから。この地には19世紀になってもズールーなど他部族を襲撃して勢力を広げた部族がいたが、そうした部族の中には銃で武装していた者が4分の1から5分の1にとどまっていた例もある(17)。むしろそうした攻撃的部族の襲撃に抵抗する側の方が銃を使うメリットは大きかったようで、現在のジンバブエ周辺では襲撃を受けるショナが先に銃を受け入れ、その後で襲撃側であるンデベレに銃が広まったという(18)。

 南部アフリカはサブサハラ地域の中でほとんど奴隷貿易の対象とならなかった地域だ(19)。そのためこの地では狩猟目的での銃使用が多く、19世紀初頭の頃から大型動物を対象としたエイトボアやフォーボアと呼ばれる大口径のマスケット銃が広まった。また銃の生産地である欧州から遠かったために後装式やパーカッションロックのような最新式の銃の導入には時間がかかり、1870年代に生まれたマルティニ・ヘンリー銃の登場後にようやくそうした火器が広まったという(20)。

 だが狩猟が銃拡散の中心となったのはあくまで一部。18世紀になると上にも紹介した通り、アフリカの各地で銃と奴隷の交易サイクルが拡大していく。西欧の奴隷需要が増え始めたのは1670年代からで、1730年には欧州の銃が戦いを引き起こし、その捕虜が奴隷として欧州勢に買い取られているとオランダの総督が記している(21)。欧州から来た船に載っていた品物を現地の交易拠点で銃に載せ替えたうえで地元商人との取引に向かわせることもあった。西アフリカが輸入していた銃の数は18世紀後半には年30万丁弱から40万丁ほどに達しており(22)、最も多かったのは英国製だったと見られている。

 アフリカの商人たちが何を扱っているかによって、彼らの銃への需要が極端に違っていたことも、奴隷と銃のつながりの強さをうかがわせる。1791-1792年に奴隷334人を購入した欧州商人は、代わりに奴隷商人向けにスペインの銃198丁、ブランダーバス101丁、そしてボニーガンと呼ばれたアフリカ向けの銃を実に1607丁も売却した。だが奴隷用の食糧としてヤムイモやプランテン(調理用バナナ)などを購入した際にその商人たちに売った銃はボニーガン2丁だけだった。銃を欲しがったのは圧倒的に現地の奴隷商人たちであり、それに続いたのは象牙商人たちだったが、奴隷商人よりはずっと少ない量しか欲しがらなかった(23)。

 この時期にアフリカに流入する銃の種類はかなり多様化していた。デンマーク・マスケットやブランダーバス、タワー・カービンといった名称の銃が知られている。原住民が好んだのは強靭な銃身を持ち、コックした際に大きな音がする銃だったが、一方で西欧人がしばしば売りつけていたのは点火機構が壊れていたり錆びついていたり、あるいは銃身にひびが入っているような欠陥品だったという(24)。ただし安く売られていた低品質の銃の割合は全体の38.5%ほどだったそうで、言われるほど欠陥品ばかりが売られていたわけではないとの指摘もある(25)。

 それでも品質に問題のある銃への対応は必要だった。西欧側はコストを下げるためしばしば銃の保証試験を省いた商品を売っていたそうで、そうした銃が全て暴発したわけではないにせよ注意が必要だったのは確かだろう(26)。結果、アメリカでもそうだったがアフリカでも地元に銃の修繕を行なう鉄砲鍛冶が現れ、その能力はフランスの商人から高く評価されたほどになった。また19世紀末にはダホメーで火薬が製造されていたという話もあるほか、18-19世紀にかけて青銅製のブランダーバスが黄金海岸のいくつかの地域で作り直されていたという話もある(27)。


 アメリカ大陸同様、西欧勢力が互いに競い合うように銃を売り込んだ結果、アフリカの社会はどう変わったのだろうか。色々なインパクトが及んだようだ。部族によっては国王が火薬技術を独占し、火器を王家の象徴兼政治的道具として中央集権に役立てたし、分散した狩猟社会では銃が平民の間に広まって男らしさのシンボルとなった。通貨のように使われた例もあるし、抑圧的な体制の社会が使ったが西欧勢力からの補給を遮断されて社会の崩壊に至ったこともあった。そして中には銃を拒絶し、勇敢さを示す白兵武器に引き続き頼った原住民たちもいた(28)。

 銃を武器として導入した地域では、当然ではあるが戦争の様相が変化した。17世紀の黄金海岸では、弓兵、盾を持った槍兵、戦斧で武装した兵に加え、既に銃兵が生まれていた。銃兵の数が大きく増えたのは1680年代から1690年代にかけてで、内陸部でも18世紀の序盤四半世紀に銃兵の役割が拡大した。といっても最初は一発撃つと味方の中に逃げ込んで装填するという使われ方だったようで、戦いの行方を決めるのはその後の白兵戦が多かったという(29)。

 だが時間が経過すると、銃を含む飛び道具へのシフトを進めた内陸部諸国が力を増し、槍兵を使い続けた沿岸部が次第に押されていった。また早いところでは16世紀末から軍事リーダーの政治的な役割が大きくなり、彼らを中心として政府組織が作り上げられる傾向が見られるようになった。19世紀のダホメーになると1万5000人の軍を中央、左翼、右翼、予備に分け、厳しい訓練を施して自在に隊形を変更し、間断なく射撃をするためにカウンターマーチ戦術まで実行できるようになっていた(30)。

 影響は戦場だけに及んだわけではない。銃と奴隷のサイクルが続く中、西アフリカの原住民たちは「安全保障のジレンマ」に立たされたとの指摘がある。周辺地域からの奴隷狩りに晒されたダホメーの人々は、それに対抗するために自らも銃で武装したのだが、その行動が今度は周辺勢力を一段と警戒させてしまった、という流れだ。結果として各地で中央集権化、銃へのアクセスを巡る争い、さらには国家形成までが進んだ(31)。火薬技術そのものよりも、多くの部族が相争うというアフリカの政治環境が、銃を使った国家形成によってその問題解決を図る方向へと人々を駆り立てた。

 19世紀から20世紀初頭にかけて今のナイジェリア北部に勢力を持っていたイスラム教のソコト帝国は、新しい技術がその国家組織に影響を与えた分かりやすい事例だ。最初は騎兵が、後に銃が導入されたこの国では、弓で武装した平等な戦士たちの支配から始まったのが、19世紀前半に騎兵を使った封建的な国家に代わり、同後半になると銃で武装した常備軍を持つ中央集権的な官僚国家へと変貌していったという(32)。このまま進めば、アフリカ版の財政=軍事国家が火薬技術を通じて生まれたかもしれない。

 だが、アフリカは西欧にはなれなかった。おそらくその理由は奴隷貿易にある。


 アフリカは複雑な社会を発展させるうえで地理的なハンデを負った土地だ、という説がある。高い気温は植物からの水分蒸発を早めて水分不足をもたらし、熱帯の多雨で侵食された土壌はさらに冬場の霜による無機化の抑制効果がないために一層劣化する。高温は病気を蔓延させ、緯度の高い地方に比べれば成長期(夏場)の日照時間が短いといった具合に、農耕に不利な条件が揃っている。さらにツェツェバエがもたらす眠り病のために牧畜も困難だ(33)。要するに大きな人口を支える農業生産性が確保しにくい土地である。

 家畜の少なさは駄獣や輓獣の不足ももたらす。農耕にも運搬にも家畜が使えない場合、そうした作業は人間が行うしかない。結果として眠り病が蔓延している地域では集約農業や犂の利用が少なく、人口密度も政治的な中央集権化も低く、そして家畜の代わりとなる労働を担う奴隷が高い割合で普及している(34)。眠り病は西欧勢のアフリカ植民を困難にした一方で、アフリカを奴隷の産地化した一因というわけだ。

 新大陸の人手不足が問題になった時にアフリカが主な奴隷供給地になったのは、単に距離的な近さだけが理由だったのではなく、奴隷制がより広く普及している社会だった面もあったのだろう。加えてコロンブス交換以降、アフリカに広まったトウモロコシ栽培によってアフリカの農業生産性が高まり、それが人口過多と奴隷輸出の増加をもたらしたという研究もある(35)。こうした背景に加え、銃と奴隷のサイクルも働き、特に18世紀に入って異様な数の奴隷がアフリカから輸出されることになった。

 19世紀半ば、アメリカ大陸などで解放された元奴隷たちがアフリカに戻って暮らしているシエラレオネで、アフリカの言語研究をしているドイツ人の伝道者がいた(36)。彼は言語に関する情報を集めた際に、調査対象者たちがどのようにして奴隷になったのかについても質問していた。フリータウンで行われたこの調査に答えた144人のうち、最も多い40%を占めたのは誘拐、25%弱が戦争捕虜だった。一方で親族や友人に売られたという回答も20%ほどに達しており、また魔法や盗み、姦通といった容疑で訴えられ、有罪とされたために奴隷になった者も16%ほどに達していた(37)。

 誘拐や戦争捕虜の割合が高い点に不思議はない。奴隷が当たり前の社会では他部族から捕らえた者を奴隷にするのは珍しくなかったのだろう。問題は後半の親族や友人に売られたケース、及び部族内での裁判で有罪とされたケースだ。奴隷貿易がアフリカに深く根付いた結果、奴隷の対象が共同体の外だけでなく中まで広がり、末期には国家内、村落内、果ては家庭内のメンバーですら奴隷として売り払う動きが出てきてしまった。結果として奴隷貿易が盛んだった地域では現代に至るまで相互不信が強いままとなっている(38)。

 奴隷を売り払っていたのが国家のリーダーたちだったため、アフリカではそうしたリーダーを信用しない態度がデフォルトになった。まして村落間、部族間での信頼に基づく協力関係などは望むべくもなく、それが現在のアフリカにおける民族の細分化、政治的不安定性と国家の弱体化、そして司法制度の腐敗をもたらしている(39)。いわば囚人のジレンマで「協力」より「裏切り」を選ぶ方が合理的な状況が様々なレベルで生じてしまっており、外部との競争に打ち勝つため内部で協力するという複雑な社会が発展するための条件(第1章)が壊れている状態だ。

 実際、アフリカでは奴隷貿易が盛んだった地域ほど民族が細分化されており、国家の発展度合いも経済も低迷している(40)。おそらく相互の裏切りを前提とした社会では、国民全員を取り込むような包括的制度より、一部の者が利益を独占する収奪的な制度になりがちなのだと思われる(第11章)。高い限界利益を導き出すためには複雑な社会の構築・維持が必要だとの説があるが(41)、そうした複雑な社会を作るために必要な構成員の協力が得られないような社会だと、得られる限界利益も低くなってしまうのだろう。そしてアフリカを「不信の社会」に変えてしまったのは、銃によって加速された奴隷貿易だった(42)。


 「是故に其名はバベル(淆亂)と呼ばる」(43)。聖書でバベルの住人達の言葉をバラバラにしたのは神だった。一方、アフリカの社会をバラバラにしたのは銃と奴隷のサイクルだった。もし銃のみがアフリカに伝わっていたのなら、部族間の競争激化を足掛かりに部族内の協力が高まり、西欧のような複雑な社会を築き上げる流れになっていたかもしれない。だが現実には銃と奴隷貿易が重なり、むしろ逆の方向に社会が変わっていった。

 アフリカにとっての火薬革命は、アメリカ原住民にとってと同様、悲劇をもたらした。対して彼らに比べると古いユーラシアの社会とつながりが強い地域には、また違う影響が及んだ。その影響は船に乗ってやってきた。



01 Thomas Hopkins Gallaudet, A Statement with Regard to the Moorish Prince, Abduhl Rahhahman (1828), pp3-4

02 Muhammad Shareef, The Lost and Found Children of Abraham in Africa and the American Diaspora (2004), pp56-57

03 https://www.slavevoyages.org/assessment/estimates(2022年10月22日確認)

04 Warren C. Whatley, The Gun-Slave Cycle in the 18th Century British Slave Trade in Africa (2012), pp21-22

05 Thomas Pakenham, The Scramble For Africa (1991)

06 Ahmad ibn Abd al Kadir, Histoire de la conquête de l'Abyssinie (1897), pp185; Frederick A. Edwards, The Conquest of Abyssinia (1905), pp335

07 Edwards (1905), pp358

08 Jonathan Michel, The Invasion of Morocco in1591 and the Saadian Dynasty (1995)

09 Roland Oliver and Anthony Atmore, Medieval Africa , 1250-1800 (2001), pp83

10 Ed. Kevin Shillington, Encyclopedia of African History (2005), pp922

11 Osarhieme Benson Osadolor, The Military System of Benin Kingdom, c.1440 – 1897 (2001), pp87

12 Miguel de Castanhoso, The Portuguese Expedition to Abyssinia in 1541-1543, as Narrated by Castanhoso (1902), pp80

13 Filippo Pigafetta, Relatione del reame di Congo et delle circonvicine contrade (1591), pp60-61; Oliver and Atmore (2001), pp173

14 R. A. Kea, Firearms and Warfare on the Gold and Slave Coasts from the Sixteenth to the Nineteenth Centuries (1971), pp185-186

15 Kea (1971), pp187-189

16 Kea (1971), pp191-194, 197

17 Shula Marks and Anthony Atmore, Firearms in Southern Africa: A Survey (1971), pp517, 525-526

18 Anthony Atmore et al., Firearms in South Central Africa (1971), pp552-553

19 大西洋以外にインド洋、紅海、サハラを経て送り出された奴隷のうち南部アフリカ出身者の数はかなり少なく、南アフリカが2031人、ジンバブエは1089人、ナミビアは191人、ボツワナに至っては0人だったと推計されている; Nathan Nunn, The Long-Term Effects of Africa's Slave Trades (2008), Table II

20 William K. Storey, Guns, Race, and Skill in Nineteenth-Century Southern Africa (2004), pp693-694, 698。銃を使った狩猟が増えたために獲物が減り、原住民が狩猟採集から農業へとシフトした結果として、狩猟の規制という分野で権限を握っていた原住民首領たちの力が衰え植民地政府の力が増したという

21 W. A. Richards, The Import of Firearms into West Africa in the Eighteenth Century (1980), pp46

22 J. E. Inikori, The Import of Firearms into West Africa 1750-1807: A Quantitative Analysis (1977), pp349

23 Inikori (1977), pp350

24 Kea (1971), pp202-204

25 Inikori (1977), pp360-361

26 Richards (1980), pp54-56

27 Kea (1971), pp205-206

28 Giacomo Macola, The Gun in Central Africa: A History of Technology and Politics (2016)

29 Kea (1971), pp208

30 Kea (1971), pp210-213

31 Lee (2016), pp271

32 Rory Pilossof, ‘Guns Don’t Colonise People …’: The Role and Use of Firearms in Pre-Colonial and Colonial Africa (2010), pp273

33 Sherif Khalifa, Geography and the Wealth of Nations (2022), pp25-26

34 Khalifa (2022), pp42

35 Jevan Cherniwchan and Juan Moreno-Cruz, Maize and precolonial Africa (2018)

36 この伝道者は基本的な280個の単語について160ほどの言語でどう発音するかを調べて本にまとめ、以後のアフリカ言語研究につながる端緒を作った; Sigismund Wilhelm Koelle, Polyglotta Africana (1854)

37 Nunn and Leonard Wantchekon, The Slave Trade and the Origins of Mistrust in Africa (2011), pp3225-3226

38 Nunn and Wantchekon (2011), pp3249-3250

39 Nunn (2008), pp142

40 Nunn (2008), Figure IV, VI, VII

41 Joseph A. Tainter, The Collapse of Complex Societies (1988)

42 ただし、中央アフリカのサバナ地帯において銃の受け入れ方が社会によって大いに異なっていたことを踏まえ、銃のような技術が社会の行く末を決めたという「銃と奴隷のサイクル」論に対して異論を唱える向きもある; Macola (2016)

43 明治元訳旧約聖書創世記第11章

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