第6章 パクス・モンゴリカ

 「『街道と地域の本』の著者によると、ズィアド・イブン・サリに捕らえられてサマルカンドに連れてこられた中国人捕虜の中に何人かの職人がおり、彼らはサマルカンドで紙を作るようになった。やがて紙は大規模に生産され広く使われるようになり、遂にはサマルカンドの人々にとって重要な輸出品となった」(01)


 751年のタラス河畔の戦いで敗れた中国人捕虜の中に製紙職人がおり、彼らがユーラシアの西に製紙技術を使えるきっかけになったという話は、一般向けの本などで見かける話だ。その論拠となっているのが10-11世紀のイスラム文献学者であるサアーリビーの残した書物。そこに書かれている話は19世紀末頃の欧州の研究者によって大きく取り上げられ、定説化していった(02)。

 だが実はこの説、それほど自明のものではない。イスラム勢力も唐も生まれる前の4世紀時点で、既にサマルカンドでは紙が知られていたという主張もあるし(03)、そもそも中国人捕虜の中に製紙技術者がいたかどうかも明確ではない(04)。とはいえ捕虜説を批判する根拠も状況証拠が中心であり、現時点では明白な結論は出せないというのが実情のようだ(05)。広く知られているからといってそれが本当に正確な情報であるとは限らないことを示す一例と言える。

 そして、同じことは火薬兵器の伝播を巡る説についても当てはまる。こちらも製紙法と同様、古い時代に起きた出来事であり、証拠は非常にまばら、かつ曖昧だ。13世紀から14世紀にかけ、それまでユーラシアの東端にとどまっていた火薬知識が急激に広い範囲に伝わったのは間違いない(06)。だがそれが誰の手によってどのように広まったのかとなると、残念ながら必ずしもはっきりとした答えは出てこない。


 実は中国で火薬が発明されたことが通説として定着するようになったのは割と最近だ。20世紀初頭あたりまで、特に欧州の研究者たちは火薬が欧州で生まれたと考える者が多かった(07)。ニーダムによる広範な中国技術史の研究によってその流れが変わったのは20世紀半ばあたりから。だが中国が発祥の地であると分かったところで、新たな疑問が生じた。なぜ火薬兵器は故地である中国ではなく西欧で発展し、彼らに覇権をもたらしたのか。そして火薬兵器はどのように中国から西方へと伝播したのか。

 前者の問いは、火薬兵器だけでなく経済力なども含めたうえで、西洋の勃興を説明しようとする様々な研究成果につながっているので、ここでは取り上げない(08)。問題は後者だ。中国からユーラシア各地に火薬技術が広まった時期がちょうどモンゴルの隆盛と重なっていたため、当然火薬兵器を広めたのはモンゴル軍だという説が登場した(09)。

 だがこの説は個別事例を具体的に調べると成立しがたいことが分かる。例えば1241年にハンガリーのモヒで行われた戦いでモンゴル軍が火薬を使ったという説(10)だが、これに対しては同時代のパリのマテウス、あるいは15世紀のトゥロツィ・ヤノシュ(ハンガリー)やヤン・ドゥーゴシュ(ポーランド)といった歴史家たちが火薬にも大砲にも言及していないとの反論がなされている(11)。当時、避難民から話を聞いていたスプリトのトマスがまとめた記録を見ても、モンゴル軍が使ったのはあくまで巨大な石を投じる投石機であったと書かれている(12)。

 同年のレグニツァの戦いにおいては、火を使った何らかの兵器が使われた可能性はありそうだ。ヤン・ドゥーゴシュによれば、モンゴル軍が頭の絵を描いた旗印を振り回したところ、そこから煙が流れ出し、恐ろしい悪臭にポーランド軍は悶絶したという話が伝わっている(13)。ただし煙を出しただけでは火薬を使用した証拠にはならないだろう。中国の文献にもあるような大きな音でもあれば別だが、そうした記述は見当たらない。レグニツァの「火を噴く頭」については、硝石成分を含まない単なる油を使ったものだと見る研究者もいる(14)。

 フレグによる西南アジア遠征(1253-1260年)についても同様。バグダッド攻囲などで火薬が使われたと考える研究者は多いが、集史や世界征服者の歴史といったイスラム系の歴史書にも、また元史にも、火を使った兵器の記述はあっても火薬の使用を裏付けるものはない(15)。英語圏の研究者の中には、フレグがペルシア攻撃のために集めた「鉄木金火等人匠」(16)という表記を見て「火匠」がどのような職人なのか首をひねっている者もいるが、これは「金火匠」、つまり鋳造職人を意味している(17)と考えればよく、火薬に関する職人とは思われない。

 暗殺教団とも呼ばれるイスラム教のニザール派が拠点として使っていたアラムート城に対するモンゴル軍の攻撃についても、火薬が使われていたのではないかとの主張がある(18)。この時にモンゴル軍が使った弩は「牡牛の弓」と呼ばれていたのだが(19)、武経総要に載っている火薬を使った兵器の中に「八牛弩」が存在する点が火薬使用の論拠となっている(20)。ただ『世界征服者の歴史』に載っている記述を見てもやはり火についての言及はあるが音がしたとは書かれておらず、火薬ではなく中東で以前から使われていたナフサを使った兵器ではないかと指摘する研究者もいる(21)。

 要するにモンゴル軍が西ユーラシアに進撃する際に火薬兵器を持ち込んだ明確な証拠はほとんどないのだ(22)。一方、東ユーラシアではモンゴル軍の日本(23)やジャワ島(24)遠征の際に火薬兵器が使用されている。ただしこれらの地域もそれをきっかけに火薬兵器が地元に定着した証拠はない(25)。モンゴル軍が火薬兵器の伝播役を担ったと考えるのは難しいと言える。


 では誰がこの新たな軍事技術に関する情報を伝えたのか。ユーラシア西部で火薬に言及した古い例としては、1267年のロジャー・ベーコン、1280年頃のハサン・アル=ラマー(アラビア語)、マルクス・グレクス(ラテン語)があるのだが、例えばベーコンに対しては同じフランシスコ会所属で13世紀半ばにモンゴルを訪問したカルノ・プラティニやウィリアム・ルブルクが、他の2人に対しては1260年以降にモンゴルに雇われたペルシア人やアラブ人たちが情報源になったのではないかとの説がある(26)。

 同じことは14世紀以降になって広がった銃砲についても当てはまると思われるが、こちらついては1つ問題がある。特に初期の銃砲は中国の次にいきなり西欧に出現し、その中間地域をすべてすっ飛ばしたように見えるのだ(27)。欧州であれば1326年にある本の挿絵に銃砲を撃とうとする騎士の姿が描かれ、また同年にフィレンツェ政府が防衛用に銃を購入すると布告している(28)。1331年には北イタリアのチヴィダーレの戦いで銃砲が使用されたという記録もある(29)。

 だが両者の中間にあるイスラム地域での銃砲が確認できる時期はもっと遅い。マムルーク朝では1360年代に入って(30)、オスマン帝国では14世紀末から15世紀初頭にかけて(31)、ペルシアでは1471年の白羊朝の時代に銃砲が西欧から届き始め(32)、そしてインドでは1440年代あたりから文献上に比較的信頼のできる銃砲への言及が始まり(33)、1460年代からデカーン高原の要塞に銃眼が登場してくる(34)。それより古いとされる史料については、詳しく調べると信頼度の低いものが多い(35)。

 欧州内でも状況は同じ。銃砲の登場が早いのは現代でも経済的に繁栄し、夜間の明かりが集中している(36)イタリア北部や低地諸国、イングランドを中心とした西欧だ。これがピレネー山脈を越えたイベリア半島になると1340年のアルヘシラス攻撃が最初の事例とされ(37)、バルカン半島では1346年に(38)、モスクワでは1382年に(39)、ポーランドでは1383年に(40)ようやく銃砲が使われたとの記録が登場する。つまり、東の中国で生まれたはずの銃砲は、ユーラシアの西半分ではなぜか西から東へと広がったわけだ。


 なぜそうなったのか。通常、文化などは発祥の地から同心円を描くように広まっていく(41)。近い所ほど早く伝わり、遠いところには時間をかけて伝播するのが当然だ。章の冒頭で紹介した製紙技術についてもそうした想定がなされている(42)。なのに銃砲は中国からいきなり大陸の反対の端に技術が移り、そこから次第に東へと拡大していったように見える。

 どうやらこうした一見奇妙に見える現象が生じた背景には、モンゴル帝国がもたらした「パクス・モンゴリカ」によって多くの人々、物、アイデアが、それ以前に比べ自由に行き来できるようになったことがあるらしい。火薬は古のミステリーとしてではなく、発展した近代的技術として20世紀の技術移転計画のように大陸を渡った、という見方だ(43)。確かに火薬兵器が銃砲という一定の発展段階に達したタイミングで、この技術は急速に広まっている。技術導入を目的とした人々が「おらが国」でも役に立つ技術として火薬に注目し、距離をものともせずその技術を自国に持ち込んだ、というのはあり得るかもしれない。

 実際、そうした役割を果たして西欧に軍事技術を運んだ可能性のあるグループが存在する。ベーコンも属していたフランシスコ会だ。中でも注目に値するのが、1289年に欧州を出発して1294年に北京に到着し、1330年に現地で亡くなるまでキリスト教の伝道に努めたジョヴァンニ・モンテコルヴィーノ。中国にいる間も彼は何度か欧州へと手紙を送っており、また彼の後任として1307年に7人のフランシスコ会士が中国に送られるなど、欧州と中国の間で一定の情報のやり取りが続いていたことが分かる(44)。もちろん、彼らこそ火薬兵器の秘密を中国からもぎ取ってきた産業スパイの総元締めであった、と断言できるような証拠はないが、こうした人々の流れに沿って情報も流れた可能性はある。

 ただしまだ問題は残る。なぜ西欧なのか。西欧だけでなく、他の地域からも大勢の人間がユーラシアを動き回っていたはず。どうして他の地域には銃砲が広まらなかったのだろうか。ヒントになりそうなのがケネス・チェイスの唱えた説だ。彼によると初期の火薬兵器は扱いが極めて面倒であり、特に馬上での使用はかなり困難だったため、主に攻城戦や歩兵戦で使われた。一方、ユーラシア中心部の乾燥地帯は人口密度が薄く、軍事行動も騎兵が中心だった。結果、乾燥地帯に隣接するインナー・ゾーン(中国やインド)では騎兵に対抗する必要性から火器があまり普及せず、逆に乾燥地帯から遠く遊牧民の影響が少ないアウター・ゾーン(西欧や日本)が火薬兵器の主戦場になった、との主張だ(45)。西欧はユーラシアの中でも火薬兵器が使いやすい地域だったと考えられる。

 火薬の原料となる硝石の製造法も関係したのかもしれない。硝石を手に入れるためには何度も火をたいて硝酸カリウムを析出せねばならず(46)、また原料の1つであるカリウムを手に入れるために大量の草木灰を必要とする。つまり大規模な森林がない乾燥地域では火薬技術を手に入れても大量生産に移るのが困難だったと考えられるのだ(47)。ケッペンの気候区分を見ると中央アジアから西南アジアにかけては無樹木気候が広がっており(48)、ユーラシア各地でも硝石を作れる地域はそれほど広くないことが分かる。


 気候の問題は、モンゴル軍が十分に火薬兵器を使いこなせず、西ユーラシアへの遠征時に火薬兵器を活用しなかった原因でもあった。結局のところ彼らは最初から最後まで乾燥地帯であるステップの住人だったのだろう。騎兵こそが強みを発揮できる地域から出現し、騎兵の力で世界征服を成し遂げた彼らは、根っこのところで「騎兵革命の申し子」から変わることはなかった。彼らが果たした役割は、火薬技術を広範囲に撒き散らすことだけ。その技術を生かして社会や国家を変える革命を起こす役目は、他の者たちに委ねられることとなる。



01 Tha'alibi, The Book of Curious and Entertaining Information (1968), pp140

02 Johan Solberg, The Papermaking Tradition of Central Asia (2018), pp5

03 Jonathan Bloom, Paper before Print: The History and Impact of Paper in the Islamic World (2001)

04 Alexander Akin, The Jing Xing Ji of Du Huan: Notes on the West by a Chinese Prisoner of War (1999-2000)

05 清水和裕, 紙の伝播と使用をめぐる諸問題 (2012), pp82

06 Peter Turchin & Daniel Hoyer, Figuring Out The Past (2020), pp253

07 Henry W. L. Hime, Gunpowder and Ammunition (1904), pp161など

08 E. L. ジョーンズ, ヨーロッパの奇跡 (2000); ジャレド・ダイアモンド, 銃・病原菌・鉄 (2000); K. ポメランツ, 大分岐 (2015); イアン・モリス, 人類5万年 文明の興亡 (2014)など

09 William H. McNeill (1963), The Rise of the West: A History of the Human Community, pp492、John M, Patrick (1961), Artillery and Warfare During the Thirteenth and Fourteenth Century, pp13など

10 Michael Prawdin, The Mongol Empire Its Rise and Legacy (1940), pp259, 263

11 J. J. Saunders, The History of the Mongol Conquest (1971), pp252

12 Thomas, Historia Salonitanorum Atque Spalatinorum Pontificum (2006), pp263

13 Jan Długosz, Historiae Polonicae liber septimvs (1711), pp679

14 S. J. von Romocki, Geschichte der Sprengstoffchemie, der Sprengstofftechnik und des Torpedowesens bis zum Beginn der neuesten Zeit (1895), pp162

15 Kate Raphael, Muslim Fortresses in the Levant: Between Crusaders and Mongols (2010), pp59-61

16 元史巻98

17 満洲旧蹟志上編(1924), pp197; 黄启臣, 十四-十七世纪中国钢铁生产史 (1989), pp6; 石野一晴, 泰山山麓題記調査報告, pp192-193など参照

18 Haw (2013), pp458

19 Bayarsaikhan Dashdondog, Mongol Diplomacy of the Alamut Period (2019), pp321; David Curtis Wright, Nomadic Power, Sedentary Security, and the Crossbow (2008), pp86

20 武経総要前集13

21 Timothy May, The Mongol Conquests in World History (2013), pp147

22 西ユーラシア以外では1300年頃に火槍が北西インドに届いていたとの主張もある; Iqtidar Alam Khan, Coming of Gunpowder to the Islamic World and North India (1996), pp40。中国語の火槍と似ているペルシア語の表記を論拠としたものだが、中身を見ると「槍」の部分しか似た表記がなく、火薬兵器と見なすには厳しい

23 八幡愚童訓上; 太平記巻39; 蒙古襲来絵詞; 石井忠, 蒙古襲来絵詞の“てつはう” (2005), pp51

24 元史巻211

25 メトロポリタン美術館のサイトにはジャワ島で発見された後装式の砲を14世紀のものとして掲載しているが、その形状から年代の推定を間違えているとの指摘もある; https://www.metmuseum.org/art/collection/search/37742(2022年9月29日確認); Muhammad Averoes, Antara Cerita dan Sejarah: Meriam Cetbang Majapahit (2020), pp95-96。また14世紀の戦いを題材にしたとされるスンダの歌と呼ばれる記録には火器と見られる描写がいくつも載っているが、この歌の成立年代は西欧から銃砲が伝わった後の16世紀であり、やはり論拠としては弱い; C. C. Berg, Kidung Sunda (1927)

26 Needham (1986), pp39-41, 47-50, 573-574

27 Andrade (2016), pp75

28 Andrade (2016), pp76-77

29 Kenneth Chase, Firearms: A Global History to 1700 (2003), pp59

30 Chase (2003), pp99-100

31 Gábor Ágoston, Guns for the Sultan: Military Power and the Weapons Industry in the Ottoman Empire (2005), pp16-17

32 Ed. Brett D. Steele and Tamera Dorland, The Heirs of Archimedes: Science and the Art of War (2005), pp91

33 Arun Kumar Biswas, Epic of Saltpetre to Gunpowder (2005), pp561; J. Winter Jones, The Travels of Nicolo Conti in the East in the Early Part of the Fifteenth Century (1857), pp31

34 Richard M. Eaton and Philip B. Wagoner, Warfare on the Deccan Plateau, 1450-1600: A Military Revolution in Early Modern India? (2014), pp10-14

35 一例として1403-1406年にティムールの帝国を訪れたカスティリア人の記録から、ティムールがアルケブスを製造していたと解釈する例がある; Clavijo, Embassy to Tamerlane (2004), pp151。ただし原文にある文言はballesterosで、これは弓弩兵と翻訳することも可能だ; Ruy González de Clavijo, Historia del gran Tamorlan (1782), pp190

36 Carl-Johan Dalgaard et al., Roman Roads to Prosperity: Persistence and Non-Persistence of Public Infrastructure (2021), pp10

37 Partington (1960), pp194

38 Ágoston (2005), pp17

39 Konstantin Nossov, The rise of a new combat arm in the east: Russian artillery of the fourteenth–sixteenth centuries (2013), pp39

40 Leszek Klimek et al., Late Medieval Wrought Iron Firearms from the Museum in Biecz (2013), pp83

41 松本修, 全国アホ・バカ分布考 (1993)

42 桑原隲蔵, 紙の歴史 (1911)

43 Bert S. Hall, Weapons and Warfare in Renaissance Europe (1997), pp42

44 Jean Charbonnier, Christians in China: A.D. 600 to 2000 (2007), pp98-107

45 Chase (2003), pp1-27

46 鉄放薬方並調合次第

47 加藤朗, 軍事・社会・政治への革命的影響に関する人造硝石の史的研究 (2013)

48 M. C. Peel et al., Updated world map of the Köppen-Geiger climate classification (2007)

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