第5章 騎兵帝国

 「弟であるチャガタイ、ウルグ=ノヤン[トルイ]と、他の王子たちを引き連れた世界皇帝[オゴデイ]は、キタイ[金]へ向かうべく、巨大な怪物を思わせる戦士の群れを率いて進んだ。彼らの輝く武器と馬のぶつかる姿により、砂漠はまるで、その長さと幅が理解を超え、その岸辺と中心の見分けがつかないほど巨大な怒り狂う荒海のように見えた」(01)


 モンゴル帝国に仕えたジュヴァイニーが記した「世界征服者の歴史」には、金の征服に向かうモンゴル騎兵の姿が華々しく描かれている。15万人の金軍に対しトルイ率いるたったの4万人で対峙した三峰山の戦いでは、急に訪れた寒気を生かしてモンゴル騎兵が敵を圧倒。馬上から槍をふるって敵兵を地獄へ送り、逃げる金軍に矢を放ってこれらを倒した(02)。まさに騎兵帝国の面目躍如といったところだろう。

 モンゴル軍に追い詰められた金の皇帝哀宗は、南京開封府(かつての北宋の都)で1週間にわたって抵抗した後、もはやなすすべなしと悟って自ら家に火をつけ、生きたままその身を焼いた、とジュヴァイニーは書いている(03)。ただしこの話は史実とは少し異なる。実際の哀宗は1232年12月に開封府を脱出。あちこちを転々としたものの、結局蔡州城で包囲され、1234年1月に帝位を譲った後で自殺した(04)。

 華北から満州まで一大勢力を誇り、自ら火薬兵器も使っていた金がモンゴル帝国を前に敗れ去ったのは、なお鉄器・騎兵革命の時代が続いていたことを示す一つの証左と言えるだろう。モンゴルはこの時点で既に西遼、西夏、ホラズムなども滅ぼしており、ステップ地帯に拠点を置く騎兵帝国が、条件さえ揃えば凄まじい力を発揮していたことが分かる。その彼らが中国に足を踏み入れ、そこで生まれていた新しい軍事技術に触れた時、果たして何が起こったのか。


 実はモンゴル軍、まだ金を滅ぼす前から早々に火薬兵器を手に入れていた可能性がある(05)。1231年、モンゴル軍に城を落とされた金軍の残兵が、船を奪って逃げだした。モンゴル軍はこれを追撃して退路を断ったのだが、金軍は船の中にあった火砲を放ってモンゴル側の船を攻撃し、何とか突破、脱出に成功した。この時、船内にあった火砲の名が「震天雷」(06)。日本では元寇の際に使われた「てつはう」という名で知られる武器だ。

 震天雷という兵器が史書に登場するのはこの場面が初めて(07)なのだが、奪った船の中にあったということは、モンゴル軍の保有物だった可能性が高い。征服地の人員を自らの戦争に動員するのが珍しくなかったモンゴル軍の中には、13世紀初頭から中国人が名を連ねており(08)、おそらくは彼らが火薬兵器を持ち込んだのだろう。ずっと後の時代の文献によれば、震天雷には鉄製のものと磁器製のものがあり、椀を合わせたような形で上に指が辛うじて入る程度の点火用の穴が開いていたという(09)。

 ただ、保有してはいてもモンゴル軍がそれを使ったかどうかは不明確。それに対し、金が火薬兵器でモンゴルに対抗したのは間違いない。1232年の開封府の戦いでは防衛側の金軍が震天雷を使用。この武器は鉄の缶に火薬を入れたもので、点火すれば大きな音を立てて周囲を焼き尽くしたと書かれている。モンゴル軍は牛の革で作った移動式の屋根の下に隠れながら城壁に接近して穴を掘ろうとしたが、金軍はそこに震天雷を投下して牛の革ごと攻城軍を撃破したそうだ(10)。

 金軍はこの開封府で火槍の一種である飛火槍という兵器も使った。こちらも火薬を使った兵器で、点火すれば前方十数歩を焼いた(11)。さらに同年、哀宗が逃げた先の帰徳でも金軍は火槍を使ってモンゴル軍を攻撃し、これに大ダメージを与えた。この際に使用された火槍は、紙を16枚重ねて作った長さ2尺ほどの筒を槍に縄で縛りつけたものであり、筒の中には火薬に加え鉄や磁器の欠片も入っていた。兵士は火種を入れた小さな鉄缶を持っており、それを使って点火すれば1丈あまり(3メートル強)先まで炎が噴き出たという(12)。

 この記述はとても興味深い。まずは筒の中に入っていた鉄や磁器の欠片だが、これは火槍を散弾銃のように使った可能性を示している(13)。最強の騎兵帝国であるモンゴルとの戦争を通じ、いよいよ銃が生まれようとしていたことが分かる。またこの時代の点火法として、兵がおそらくは熾火のような火種を入れた鉄缶を持っていたのも注目点。火薬への点火法としては『武経総要』に、熱した鉄の錐を使う事例が紹介されていた(第3章)。錐を熱するためには焚火をする必要があるが、火槍のように持ち歩くタイプの兵器ではこの方法での点火は困難だ。そのため火槍を装備した兵は缶に入れた火種も一緒に持ち歩いていたのだろう。

 しかし、その歴史の最終盤になって急速に火薬兵器を発展させたかに見える金の抵抗も長続きしなかった。哀宗の自殺後も抵抗を続けていた郭蝦蟆は1236年、戦闘のため金銀銅鉄などを鋳造して砲を作ったそうだが(14)、これが火薬兵器だったかどうかは分からない。そして金の滅亡後、華北がモンゴルの支配下に入ったことで、今度は南宋が火薬兵器を使って彼らに抵抗する役割を演じることになる。


 とはいうものの、金軍が使っていた鉄火砲や震天雷が、宋軍でいつ頃から使われ始めたのかはあまりはっきりしない。金を滅ぼしたモンゴルはすぐに南宋と戦争状態に入ったのだが、その初期の頃に宋軍が爆弾を使ったかどうか判断できる史料は不在だ。ただ1254年に書かれた武器の数についての報告(15)の中に火箭、火槍と並んで鉄火砲も出てくる(16)ので、遅くともその頃までには宋軍も爆弾を手に入れたのだろう。

 一方、火槍についてはこの間に一段と発展を遂げていた可能性がある。1259年には突火槍と呼ばれる兵器が登場するのだが、これは大きな竹で作られた火槍であり、中に火薬以外に「子窠」というものが入れられていた(17)。点火すると炎の後にこの子窠が発射されるという兵器で、発射時には150歩以上先まで音が響いたという。ニーダムはこの兵器を一種の散弾銃と見なしているが(18)、慎重な研究者もいる(19)。

 1259-1261年に製造や修復された武器の一覧が載っている史料(20)には、火薬を使ったと思しき様々な兵器が出てくる。鉄砲殻、火弓箭、火弩箭、火蒺藜、霹靂火砲殻、突火筒などだ。火薬棄袴槍頭という槍に括り付けるタイプの取り外し可能な火槍と思われる兵器もある(21)。また鉄火桶、鉄火錐という、点火に使われたと思われる道具も記されている。前者は火種を入れておく入れ物、後者は熱して使うものだろう。

 兵器の中にある突火筒と、上に紹介した突火槍との関係は不明。同じものだとしたら、こちらも大きめの竹を使う散弾銃の可能性がある。一方、火薬棄袴槍頭と別枠扱いになっているのを踏まえるなら、この兵器は槍に括り付けるのではなく別の方法で使用されたとも考えられる。ニーダムは筒に直接柄を取り付けるタイプの兵器ではないかと推測しているが(22)、大きめの竹を使うことを踏まえるなら手持ちではなく据え置き式の可能性もありそうだ。

 火薬兵器が戦場で使われたと分かる事例としては、モンゴル南宋戦争の天王山とも言うべき襄陽・樊城の戦い(1267-1273年)がある。1つはモンゴル側の将であった劉国傑が火砲によって股を負傷した件(23)。もう1つは南宋軍が100隻の船を使ってモンゴル側の包囲網を突破し、襄陽に火槍や火砲を届けようとした試みだ。その際にモンゴル軍との間で火薬兵器を使った戦闘が行われた(24)。

 また1273年には、宋側が防御施設の見直しに際して火矢や火砲に対する対策を講じたという記録も出てくる(25)。モンゴル軍が既に火薬兵器を保有していたと見られるのは上に述べた通りだが、この時期にはおそらく間違いなく彼らは火薬兵器を使っていた。実際、1274年にはモンゴルのバヤン将軍の命令で漢人の将軍が火砲攻撃を行ない、城内の民家を焼いて褒美をもらったほか、火砲で堡塁を破ったとの記録もある(26)。1275年にはバヤンが火砲を数多く建てて昼夜を分かたず城攻めを行なった(27)。

 この時期には火矢の使用例も増えている。1274年には元軍が火箭を使って牛頭城の建物を焼いたとの記録があり(28)、1275年には臨安で内紛が起きた際に火箭が使われた(29)。1275年の焦山の戦いでは元軍による火矢の攻撃で宋軍は混乱に陥り、1万人を超える死者を出した(30)。元軍が放った火矢は風に乗って宋軍の船を炎上させ、煙と炎が天を覆ったという(31)。これらの全部が火薬兵器であったと断言はできないが、その割合が高まっていた可能性はある

 強大な騎兵に加えて火薬兵器まで使いこなすようになったモンゴル軍を前に南宋はついに崩れ、1276年には首都臨安を奪われた。だがその後も残存兵は各地で戦闘を続けた。1277年には静江府で抵抗していた防衛部隊が、火砲を爆発させ城ごと吹っ飛ぶといった出来事があった(32)。1279年の崖山の戦いでは両軍が弓や弩に加え、何らかの火薬兵器で互いに攻撃を交わしている(33)。火薬という新たな軍事技術を歴史上初めて生み出した宋軍は、最後の時まで火薬技術を使って騎兵帝国に抗ったのだ。


 騎兵帝国の手による火薬発明国の滅亡は、一見すると歴史の歯車が逆回転したようにも見えるかもしれない。だが実態はそう単純ではない。実は南宋が滅亡したちょうどその前後に、またも新しい火薬兵器、つまり金属製の銃砲が、騎兵帝国である元で生まれていた。残念ながら文献記録は十分に残っていないものの、考古学的な記録を見るとその時期は13世紀後半から末だと思われる(34)。

 金属に刻印された年号から製造時期が確認できる最も古い銃砲は、1298年という年号がパスパ文字で記されたいわゆる「ザナドゥ・ガン」だ(35)。また直元8年と記された銅銃を寧夏回族自治区の収集家が持っていたが、これが至元8年を意味しているとすれば製造年は1271年となる(36)。14世紀まで対象を広げるなら、1332年の年号が入った銃も存在している(37)。他にも西安銃、通県銃、黒城銃といった古い銃が1970年代に出土しており(38)、多くは13世紀末から14世紀初頭のものと推測されている。

 1970年に出土した黒竜江銃(中国では阿城銃と呼ばれる)については、ニーダムが1290年以前の銃だと推測している(39)。この銃が出土した地域で、反乱を起こしたナヤンを相手に1287年と1288年に李庭が火砲を持って夜襲をかけたという話が記録されているのが論拠だ(40)。兵が持ち歩くことができたこの「火砲」は、銃の存在を示す最も古い文章史料の1つではないか、というのがニーダムの主張。これらの銃砲はその大半が長さ30センチほどの小さなものだが、後の時代の銃や大砲へとつながる淵源がこの時期の中国にあるのは間違いない。

 金属製の銃砲が生まれた経緯は、これまでの流れを見れば一目瞭然だろう。最初は竹筒から火花を飛ばすだけだった火槍が、やがて鉄や磁器の欠片を一緒に飛ばす散弾銃のような兵器になり、さらには銃の内径に近いサイズの銃弾を撃ち出すところまで進化した。また、火薬を焼夷兵器ではなく炸薬として使うつもりなら、竹や紙よりも頑丈な金属の方が望ましい。戦争という生き残り競争の中で、より効果的な兵器を求めて試行錯誤が行われた結果、手持ち式花火のようだった武器が銃砲にまで進化したのだ(41)。


 だがモンゴルとの戦争が火薬にもたらしたのは、より効果的な兵器への進歩だけではなかった。彼らはまさに「世界征服者」であり、ユーラシアの広い範囲にその影響を拡大していたのを忘れてはならない。モンゴルの存在を通じ、新しい軍事技術は一気に横へと空間的展開を見せることになる。



01 Ala Ad Din Ata Malik Juvaini, The History Of The World Conqueror Vol I (1958), pp191

02 Juvaini (1958), pp193-194

03 Juvaini (1958), pp195

04 金史巻18

05 古い事例では、モンゴルに従った中国人の将軍が1214年にアムダリアでホラズムの艦船に向けて火箭を射かけた話がある; 元史巻149。ただし火薬が使われたかどうかは不明

06 金史巻111

07 岡田 (1981), pp65

08 Haw (2013), pp458-460

09 余冬序録巻5外編

10 金史巻113; 帰潜志巻11。アメリカ原住民も水牛皮の盾を持っており、矢を防ぐには一定の効果があったという; 第13章

11 金史巻113。なお飛火槍をロケットとする説もあるが、前方を焼くとある以上、火花を前方に飛ばす火槍の一種と考える方が辻褄が合う; Peter Lorge, Warfare in China to 1600 (2017)

12 金史巻116

13 岡田 (1981), pp66

14 金史巻124

15 岡田 (1981), pp63

16 可斉雑藁続稿後巻5

17 宋史巻197

18 Needham (1986), pp227

19 岡田 (1981), pp63

20 景定建康志巻39

21 Haw (2013), pp452。なお1275年には宋兵がモンゴルの将軍を火槍で刺そうとする場面もあった; 元史巻162。おそらく火薬を使い果たしたので、槍本体の方で攻撃したのだろう

22 Needham (1986), pp230。なおニーダムはこういうタイプの火筒と呼ばれる兵器が1230年頃に生まれたと主張しているが、論拠としている『行軍須知』には火砲と並んで火筒という名前が出てくるだけで、武器の形状についての説明はない; 行軍須知巻下

23 元史巻162

24 宋史巻450; 斉東野語巻18。この時の交戦については、モンゴル側の石碑を論拠にモンゴル軍が火砲を使ったとの説がある一方、南宋軍が火砲を放ったかのように読める史料もある; Needham (1986), pp174; 癸辛雑識別集巻下。ただし後者については火砲でなく、火砲薬(第4章参照)を使った矢を射た、と読むこともできそうだ

25 宋史巻197

26 元史巻151

27 元史巻127

28 元史巻161

29 宋史巻47

30 宋史巻451

31 元史巻8, 128

32 宋史巻451

33 元史巻156

34 もっと古い金属製の銃砲として、武威銅火砲(あるいは西夏銅火砲)の存在を挙げる声もある。この全体の長さ100センチ、重さ108キロの素朴な青銅製の銃砲が製造されたのは1214年から1227年の間とされている; Andrade (2016), pp53。ただし他の古い銃砲と比べて時代もサイズも隔絶している(他の銃砲はほとんど30センチ前後)うえに、文献史料で竹や紙を使った火槍が使われている時代のものとなるため、時代推定に疑問を呈する向きもある; Andrade (2016), pp330

35 Andrade (2016), pp53

36 Andrade (2016), pp330。アンドラーデは、慎重に判断すべきだがタイミング的にはあり得なくはないとしている

37 Needham (1986), pp296-299

38 元代军事与国防大势概述, pp84

39 Needham (1986), pp293

40 元史巻162

41 ニーダムらは1128年に作られたとみられる四川省の像が、最も古い銃砲を示している可能性を指摘している; Lu Gwei-Djen et al., The Oldest Representation of a Bombard (1988)。確かに一見すると体の前に抱えた花瓶のような物から何かが噴き出しているようにも見えるが、これは風神が風の袋を持っている姿であり、銃砲の証拠とするには不適切だと批判されている; Benjamin Avichai Katz Sinvany, Revisiting the Dazu “Bombard” and the World’s Earliest Representation of a Gun (2020)

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