第7章 戦争、戦争、また戦争

 1346年9月、今のベルギー西部に位置するトゥルネーの町で事故が起きた。町の偉いさんから依頼されコノイユと呼ばれる銃砲を製作したピエール・ド・ブリュージュという人物が、その兵器の実験を行った時の話だ。町の外から城門と城壁に向けて発射された矢玉は、壁の遥か上空を越えて聖ブリス修道院の前にある広場にまで飛び、たまたまその場に居合わせた縮絨工ジャック・ド・レスの頭部に命中。彼は即死した。罪を問われると思ったピエールは逃げ出したが、町の偉いさんはこれを事故と判断し不問に付した(01)。

 トゥルネーの公文書に残されているこの記録は、火薬兵器によって死亡した人物の名前が残されている最古の文書の一つであると同時に、この新しい技術に西欧がどう対応したかを示す興味深い実例を示している。特に中国での火薬の扱われ方との差は注目点だろう。火薬が、生まれた場所である中国ではなく西欧で急速な発展を遂げた理由の一端が、この逸話から推測できる。

 中国では火薬技術は国の厳密な管理下にあった。最初に火薬を兵器として利用した北宋では官人が宮廷に兵器を持ち込んで実験していたし、他国への情報流出には厳しい制限が課せられた(プロローグ及び第3章)。明初期に一時的に中央だけでなく地方にも銃砲の製造が広まったケースがあったが、これも永楽帝の時代になると中央へ再度集約されている(02)。中国では唯一国家のみが火薬技術を取り扱う大規模な研究開発拠点となっていた。

 それに対し、上の欧州の事例では1つの都市が自らの判断で火薬兵器の開発に取り組んでおり、しかもその際には知識を持っている人物に具体的な業務を依頼する方法で進めている。銃砲が使われ始めた中世期の欧州では、国家ではなくギルド(職業別組合)のメンバーが銃砲の製造から運用まで、独占的とは言わないまでも中心的な役割を果たしていた(03)。そして国家や封建諸侯といった政治勢力が銃砲を使用する際には、彼らを雇うのが通例だった。つまり西欧では、小規模だが多数の独立した火薬技術の研究開発拠点が存在し、国家などからの仕事を請け負うため互いに競争していたと考えられる。

 1000年を超える影響を及ぼすのが当たり前な軍事革命の歴史に照らしてみれば、この時点(14世紀)の火薬技術はまだ生まれて間もないフレッシュなテクノロジーと考えていい。中央集権的な開発システムよりも多種多様なプレイヤーが参加して開発競争を行なう方がスピード感のある技術発展が望めた段階だ。加えてローマ帝国の崩壊以降、ずっと政治的に分裂していた欧州は、時に統一帝国による平和を享受していた中国とは異なり、常に戦乱に巻き込まれている状態にあった(04)。

 戦争に次ぐ戦争は新たな軍事技術の試験場をコンスタントに提供し続けた。結果、欧州の開発者たちはPDCAサイクル(05)を高速で回すことができた。加えてチェイスの言う通り、ステップ地帯がすぐ近くにある中国と異なり、遊牧民から遠く離れていた西欧は初期の不格好な火薬兵器でも効果的に戦うことができた。チェイスの主張の妥当性については色々な意見もあるが(06)、西欧が中国に比べて火薬技術発展に好都合な環境が揃っていたのは事実だ。

 そして実際に西欧では銃砲を中心に火薬技術の急激な発展が進んだ。第4の軍事革命への道が開けたのである。


 第6章でも触れた、銃砲の存在を示す欧州最初の証拠ともいえる画像は2種類ある(07)。1326年頃に書かれた本に載っているのだが、いずれも横倒しになった花瓶のような銃砲がページの下部に描かれ、銃尾の方にいる鎖帷子をまとった兵士が棒の先にある火種で点火しようとしている。またどちらも銃口からは矢の先端らしきものが見えている。実は上に紹介したトゥルネーの事例でも、被害者の頭部に命中したのはクロスボウの矢とされており、欧州では初期の火薬兵器で文字通りの「矢玉」を飛ばしていたことが分かる。

 花瓶のような姿をしたこの銃砲は「鉄のポット」という名で呼ばれており、実際はスウェーデンのロスフルトで1861年に発見された長さ30センチほどの「ロスフルト・ガン」を描いたものと思われる(08)。このロスフルト・ガンについては研究者グループがレプリカを製作して射撃実験を行っており、矢であれば205メートルから360メートル、鉛玉だと275メートルから1100メートルの飛距離を記録している(09)。もちろん有効射程距離はそれよりずっと短かったと思われるが、武器としては十分に機能する能力を持っていたのだろう。

 同じ1326年にフィレンツェ政府が出した布告には、鉄の弾と金属の砲(canones)の製作が命じられている(10)。ここで使われているcanoneという言葉は筒を意味するラテン語から派生したものだそうで、なおgunは投石機の一種であるマンゴネルに由来するとされる(11)。1331年のチヴィダーレ攻城戦ではvasaやsclopiと呼ばれる銃砲を攻撃側が使用したという記録が年代記に残されている(12)。

 1346年のクレシーの戦いも、欧州における古い火薬兵器の使用例であろう。百年戦争の初期に行なわれたこの野戦でイングランド軍が銃砲を使ったとしている史料は4種類あり、うち3つが使われた銃砲をボンバルド、1つがキャノンと呼んでいる。ある史料によればイングランド軍が用意した銃砲は3門、別の史料は2~3門としており、また別の史料は銃砲が鉄の弾丸を撃ち出したと記している(13)。最後の記述が正しいのなら、欧州の初期銃砲は矢だけでなく弾丸も装填していたことになる。

 初期段階で使われていた欧州の銃砲にはもう1つ特徴がある。小さいのだ。例えば上でも紹介したロスフルト・ガンは重量たった9キロ、口径は3センチ強にとどまる(14)。一方で洋ナシのような形をしたこのロスフルト・ガンを手に持って射撃したとは思えず、使用時には1326年の画像のように台などの上に置いていたと考えるのが妥当だろう。つまりこの時期には携帯する銃のような兵器(ハンドゴンなどと呼ばれる)もなかったと推測される。

 この時期の銃砲が小さかったことについては19世紀の研究者がかなり詳細に調べている。銃砲の購入記録からそのサイズを推計し、また火薬と弾薬の量から1発あたりの使用火薬量の少なさを計算した結果、14世紀前半の銃砲はその大半が11キロ以下のサイズであり、最も大きなものでも50キロを超える程度にとどまっていた、という結論を導き出している(15)。中国で最初に生まれた金属製の銃砲も大半が長さ30センチ程度のものだった(第5章)が、中国の技術を導入した欧州でも当初は似たような大きさの銃砲が使われていたわけだ。

 もちろん、これだけ小さな武器だと攻城戦で効果を発揮することはあり得ない。中国での記録でも、あるいは西欧のクレシーの戦いでも、初期の銃砲は城攻めではなく野戦で使用されていた(16)。銃砲は最初から対人兵器として生まれたと考えるのが妥当だ。


 だがやがて欧州では中国よりも早いペースでイノベーションが進むようになった。その1つがサイズの変化だ。1362年にイタリアのピサで900キロを超える重さのボンバルドが登場したのを皮切りに、従来よりもけた違いに大きな銃砲が次々と作られるようになった(17)。当然ながら砲弾も大きくなり、1379年にはペルージャで200ポンド(91キロ)の岩石を撃ち出す大砲が登場するに至った(18)。

 大砲と呼んでも問題ないほどの大型銃砲は、イタリアからフランスやイングランドにも広まった。1375年には北フランスのカーンで1トンちょっとの鉄を材料にした鍛鉄性の大砲が製造されており(19)、1377年にカレー近くにあるオドルイクの町を攻撃したヴァロワ・ブルゴーニュ公の軍勢は大砲で撃ち出した200ポンドの砲弾で城壁を貫き、町を降伏させたという(20)。イングランドではそこまで大きくないが、1379年には直径8インチ(20センチ)や5インチ(13センチ)の砲弾を撃ち出す大砲が存在していた(21)。

 同時期に中国でもそれなりに大きな大砲は生まれていたが、その重量は450キロ前後であり(22)、しかもなかなかそれ以上には大型化しなかった。対して西欧では世紀が変わった15世紀初頭からボンバルド(大型砲)の全盛期を迎えた。既に1412年には7トンを超える巨大砲をブルゴーニュ公が保有しており、世紀の半ばにはそのサイズは最大13トンを超えた(23)。エディンバラ城にある有名なモンス・メグ(1449年製造)は重さ6トンで口径48センチ、同じく有名なヘントのドゥレ・フリート(1450年頃製造)は口径64センチ、全長は5メートルに達する(24)。

 これらの火器は、小型の大砲で250メートル、ボンバルドになると500メートルほどの有効射程を持っていたと見られている(25)。それ以前に攻城戦に使われていた投石機(トレビュシェット)の射程距離は400メートル以上と推計されており(26)、火器もそれらに匹敵するほどの距離から使用することができた格好だ。後はこうした攻城兵器を使いこなす専門家の能力次第で有効性も変わったようで、ここにもギルドなどの専門家が活躍する余地があったのだろう。

 それにしても、なぜ中国ではそこまで大きくならなかった銃砲が西欧でここまで急激に巨大化したのか。アンドラーデはそれぞれの地域が持つ城壁の特徴に注目している。中世欧州の城壁は高さ10メートルに対して厚みは1.5-2.5メートルしかない。有名なコンスタンティノープルの城壁でも外側の壁が2メートル、内側は4メートルだ。一方、中国の町を囲む城壁は高さこそ似たようなものだが、基部の厚みは20メートルもあり、もっとも薄い最上部でも5メートルの厚みを誇っていた(27)。

 加えて中国の城壁は、枠の中に土を入れて突き固める作業を繰り返す「版築」という築造法を採用しており、しかも黄河文明の頃からそうした方法で作られていた(28)。なぜ中国が昔から堤防のような城壁を築いていたのかは分からないが、圧倒的な量の土を使って銃砲に対抗するという手段は後に西欧がルネサンス式要塞でも採用した手段でもある。つまり中国の城壁は最初から銃砲の攻撃に対して強靭な性質を持っていたことになる(29)。

 中国で町の防衛を撃ち破ることができるのは、分厚い城壁部分ではなく木造部分である門に限られた(30)。そして木造の門を壊すだけなら、何トンもの重量を持つ巨大砲は必要ない。結果、中国での銃砲の役割は対人攻撃が中心となり、大型化するインセンティブが働かなった。

 だが欧州は違った。中世の城塞は封建諸侯にとって重要な権力の源であり、それを簡単に破壊できる兵器の登場はまさに革命だった。例えば1417年には、中世風の城壁で守られていた北フランスのカーンがイングランド軍の砲撃によってたった半月で陥落している(31)。もちろん長く抵抗した城もあったが、それでも15世紀の中頃までには城壁に対する銃砲の優位ははっきりしてきた(32)。


 大砲の巨大化と歩調を合わせるように、手持ち式の銃砲も現れ、発展していった。正確な時期は不明だが、少なくとも14世紀後半にはハンドゴンと呼ばれる兵器がイングランドに登場しており(33)、その後も次第にその利用は広まっていった。1405年頃にコンラート・キーザーが描いたとされる画像には、棒の先端にセットされた銃砲に点火して弾丸を飛ばしている兵士の姿が描かれている(34)。また1411年に描かれた画像には、ハンドゴンに簡単な引き金機構(サーペンタインロック)をつけた兵器も登場している(35)。

 ハンドゴンが普及した理由の一つが、火薬の価格低下だ。14世紀中は1ポンドあたり20ペンスを超えるのも珍しくなかった硝石価格は、15世紀に入ると10ペンスを割り込むところまで価格が低下した(36)。欧州での硝石の製造が1388年から始まったのが理由で(37)、供給の増加と価格低下が進んだ。結果として14世紀半ばに1つの城で蓄えていた総量に等しいだけの火薬を、15世紀になると小さな大砲でも1発で消費するようになったとの説もある(38)。

 火薬の加工技術も向上した。有名なのはコーニングであり、予め火薬を構成する3つの物質(硝石、硫黄、木炭)を水や酢、ブランデーなどで濡らしたうえで混ぜ合わせ、乾燥させた後で砕いて粒状にする方法だ。1420年頃にドイツ語で書かれた「火薬の書」にその手順が記されているが、おそらく14世紀末頃には確立していた手法と見られる(39)。火薬の威力増加は手持ち式の小さな銃にも大きな破壊力をもたらした。

 初期のハンドゴンは3つのタイプに分けられる。比較的小さく、後部に柄を入れるソケットがあるか、あるいは柄の上に固定するタイプで、14世紀末頃から1470年代まで割と長く使われた。2つ目は銃尾に金属製の柄が伸びているタイプ。長さは60センチ前後から1メートルほどまで伸び、銃身の下部についているフックを城壁などに引っ掛けて反動を殺すことができた。15世紀半ばに登場した3つ目は、より現代風のショルダーストックに載ったハンドゴン(40)。これにマッチロック式の引き金機構がつくことで火縄銃が誕生する。

 この技術革新を早速利用した人物の1人が、15世紀前半のボヘミアでフス派を率いたヤン・ジシュカだ(41)。彼が採用した荷車城塞(ラーガー)には1台の戦闘用荷車に銃兵2人(ボヘミアではハンドゴンをピーシュチャラと呼んでいた)、弩兵6人、長柄武器4人、フレイル4人、馬車の隙間を埋めるための盾を持った兵2人、そして剣で武装した御者2人が乗り込んでいたという(42)。


 こうした一連の急激な技術発展をもたらしたのが相次ぐ戦乱であることは指摘したが、それ以外にも影響したと見られるのが金属加工技術の歴史的な経路依存性だ。金属製の銃砲が登場して以来、中国ではその素材の大半を青銅が占め、鉄はごく限定的だった(43)。一方欧州では、例えば1338年時点でカンブレー防衛のために購入された10門の銃砲のうち、既に半分は鉄製となっていた(44)。この差をもたらした一因が、両地域における製鉄技術の歴史の違いにあると思われる。

 中国は欧州と比べて鋳鉄、つまり高炉を使って溶かした鉄を鋳型に流し込む技術の開始時期が異様に早く、両者の差は実に1000年ほどあった。一方で鍛鉄技術、つまり固体の形で鉄を還元し、後は叩いて形状を整える方法(例えばたたら製鉄)を取り入れたのは周辺国であり、中国自体でこの分野はあまり発展しなかった。結果、宋や明の時代になると中国は鋳鉄を輸出する一方で鍛鉄は輸入に頼るようになっていたという(45)。

 鋳鉄は細かい造作には向いているが、炭素の含有率が高いため衝撃に対して脆いという弱点を抱えていた(46)。衝撃を受けるのが前提となる銃砲の製造にはあまり向いた素材ではなく、そのため中国の初期の銃砲には高価だが衝撃に強い青銅製が多くなったのだろう。財政力のある統一帝国が銃砲の製造を担ったことも青銅の利用を促したと思われる。

 一方、欧州で銃砲の製造を担ったのは経済的にはずっと小規模なギルドのメンバーであり、彼らの大半は青銅を大量に仕入れるだけの余力を持ち合わせていなかったと見られる。一方で幸いにも欧州では炭素含有率が低く鋳鉄より粘りのある鍛鉄が一般的であり、中国と違って安価な鉄を使って銃砲を製造できる環境にあった(47)。特に銃のように小型の火器の場合は、平らな鉄を丸めて円筒形にすればほぼ銃が完成するため、田舎の鍛冶師でも簡単に製造できたとの説もあるほどだ(48)。

 さすがに大型の大砲の場合はそう簡単ではなく、いくつもの板を円筒状に並べたうえでその周囲にたくさんのリングで箍を嵌めるという、樽と同じ製造法が採用された(49)。1420年頃に製造されたシュタイアーのプンハルト(ボンバルド)と呼ばれる口径80センチの大砲などがそのような方法で製造された例(50)だが、鍛鉄の部品を組み合わせて作ったためにどうしても隙間が生じ炸薬の威力を弾丸に十分伝えられない弱点もあった。

 もう一つ、鍛鉄の利用から生まれてきたと思われるイノベーションが後装式の銃砲だ。鍛鉄で銃砲を作ろうと思えば、まず筒を作りその後で銃尾の部分を溶接などして塞ぐ。その際に溶接するのではなく、薬室と弾丸を銃尾から入れれば装填が早くなると思いつく人は当然ながらいただろう。遅くとも14世紀末にはそうした兵器が欧州で生まれており(51)、一定の利便性があったためだろうが15世紀にはかなりその利用が広まっていた(52)。もちろんこちらも薬室と銃身の間に隙間が生じる問題はあった。

 青銅や鉄以外の素材を使った銃砲も現れた。ドイツ騎士団では15世紀初頭に銃砲関連の支出が増えているが、その頃に騎士団本部のあったマリーンブルクで製造されたと見られるホーフニツェの成分分析をしたところ、銅製だったことが判明している(53)。銅は上ハンガリーから、鉄はスウェーデンから入手していた騎士団は領内の各都市で大砲や砲弾、火薬などを製造しており、騎士団員の中には製造などを担当する火薬兵器の専門家もいた(54)。銃砲技術が様々なバリエーションを持ちながら欧州で広まっていった様子がうかがえる。

 コスト面でも急激に技術革新が進んだ。14世紀半ばから18世紀末までの大砲やマスケット銃、火薬など、様々な火薬技術のコストがどのくらい低減したかを調べた研究を見ると、調査時期の遅いものほどコスト低下のペースが緩やかだった。14-15世紀という銃砲が伝播した直後に最も大幅なコスト低下が記録されており(55)、欧州で火薬兵器が一気に「有効な軍事技術」へと花開いたのが分かる。


 14世紀の時点では欧州でも鉄の棒を熱して点火する方法が使われるなど、中国と似た部分も引き続き存在してはいた(56)。だが全体として見れば、火薬技術は他ならぬ欧州で幅広く素早い発展を遂げたと言える。その背景には生き残りをかけた各国家間の激しい戦争をはじめとしたさまざまな好条件があったのだが、ではそうした条件の整っていない他の地域では何が起きていたのだろうか。



01 J. B. d'Hane et al., Nouvelles archives historiques, philosophiques et littéraires, Tome Second (1840), pp602-604

02 鄭巍巍, 洪武大砲をめぐって:明前期の火砲技術および制度の一断面 (2012), pp55

03 Albert C. Manucy, Artillery Through the Ages (1994), pp4-5

04 Andrade (2016), pp6-7。欧州のこの状態を勝者総取りのトーナメントモデルと説明する研究者もいる; Philip T. Hoffman, Why Was It Europeans Who Conquered the World? (2012)

05 入江仁之,「すぐ決まる組織」のつくり方 (2018)

06 Andrade (2016), pp111-112

07 Walter de Milemete, The treatise of Walter de Milemete De nobilitatibus, sapientiis, et prudentiis regum (1913), pp140, 181

08 Andrade (2018), pp79

09 Medieval Gunpowder Research Group, Report 1 (2002), pp5。なおRoyal Armouriesが画像にある人物のサイズから推測した大きな銃砲を作り、長さ135センチ、重さ1.8キロの矢を撃ち出してみたところ、火薬が多いと矢が砕けてしまい、少ない火薬だと150メートルほどしか飛ばなかったという; Sean McLachlan, Medieval Handgonnes (2010), pp8-9。遠近法が使われていない絵画からサイズを推定するのは無理があったのだろう

10 Partington (1960), pp101-102

11 Partington (1960), pp116

12 Hime, The Origin of Artillery (1915), pp129。ただし大砲を意味するvasaはともかく、火縄銃を意味するsclopiは後から挿入されたとの指摘もある; Peter Fraser Purton, A History of the Late Medieval Siege, 1200-1500 (2009), pp117

13 Partington (1960), pp106-107

14 McLachlan (2010), pp8

15 Henry Brackenbury, Ancient cannon in Europe (1865), pp11, 21

16 Andrade (2016), pp83

17 Brackenbury (1865), pp49

18 Partington (1960), pp119; Pompeo Pellini, Della Historia di Perugia (1664), pp1237

19 Charles E. Dana, Notes on Cannon-Fourteenth and Fifteenth Centuries (1911), pp156-158; Ildefonse Favé, Études sur le passé et l'avenir de l'artillerie, Tome troisième (1862), pp97-98

20 Brackenbury (1865), pp33; Jean Froissart, Chroniques de Froissart, tome huitième, (1869), pp411

21 Brackenbury (1865), pp45; Frederick Devon, Issues of the Excheque (1837),pp212-213

22 鄭巍巍 (2012), pp42

23 Kelly DeVries and Robert Douglas Smith, The Artillery of the Dukes of Burgundy 1363-1477 (2005), Appendix 1

24 DeVries and Smith (2005), pp262, 266

25 Piotr Strzyż, Characteristics of Medieval Artillery in the Light of Written Sources from Bohemia and Poland (2012), pp27。1428年に行われたベヒニェの攻囲で使われた攻囲陣地と城の中心部までの距離はおよそ250メートルほどだった; Strzyż (2012), Fig. 2

26 Paul E. Chevedden, The Invention of the Counterweight Trebuchet: A Study in Cultural Diffusion (2000), pp72

27 Andrade (2016), pp97-98

28 Needham, Science and Civilization in China, volume 5 part 6 (1994), pp291-292

29 こうした中国の城壁の特性もあってか、アヘン戦争時にも防御施設は欧州の火器にかなり抵抗したという話が伝えられている; クライヴ・ポンティング, 世界を変えた火薬の歴史 (2013), pp242-244

30 Andrade (2016), pp70-72

31 Léon Puiseux, Siège et prise de Caen par les Anglais en 1417 (1858)

32 Clifford J. Rogers, The Military Revolutions of the Hundred Years’ War (1993)

33 Thomas Frederick Tout, Firearms in England in the Fourteenth Century (1911), pp684では1386年、M. L. Brown, Firearms in Colonial America (1980), pp7では1371年にロンドン塔の記録にハンドゴンの文字が現れたとしている

34 McLachlan (2010), pp29

35 McLachlan (2010), pp24

36 Alan R. Williams, The Knight and the Blast Furnace (2003), pp864

37 Partington (1960), pp314

38 McLachlan (2010), pp20-22

39 W Hassenstein, Das Feuerwerkbuch von 1420 (1941)

40 McLachlan (2010), pp30-37。初期のハンドゴンについては後に砲耳を追加し、大砲のように砲車に載せられるよう改造したものもある; Grzegorz Żabiński et al., A late medieval or early modern light gun barrel from the Castle Museum in Malbork—typology, technology of manufacture and identification of the smelting process (2018), Fig. 1; DeVries and Smith (2005), pp270-271

41 1419年には既にプラハの市街戦でハンドゴンが使われたとの指摘もある。Francis Lützow, The Hussite wars (1914), pp25

42 Sidney E. Dean, Ziska’s Wagenburg: Mobile fortress of the Hussite Wars (2016), pp44

43 鄭巍巍 (2012), pp48

44 Brackenbury (1865), pp7

45 新井宏, 鋳鉄の中国・鍛鉄の日本 (2000) 46 新井宏, 鋳鉄砲の歴史と技術問題 (2004), pp600

47 DeVries and Smith, Medieval Military Technology (2012), pp148

48 McLachlan (2010), pp22

49 DeVries and Smith (2005), pp44-45

50 Wayne E. Lee, Waging War (2016), pp223

51 Needham (1986), pp366

52 DeVries and Smith (2005), pp52

53 Janusz Stępiński et al., The Light Field Cannon from Kurzetnik – A Unique Example of Medieval Artillery (2013), pp186。当時の騎士団では矢や石弾、鉛弾を撃ち出す大砲が製造されており、銅だけでなく鍛鉄や真鍮も素材に使われていた。また13トンの材料を使用した大型のボンバルドの製造記録もあるという; Stępiński et al. (2013), pp173-174

54 Grzegorz Żabiński, Ways of Acquisition of Firearms and Relates Equipment in the State of the Teutonic Order in Prussia (2014)

55 Hoffman, Why Is It That Europeans Ended Up Conquering the Rest of the Globe? Prices, the Military Revolution, and Western Europe’s Comparative Advantage in Violence (2005), table 2, 3

56 Brackenbury (1865), pp9, 29, 42-43。点火用の棒を熱する木炭を置くための鉄の皿なども記録に残っている

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