第8章 皇帝の異常な愛情

 朱棣は窮地に陥っていた。帝位を継いだ甥を相手に戦争を起こしたのはいいが、ある戦場で火器や毒弩を構えた敵に真っすぐ突っ込んだ結果、大損害を出して敵に包囲されたのだ。もし包囲外にいる味方が命懸けで救出に駆け付けてくれなければ、彼自身も危うかっただろう。彼の軍は1万人を超える損害を出して大敗し、彼自身も本拠地である北方へと命からがら逃げ延びた(01)。

 この話を紹介しているアンドラーデによれば、この敗北は朱棣にとってPTSDになった可能性があるという。それまでの朱棣はあまり火器、つまり銃砲を重視していなかった。若いころから北京に駐留し、北方へ追い出されたモンゴルの騎兵と主に戦ってきた彼にとって、初期の銃砲はあまり有効な兵器には見えなかったのだろう。騎兵の速度を生かした大胆な戦いこそが彼の持ち味だった。ところがこの敗北を機に彼の戦い方はより慎重になり、一方でこれまでよりも銃砲に頼る割合が増えた(02)。

 朱棣が火薬革命の到来を予想していたとまでは言えない。まして彼がストレンジラブ博士のように「心配するのを止めて銃砲を愛するようになった」(アンドラーデの論文の題名)かどうかは不明だ。それでも彼の時代が火薬兵器の分野で中国が世界の最先端を走った最後の時代であったことはおそらく間違いない(03)。銃砲を前に大敗してからおよそ1年半後、朱棣は都を落とし甥から帝位を簒奪するのに成功する。後の永楽帝である。


 だが永楽帝の話を続ける前に少し時間を遡る必要がある。14世紀、世界征服を進めたモンゴル帝国は、しかし短期間のうちに分裂し、その力を急速に失った。中国を支配した元朝も紅巾の乱を機に崩壊へと向かい、やがては中国を追われて北方のモンゴル高原へと引き上げていった。

 ただしそうなる前に元軍は火薬兵器を使って抵抗した。1352年、彭庭堅は敵のいる邵武を前に攻城塔と火砲を設置し昼夜を分かたず攻撃を仕掛けた。敵はこの攻撃を受けて逃げ出したという(04)。ここで使われている火砲が昔ながらの投石機なのか、あるいは13世紀末頃までに登場した金属製の銃砲なのかは不明だが、火薬を使った兵器である可能性は高いだろう。

 同年には董摶霄がやはり紅巾の乱を相手に火砲を使っている。彼は城外に配置した伏兵に火砲を持たせ、旗の動きを見て発射するように命じ、そして敵を撃ち破って数千の首級を挙げた(05)。こちらは伏兵に持たせたのだから、大きな投石機などではなく銃砲の一種、それも手持ち式のものだと考えていいだろう。

 実は元の時代から出土品が出てくるようになった金属製の銃砲(第5章)は、口径のサイズから大きく2つの種類に分けられる。1つは比較的口径の小さなもので、阿城銃(口径26ミリ)、通県銃(26ミリ)、西安銃(23ミリ)、黒城銃(25ミリ)といった1970年代に発掘されたもの(06)の他に、21世紀に見つかった「直元8年」という年号が記された銃は内径が16ミリ(07)、清代に発掘されている至正11年(1351年)銃は35ミリ(08)となっている。

 もう1つは口径が10センチ前後に達するもので、1298年という最も古い年号が記されているザナドゥ・ガンは、口径こそ報じられていないが見た目から100ミリほどあるのは間違いない。この銃砲について報じた記事中でも、口径の大きな銃を示す碗口銃という表現が使われている(09)。さらに中華人民共和国誕生前に発掘された至順3年(1332年)銃も、口径は105ミリに達している(10)。

 ニーダムがまとめた元代の金属製銃砲一覧(11)を見ると、口径が判明している8つのうち6つは22ミリから30ミリと小さく、残る2つは105ミリで大きなサイズだ。ニーダムが書籍をまとめた時点ではザナドゥ・ガンは発掘されていなかったが、代わりに彼は英ロタンダにある博物館に収蔵されていた14世紀の中国製銃砲と思われるものを紹介しており、それは至順3年銃とよく似た形状をしている。これらはサイズから見て手持ちではなく使用時は台に据え付けられていたのだろう(12)。元末に董が使ったのはこの据え置き式銃砲ではなく、口径の小さい方だと考えられる。


 明を建国した朱元璋が活躍した時代にも、おそらく元の時代から引き継いだサイズの異なる2種類の銃砲が使われていた。例えば華南で朱元璋と対立した張士誠の陣営にいたものが残した記録には、火筒という武器を進軍中の兵が並んで撃つ場面や、門外の兵が城内に撃ち込んでくる場面がある(13)。おそらく前者では小さい口径の銃砲が、後者では大きな方の碗口銃が使われていたのではなかろうか。

 そう思う理由の1つは統計にある。アンドラーデがまとめた元末から明初期までの14世紀に製造された42丁の銃のデータ(14)を見ても、うち30丁は口径4センチ以下、10丁は口径10-14センチの範疇に収まっており、つまり大半は上記2種類のどちらかに当てはまる。現代まで残っているこれら実物から判断する限り、この2種類の銃砲が大量生産され、実際に使われたと考えるのが妥当だ。

 もう1つの理由は文献史料だ。1488年以前の明では、3年ごとに「碗口銅銃」と「手把銅銃」を3000丁ずつ製造していたという記録がある(15)。もちろん碗口銅銃の方がサイズの大きな銃砲を指しており、おそらく使用時には台に載せて発射したのだろう(16)。手把銅銃は名前の通り手に持つタイプの銃だと思われる(17)。また高価な「銅銃」を景気よく大量に製造していたあたりは、統一帝国が銃砲の開発製造を担っていた中国ならではと言えるかもしれない(第7章)。

 ただ元の時代と比べると微妙な変化は生じている。1つはアンドラーデのデータに出てくる例外事例の1つ、洪武大砲(第7章)だ。長さ1メートル、口径21センチのこの鋳鉄製の銃砲は、銃身に箍のようなリングがいくつかあるのが特徴の1つで、初期の火薬兵器が竹で作られていたのを模倣しているのではとの見方がある。この後、明では「将軍砲」という名前で箍のついている大型砲が製造されるようになっており、洪武大砲はそのはしりだ(18)。

 またこの時期には銃身に火薬を入れた後に木馬子と呼ばれる木製の蓋を挿入し、その上に散弾を入れるという格好で装填が行われるようになった。木馬子は火薬の威力をできるだけ均等に散弾に伝える機能を果たしていたそうだ。さらに火門(点火口)には火捻と呼ばれる導火線を入れており、これは当時の点火法について考えるうえで色々と興味のある仕掛けといえる(19)。

 銃砲の製造技術や発射方法だけでなく、部隊運用についてもこの時期に新たな取り組みが始まっていた。1388年、雲南地方で反旗を翻したタイ族が象を使って攻撃に出てきた。これに対し明の将軍は「銃箭」を構えた兵を3列に並べ、まずは1列目が撃ち、敵が退却しなければさらに2列目、3列目と順番に射撃をするよう命令を出している(20)。撃った後の兵がどう行動するかについては書かれていないものの、後にマウリッツが採用したカウンターマーチ戦術(最前列の兵が射撃した後に最後尾に戻って装填作業をする)を思い起こさせる記述だ(21)。

 アンドラーデによると、こうした交代射撃は古くは銃砲の発明以前、同じように装填に時間のかかる弩が使われていた時代から中国に存在していたという(22)。戦術としては目新しいものではなかったが、明は建国間もないうちにそれを銃砲にも活用したわけだ。アンドラーデは永楽帝の時代にも同様の戦術が採用されたと主張しており(23)、準備に時間のかかるタイプの飛び道具を使ううえで珍しくない手法ではあったのだろう(24)。


 帝位簒奪の過程で銃砲の重要性を見直した永楽帝の時代に入っても、銃砲を巡る技術の発展は少しずつ続いた。1つは手把銃の口径変化だ。元代の手持ち式銃砲は大半の口径が20-30ミリほどあったが、ニーダムやアンドラーデのデータを見ると特に15世紀以降はほぼ15ミリ前後まで口径が小さくなった「永楽軽便手銃」が誕生している(25)。一方、長さはそこまで小さくなっていないため、トータルとして口径長(銃砲の長さが口径の何倍であるかを示す数値)が伸びた。アンドラーデは西欧でも似た変化が起きたことを指摘。口径長が長いほど火薬の威力が弾丸に伝わって弾速が上がり、正確性も高まるというメリットがあると記している(26)。また数は少ないが口径52ミリという手把銃と碗口銃の中間サイズにあたる「永楽中型手銃」もこの時期に生まれている(27)。

 帝位に就いた永楽帝は、銃砲を積極的に活用して対外政策を進めた。代表例の1つが1406-1407年の大越(現代のベトナム北部)征服。当時、大越の王位は胡朝によって簒奪されたばかりだったが、自らも簒奪者である永楽帝は鉄面皮にもこれを非難し、最終的には大越への派兵を決定する。その際に彼は部下に対し、大越側が多数の火器を備えている点を指摘。それに対する対応や中国側の火器である神機銃について敵に知られぬよう用心することを指示している(28)。

 20万人を超える遠征軍が持っていた火器は2万丁に達していたのではないかとアンドラーデは推測している(29)。これらの銃砲が最も印象的な活躍をしたのは1406年12月の多邦城攻撃だろう。城壁を乗り越えてきた明兵に対し大越軍は象を繰り出して抵抗したのだが、明軍は神機銃を持ち出し、銃箭でもってこれを撃退したという(30)。なお銃箭は雲南地方での戦闘にも出てきたが、おそらく同時期の欧州で見られたものと同様、銃砲を使って矢を撃つ兵器だと思われる。

 1407年には碗口砲や大将軍砲を搭載した明艦隊が大越艦隊を相手に何度も勝利を収めた。時には1万人以上の大越兵が戦死し、数百隻の艦船が明に奪われたという(31)。同年夏には大越政権は敗れ、永楽帝はその征服事業を成功裏に終わらせた。大越はその後、1428年まで明の直接支配下に置かれる。

 だが永楽帝はこの勝利に飽き足らず、次は北方へモンゴル遠征に打って出た。1410年の最初の遠征では銃兵を先鋒にしてモンゴル軍を大いに撃ち破ったのだが、この戦いでも矢を使っていたとの記録がある(32)。続く1414年の遠征でも、火銃の射撃に敵が驚いて馬を捨てて逃げ、以後は銃を恐れて近寄らなくなったという話が伝わっており(33)、銃砲が遊牧民相手にも一定の成果を上げた様子がうかがえる。ただし1422年以降に行なわれた遠征ではそもそもモンゴル軍と遭遇できず、銃を使った訓練くらいしかやることがなかったようだ(34)。

 もう1つ、よく知られた永楽帝の事業が鄭和の遠征だ。彼は複数回にわたってインド洋方面への海上遠征を行っているため、その規模はそれぞれ異なっていたと思われるが、そのうち249隻の艦船が参加した2回目の遠征艦隊には、手持ち式の銃が3984丁、碗口銃が996門と、合計して5000近い銃砲が積み込まれていたのではないかとの推計がある(35)。陸上だけでなく海上で見ても、当時の明が世界最大規模の銃砲を持つ火薬帝国であったのは間違いない(36)。


 さらにこの時期になると、中国以外のアジアにも火薬技術が広まり始めていた。1つは永楽帝が侵略した大越だ。14世紀後半、大越はチャンパ(今のベトナム南部)から攻撃を受け首都を奪われるなど追い詰められていた。だが1390年、敵国深くまで攻め込んだチャンパ王の制蓬峩が乗った船の位置を裏切り者が大越側に知らせ、後者の「火銃」による一斉射撃によって王は戦死した(37)。この戦闘は大越とチャンパの力関係を変える転機となったものであり、またベトナムで銃砲が使われた最初の事例でもあった(38)。

 その後、大越はしばらく明に支配されたが、独立後の彼らは急速に銃砲装備を拡充している。当時の彼らが持っていた火器の種類はもちろん中国の銃砲と似ており、1つは重さ3キロ以下のハンドガン(手把銃のようなもの)、1つはボンバルド(碗口銃)で大きいもので9キロ近く、もう1つのキャノン(将軍砲)は重量100キロを超えた(39)。さらに銃砲に記された製造番号や所属部隊から大越の銃砲所有数を推測している研究者もいる。彼によると15世紀後半時点で大越兵の38%が銃を持っており、その数は実に9万8800丁に達していたという(40)。

 単に中国の銃砲を真似て大量生産しただけではなく、彼らはまた独自の技術もそれに付け加えたと見られる。代表例が火門(点火口)についている蓋であり、おそらく中国から銃砲技術を手に入れた直後の14世紀末か15世紀初頭にはこうした装置を取り付けていた。雨の多いベトナムならではの対応だろう(41)。後に永楽帝の侵攻で中国に連れていかれた王族の1人である胡元澄は、中国の官僚機構内で大越式の火器の製造を司ることになり(42)、蓋付きの銃砲を明に持ち込んだと見られている。

 ベトナム以外にも東南アジアの各地に銃砲が広まっていた。今のミャンマー北部には早ければ1397年には(43)、もう少し慎重な見方でも1404年には(44)火器が伝わっていたとの説があるし、タイでも1411年には青銅製の銃砲への言及が出てくるという(45)。さらに鄭和の艦隊がジャワを訪れた1405年に、結婚のセレモニーで火銃が使われているのを目撃しており(46)、明初期に急速に銃砲が広まった様子がうかがえる。

 北東アジアでも同じだ。一時、元に支配されていた高麗では、1356年に有力者が「銃筒」の試射を視察したところ、遠くまで飛んだ矢が地面に半分埋まった、という記録が残されている(47)。ただしこれは元の持ち込んだ銃砲を使っただけかもしれない。高麗で初めて火薬や銃砲を製造したのは、中国人から製造法を学んだ崔茂宣だとされており、彼は1377年に火桶都監の設置を建議している(48)。

 朝鮮半島で進んだ独自の火薬技術発展の一例としては、李氏朝鮮時代にあたる15世紀初頭の火車が挙げられる。1409年に発明されたこの火薬兵器は、矢を装填した数十丁の銃を車両の上に載せ、一斉に発射するものだと記録にある(49)。1451年の記録だと神機箭100個、あるいは四箭銃筒50個と矢の数は変わっているが、基本的な構造は同じだろう(50)。この兵器は16世紀末の日本との戦争時に使用されたとも言われている(51)。

 その日本でも15世紀初頭からいくつか銃砲に関連する史料上の言及が始まっている。1418年には倭寇が中国から手に入れた銃と碗口銃が対馬にあると朝鮮の外交官が報告している(52)。また1450年頃には琉球にも朝鮮と似たような火薬兵器が存在したとの報告があり(53)、彼らは日本でも何らかの火薬兵器を発射している(54)。東南アジア同様、北東アジアでも15世紀には火薬が島嶼部まで伝わっていたことが分かる。

 とはいえユーラシア東部におけるこの時期の火薬兵器の進歩において、中国をはじめとした大陸諸国が先行していたのは間違いない(55)。中国以外の隣接地域まで火薬技術が広まった原因の1つは、おそらく元の崩壊にともなって国家による規制が緩んだことが一因だろう。モンゴル人は、永楽帝との戦で銃砲に恐れをなしているのを見ても分かる通り自ら火薬兵器を使いこなしたとは言い難いが、欧州への伝播以外でも思わぬ形で火薬兵器の拡散に貢献していたわけだ。


 ただし、こうしたユーラシア東部での技術発展は西端で起きた急激な進歩には及ばなかった。またも平和の到来がその進展を止めたと見られる。戦争を好んだ永楽帝が死去した後になると、1449年の土木の変でいくらかの銃砲使用例が出てくるくらいで(56)、明は基本的に平和な時代に入る。同じように周辺諸国でも、西欧に匹敵するほどの兵器の進化は起こらなかった。

 それを象徴するのが、1412年に書かれたという火龍経だ。当時使用されていた多くの火薬兵器の図が収録されているのだが、各種の銃砲や爆弾とは別に、盾に多くの銃を仕込んだもの、鳥や牛などに火薬兵器を括り付けたものなど、あまり実用的とは思われない兵器も描かれている(57)。試行錯誤の過程で結果として役に立たない兵器が生まれること自体はさして問題ないのだが、明の場合はここで書かれた怪しい兵器を選別する機会が訪れないまま、西欧との接触まで時間が過ぎてしまったのが大きかった。火薬の故地である中国は、以後火薬の後進国という立場に滑り落ちる。



01 明史紀事本末巻16; 明史巻5; 明大政纂要巻11

02 Andrade, How Yongle learned to stop worrying and love the gun (2019), pp73-75

03 イアン・モリスの社会発展指数によると明初期の1400年までは東洋が西洋より戦争キャパシティで上回っていた; Morris (2010), pp141

04 元史巻195

05 元史巻188

06 元代军事与国防大势概述, pp84

07 https://www.gmw.cn/01gmrb/2004-06/09/content_40684.htm(2022年10月2日確認)

08 元代军事与国防大势概述, pp83-84

09 https://www.gmw.cn/01gmrb/2004-08/26/content_86898.htm(2022年10月2日確認)

10 元代军事与国防大势概述, pp83

11 Needham (1986), pp290

12 Needham (1986), Fig. 85, 86, 88, 89

13 保越録

14 Andrade (2016), pp108

15 大明会典巻193

16 Needham (1986), Fig. 88。明後期の史料には実際に台に載せられた碗口銃が描かれている; 兵録巻12。なお碗口銃と似た兵器に飛摧炸砲というものもあり、こちらは別の明後期の史料で地面に置いて使われている; 武備志巻52

17 2種類の銃砲の起源は南宋時代の火槍と火筒の違いまで遡るのかもしれない(第5章)

18 鄭巍巍 (2012), pp55-56

19 周維強, 試論鄭和艦隊使用火銃來源、種類、戰術及數量 (2007), pp385-386

20 明太祖実録巻189

21 Andrade (2016), pp145-149

22 Andrade (2016), pp153-157。1131年には宋軍が弓兵や弩兵を複数のグループに分けて絶え間なく射撃をしたという記録が残っている; 宋史巻366。11世紀の武経総要にも交代しながら弦を張って弩を撃つという使い方が載っている; 武経総要巻2。さらに遡ると8世紀頃に書かれた文献に、最初に撃った兵が引きさがり、次の兵が撃つようにすれば、弩を射続けることができるとの記述がある; 通典兵2; 太白陰経巻6

23 Andrade (2016), pp158-159。ただし「連発」との表記が出てくる1414年の事例はともかく、1423年の事例については交代射撃を示す十分な証拠はないと留保をつけてはいる; 明太宗実録巻152, 262

24 交代射撃というと日本では1575年の長篠の戦いが有名だが、交代で撃ったと記しているのは小瀬甫庵の信長記であり、それより古くに成立したと見られる太田牛一の信長公記にはそうした記述はない; Chase (2003), pp250; 信長記巻8; 信長公記巻8

25 周維強 (2007), pp387

26 Andrade (2016), pp105

27 周維強 (2007), pp388

28 越嶠書巻2

29 Andrade (2019), pp77

30 大越史記全書巻8; 明太宗実録巻62

31 Andrade (2019), pp78

32 明史巻154; 明太宗実録巻105

33 北征後録

34 Andrade (2019), pp82

35 周維強 (2007), pp394

36 アンドラーデは明が14世紀後半の時点で保有していた銃砲の数を13万から18万丁と推計している; Andrade (2016), pp55。当時の明を「火薬帝国」と位置づける研究者もいる; Weicong Duan, Ming China As A Gunpowder Empire: Military Technology, Politics, And Fiscal Administration, 1350-1620 (2018)

37 大越史記全書本紀巻8; Etienne Aymonier, The History of Tchampa (1891), pp20

38 Sun Laichen, Chinese Gunpowder Technology and Dai Viet, ca. 1390–1497 (2006), pp75-76

39 Sun Laichen, Chinese-style gunpowder weapons in Southeast Asia: focusing on archeological evidence (2011), pp80-87

40 Sun (2011), pp90

41 Sun Laichen, Chinese-style Firearms in Dai Viet (Vietnam) The Archeological Evidence (2008), pp49

42 万曆野獲編巻17

43 Victor Lieberman, Strange Parallels: Volume 1 (2003), pp146; Kaushik Roy, Military Transition in Early Modern Asia, 1400-1750 (2014), pp21

44 Michael W. Charney, Warfare in early modern South East Asia (2004), pp3

45 Chris Baker and Pasuk Phongpaichit, A History of Ayutthaya (2017), pp92

46 瀛涯勝覧

47 高麗史巻81

48 高麗史巻77; 高麗史節要巻30

49 李朝太宗実録巻18

50 李朝文宗実録巻6

51 Grzegorz Karwasz and Jolanta Kruk, Ideas and implementations of interactive didactics − exhibitions, musea and science centres (2012)

52 李朝世宗実録巻1

53 李朝端宗実録巻6

54 蔭凉軒日録文正元年

55 Sun Laichen, An Age of Gunpowder in Eastern Asia : c.1390-1683 (2006), pp2

56 明史巻92

57 火龍経巻中, 下

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る